879 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 10:14:44.74 ID:6hK/9E1M
>>877 あれは釈尊が常住論を認めるという読みはないね。
それは無理。常住論について説いたことを賛嘆したというだけでしょう。
常住論について述べた『梵網経』とほとんどおんなじじゃなかった?
そこから分かるでしょ。
>>878 文献学で素朴実在論って人は結構いるよ。
そういう人がなんで宗教板や仏教スレに来るかは、
単に縁があったからじゃないかな〜
承狂という人が典型、電波男とかアホダラちゃんもそんなかんじかと。
学者だと和辻とか松本、並川 といった人も大雑把にそんなかんじだと思う。
基本的に輪廻を否定する人は、素朴じゃないにしても実在論に立ってることが多いように思います。
880 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 10:18:22.90 ID:LemLel8A
一在家のルーツをみた気分
881 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 11:27:48.68 ID:YJJHx6Dn
議論スレッドだけあってみんな難しいこと知ってるな
自分には理解できない・・・仏教はえらく難しいがもっとシンプルに語る
ことはできないか世の中を変えるのはシンプルな物だと考えるんだよね。
882 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 12:33:53.14 ID:Iwzj+PXQ
一代さんは止観の意味を理解していないと思う。
止とは心の体験であり、観とはその体験を反省することをいう。
禅定中に観を始めれば、禅定が緩み、禅定が終わってしまう。
だから非想非非想処で観じたら・・・
非想非非想処→観→非想非非想処→観、の繰り返しになる。
非想非非想処をいくら観じても、非想非非想処以上の観はできない。
だからこの観は、滅尽定や涅槃定のために何の役にも立たない。
一代さんは、非想非非想処→観→滅尽定、あるいは涅槃の流れを
合理的に説明できるのだろうか。
884 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 13:00:49.52 ID:KIFuaYAa
色界から無色界に移ったらまず空無辺処になりますね。
これは、五感の刺激は消えるのに五感の識(センサー)がまだ活きてることから、
急に壁がなくなり空間が無限に広がったようになるからでしょうか。
885 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 13:10:11.79 ID:6hK/9E1M
>>882 いや、オイラの説はテキストと伝統に基づくもんだよ
君こそ止も観も勝手に自分の体験に当てはめてるだけじゃないの?
そういうやり方で仏教語るのは仏教に仮託した自分語りでしょ。
>だから非想非非想処で観じたら・・・
というか非想非非想処を含む無色界定では観はできないというのが、
仏教の一貫した立場。
そして四禅で観ができないとなるとアーガマ・ニカーヤを始め様々な仏教経典が
虚偽ってことになるんだけどな〜
だから、自分の体験で勝手に憶測するのは止めないか、
仏教というなら、仏教の伝統に自分の体験を当てはめるのが筋でしょ。
そう考えると君の体験がちょろっとした三昧体験を悟りとか涅槃と勘違いしてると考えるのが最も妥当でしょ。
そもそも他心通は、ちょっとした三昧体験で生じるものだよ。
それがないってのは滅尽定はもちろん四禅すらないと考えるのが妥当ですよ。
オイラには君が自分の体験を盲信して、勘違いであることを認められないだけにしか思えないは。
それとテキストに依らないなら、オイラに対して云々するのは無駄だから止めてもらえないかな。
テキストに依らないなら、要するにに君を信じるかオイラを信じるかって話でしょ。神通合戦でもやらない限り。
886 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 13:11:47.62 ID:6hK/9E1M
>>881 そういうことは本物の聖者から学ぶべきですよ。
ここにそういうことを求めるのは間違いだと思います。
>>866 久しぶりに十住心論出してきたわ。
確かに書かれているのはそうだな。
ざっと見直してみたけどここの所に書いてある空海が書いていることはまあ大体把握した。
で、学問的解釈として空海の解釈が全く間違えているとは思わない。
で、学問的指摘として私の書いていることは合っていないということも理解しました。
ただ、それはどのようにその言葉の意味を取り出してくるかであって、単純にこのレベルだと定めるのは違っているとは思う。
例えば十住心論だと儒教的規範は第二住心に配置しているけれど、儒教の本質はそれに終わるものでないと思っているし。
だから最後に真言の密意として行としての位置付けを書いている。
そしてその上で法身の万徳の一徳であることを踏まえよ、そうでなければ毒になると書いてある。
つまり行法として取り出すと確かにここに配置されるが、法身を得たところからすると別のとり方もできると。
転識得智そのままではないが、空海自身も様々な経や論などの文章を様々な所に融通無碍に散りばめて引いている。
要はキチンと本当の所を捉えた上での必要に応じたはめ方の問題だと思う(だから日常生活にも生かせるわけで)。
(勿論今回の私の出し方に問題があるという指摘は受け取ります。)
>>867 実際に様々なものを身に得てみると分かるよ。
仏道で処理しきれていないところまで踏み込んでいる。
だからチベット密教の後期密教での性的ヨーガを取り込んだ曼荼羅の諸尊が悪鬼のような描かれ方になってしまう。
(日本で後期密教がないのは勿論伝わり方の問題もあるが、バックボーンの違いも大きいと思う。
そこまでいくなら神道に行ったほうが良い。)
仏界でどこまで扱えるのか捉えることも大事。
889 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 15:29:10.73 ID:6hK/9E1M
>>888 いや〜、そりゃ分かってないは。呪術と捉えてるでしょ密教を。
そんなん密教じゃありませんよ。密教についてはこんなところで語りたくないけど、空性と菩提心に基づかないものは密教じゃない。
オイラも分かってるとは言いがたいが、知ってる限りでも全く違う。
密教の密は如来秘密で、空性体験のないものに認識的に秘されているという意味だよ。
忿怒尊がああいう忿怒形で描かれるのは訳がある。ここでは述べないけど。
そしてその空性と菩提心で認識転換された世界がマンダラで、秘密荘厳なんですがな。つまり、密教は本質的に小乗でいう悟り、大乗でいう第六地から始まるわけ。
逆にいうと空性体験がないうちは、密教といっても形だけになってしまう。
で、空性と菩提心で認識転換された世界がマンダラでは、第二住心どころか第一住心までも意味のあるものとなるという意味だよ。
そういう次元を世俗的な話に持ち込んでもね。それじゃ机とかと全くかわんない。
分かんないことは言わない方がいい。
>>884 空無辺処・識無辺処・無所有処は、非想非非想処が持っている様相では
ないだろうか。禅定が深まると、これらを順番に自然に体験すると言うより、
空無辺をイメージし、イメージできたら次の識無辺処を・・・
のような使い方をするのではないかと思う。識は残ってますね。
891 :
絶対神:2012/10/19(金) 18:02:37.84 ID:EaEK4z3G
>>889 そういうのを客観的に言うと「呪術」というのだがね(大笑)
空性とか菩提心とか「なんら客観的でない根拠を持ちだされてもね」w
で、結局のところ、何かを厳密に定義したり、追求したりする場合
それは救済手段としては「まったく無意味なもの」となる
あれもだめ、これもだめ、という事になってしまうからだ
誰も説得できず、誰も救えないのなら仏教は広まらない
はっきりと無意味なのである
小乗が正しいだの大乗が駄目だのと言っている時点で
万人を救済する事に主眼があるのなら
そもそも「真理」と言っている時点で駄目なのである
892 :
絶対神:2012/10/19(金) 18:06:07.70 ID:EaEK4z3G
「極論すれば」
『南無阿弥陀仏と唱えれば救われる』
程度まで簡略しないと
「万人救済など「絶対に無理」である」
逆に言うと
『明確な「信仰宗教」でない限り、『元々、多くの人間を救う事など出来ない」』
神様を信じれば救われると説く
「キリスト教のような宗教が、万人救済としては『もっとも優れている』」
(そういう面だけを言えばね)
『小難しい哲学が入っている時点で、「既に駄目である」』
893 :
絶対神:2012/10/19(金) 18:09:00.37 ID:EaEK4z3G
「幾ら理屈をこねくりまわしても結論が出ないような」
『小難しい宗教哲学と』
漫画のヒーローでもない限り体現できないような
「そもそもどう考えても『あり得ない境地』」
何故、仏教が衰退したのか、良く判る
『もっと単純化したまえ』
「神様は実在するし、人は神様を信じる事によって、救われるのだよ」
894 :
絶対神:2012/10/19(金) 18:12:48.55 ID:EaEK4z3G
「ついでに言っておくと」
『仏教も宗教であり、判りもしない事を延々と言っているものだ』
「死んであの世に行って生き返ってきた人間がいる訳でもないのに」
『どうして生まれ変わりがあると判るのかね?』
前から指摘しているように
「釈迦や仏教の言っている事は、自身が否定しているバラモンやヒンドゥーと大差なく」
『確認不能な「宗教の教義」が幾らでも含まれている』
「寧ろ、死後だの悟りだの解脱だの、「本当は判りもしない事を羅列しているのが
仏教だ」」
『繰り返し指摘しているように、神も奇跡もあっさり認める「キリスト教」の
方がましだ』
895 :
絶対神:2012/10/19(金) 18:16:37.50 ID:EaEK4z3G
「殆どの人間は、そんな宗教が理想とするような」
『立派な人間になんかなれないんだよ』
だから、「万人救済」を目的とするならば(そうでないなら仏教など元々相手に
する価値もないけど(偏狭の宗教と変わらず、批判できる立場にたてない為))
「信仰宗教にするしか『道』はない」
『優れた能力を持つ、「神様(仏様)」に救って貰うという教義にするしか道はないのだよ』
896 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 18:37:21.57 ID:KIFuaYAa
>>890 無色界の4禅定は、
唯識でいう
眼耳鼻舌身の五識、意識、マナ識、アーラヤ識がそれぞれ静まることに対応している?
897 :
暇人:2012/10/19(金) 19:02:09.40 ID:ZRq5CcEJ
>>874 水野先生の
「六十二見の中にある初禅乃至第四禅の禅定をそのまま涅槃であるとする主張」
と
キミの
「六十二見は禅定主義・主定主義に他ならない」ではまったく別の意見でしょ。
水野先生は正確に62見の中から初禅から第四禅までの4見を指定されています。
あなたは62見の中に推論もあるが、62見は直接知覚(=禅定)という立場です。
水野先生のテキストをきちんと読まれてないですよ
>>896 そう言えるね。そしてその状態が続くことで魔境に入る。
神仏が作り出した映像に投げ込まれ、そこで神仏と真剣勝負することになる。
魔境にいる自分は、現実を落とし、まったくの自分そのもの。
899 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 19:42:32.83 ID:6hK/9E1M
>>897 >水野先生は正確に62見の中から初禅から第四禅までの4見を指定されています。
>あなたは62見の中に推論もあるが、62見は直接知覚(=禅定)という立場です。
同じ意味だよ。いくつまでとか面倒くさいからいってないだけ。
ほんとこういう悪意の論法は付き合ってられんは。
直接知覚というのは、過去を直接知覚しているという意味。
君がそれを抽象的議論といったからだよ。
だけど、少なくとも水野先生もその一部は禅定と認めてるから、
六十二見は抽象的議論という君の説は訂正するのか、
それとも水野先生が間違っているか、どっちかだな。
まあ、いずれにしろ、こういう単なるイチャモン・レヴェルじゃ、オイラはもう止めとくは。無意味だ。
900 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 19:43:19.02 ID:6hK/9E1M
>>896 四禅定、非想非非想処以外の無色界定を考えてみたが、
どうもこういった禅定はあるイメージが事前にあり、それに基づくもの
ではないかと気づいた。禅定を深めていく階段であり、慣れたら便利な
道具なのだろうが、これでは非想非非想処がやっとだろうとと思う。
>>897 62見は当時の思想を整理したもの、禅定に基づくものではないです。
瞑想の格好をして考えれば、何でも禅定だとカン違いするなら話は別だが。
でもそんなものは雑念のようなものです。
いまは「四禅定」自体が禅定になってないのではないかと疑ってますよ。
903 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 21:02:33.31 ID:6hK/9E1M
>>902 そう断定する根拠としてのテキストを示してくださいね。
示せないなら、意見する意味がありませんよ。
それがこのスレだと思うよ〜
904 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 21:13:48.12 ID:aaYsKUOg
何かをイメージすることで禅定を深めようとする瞑想法は、
ことごとく誤りである可能性が高い。そのイメージ自体が誤りである
かもしれないし、誤りでなくてもそのイメージが限界になる。
それは禅定における止(体験)でもないし観(反省)でもない。
方法論的に間違っているから、いつになっても悟れないのではないか。
勤務不規則(残業、休出、交代夜勤)の激化で、やっと投稿します。
>>779 >アルハットは七地止まりだけど、菩薩は七地で一切如来に驚覚させられ、
>普賢行を歩むことが簡明に書かれているよ。
>この理解がないと大乗と小乗の関係が分からない。
>この意味で大乗は広大なのだから。
「小乗」だの「声聞乗」だの云々・・というのは、(仏教内の)明確な“差別用語”です。
「阿羅漢」(アルハット)を大乗の下に見做すなど(大乗側の勝手な)偏見であって大間違い。
心を入換えて使用を辞めるようにしよう!!
>>835 >そして仏教は大乗小乗を問わず、
>一貫して外道は観がないから悟れないとしているのは時代も地域も関係ない。
>もちろん例外はあるけど、そういう例外は異端・邪見と伝統の中で見られている。
しかし、そういう割には、
ラマナ・マハルシやババジ直系列の大師方レベルが
仏教圏では全然、輩出できないのは何故なのか?
一代が今もいるという仏教のアルハット以上とは一体、何処にいる誰なのか?
いるならば、ハッキリその個人名を明かして貰いたいものですね。
>>889 >いや〜、そりゃ分かってないは。
バラモン・ヒンドゥーから拝借してきた古代叡智を、
勝手にご都合宜しく大乗風にアレンジしただけのことです。
空性と菩提心・・・などといっても、
無為涅槃を勝手に一切法に含めたのは部派であって
本来のゴータマの教説にはなし。
涅槃も如来も「空」などじゃないから・・・。
(はじめに答え有き--寺院洗脳--で読むから、水野氏の著書も誤読ばかり)
>>438を百回、読まれたし。
>>903 神通力を気にするのは、神通力(他心通)が使えるからですか。
そんな体験があるなら具体的に聞きたいですね。
それから悟ると神通力が使えるのはなぜですか。その仕組みは?
>>751 >空海が十住心論の中で文を引いて「オン」字を以て--略--
横レス失礼します。
『本書は吽(ウン、フーム、huum)という字を字相と字義との二方面から解釈したものであるが、
--中略-- まず字相を説く段では、吽字は賀(カ・ha)・阿(ア・a)、汗(ウー・uu)、麼(マ・ma)の
四字の合成であり、この四字のそれぞれの字相を言えば、訶(賀)は因(サンスクリットのhetva
(hetu、因)の最初のh)、阿は不生(aadi(本初)のa)、汗は損滅(uuna(損滅)のu)、麼は増益
(mama(吾我)のm、一切諸法に我(アートマン)を見る我見我執をここでは増益と言っている)
の意味をもつ。』(『空海の著作ペディア』/吽字義)
空海の著作には『吽字義』(引用転載)というのがあるらしいですね。
本来、これはヒンドゥーで重視し、“聖音オーム(AUMの3音)”として知られる創造音(倍音)で
あって、修行の熟達した者には自然界の森羅万象の総てから物質現象界を現じている創造維
持の神秘力で振動するこの響きが、自身に内的な倍音として聞こえてくるといわれています。
『初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。・・・すべてのものはこれによっ
て出来た。出来たもののうち、一つとしてこれに拠らないものはなかった。・・・こうして言葉は肉
体となり、わたしたちの内に宿った。』(ヨハネ伝1:1,3,14)
この聖書でいうところの“言葉”が聖音オームであり、キリスト教会で使用されるエジプト人の
「アーメン(Amen」)やギリシア人の「アイオーン(Aion)」とラテン語の「アイヴム(Aivum)」、「イー
オン」(Aeon)というのは、その派生語の一つとされる。
>>889 うーん、議論が粗雑だったことは申し訳なく思っている。
言葉をキチンと使わないと少なくとも「議論」にはならないのは分るから。
>>888 のように議論とは違う表現になったのはちょっと覗いて時間がなかったからでもある。
但し、仏道を成するということは脳内の思考ゲームではないよ。
確かに仏教は基本的には認識論だが、それは人間の思考上に留まるものではない。
何を以て呪術と定義付けているのかは判らないが。
少なくともこの世界に於いてどのようにつながっていくのかという実際の所がないと、単なる思考ゲールで終わってしまうよ。
密教の「密」の説明としては全く正しくて空海の説明通りであるし、空性と菩提心に基づかないものは少なくとも仏教では無いと私も思う。
だからこそそこに仏教の限界があるのだけれど。
ナガールジュナが空性について仏教中から取り出すことによりそれが個人的なものではない事を示し、大乗仏教を成立させたことは正にすごいと思う。
ここで初めて釈尊が得たものが単なる人間の個人的な思考の範疇に収まるものではないことが明らかされたのだから。
しかし空性について言えばそれはあくまでも通過点にしか過ぎないし、空海も般若智は最高のものではないと言っている。
空性を通ることで人間の思考とその他のものとを同一上に載せることができるが、そこから更にひっくり返さないと菩提心を得ることは出来ない。
個人的体験から言えば白隠が言うような見性から入り、一つ一つ階梯を踏んで華厳を成するまできたとは思う(仏道に於いては)。
そこから見ると、様々な学問的論の建て方はともかく、基本的には六−九の文章のつなぎ方はよく出来ていると思う。
あれは明らかに自らの身に於いて得たものを以て、それを基本的な骨格にして書いている。
(ダライ・ラマ14世のゾクチェンの見解を読んでもそれは分る。)
それを(どういう意味で言っているのかは明らかではないが)呪術と表現し仏教と切り離した形にするのは違うと思う。
>>906 >>438、どう読んでも、一切の外は無いとしか読めんだろw
>原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化する現象の法に限られていた
>われわれにとっての世界は現象界のみである
>【仏教が】取り扱うのはこの現象界に限られる
で、それ以外は涅槃のみであり、そこに我を見るのは顛倒でしかないだろ。
(水野さんの「転法輪協について」読んでないのか?)
散々論述した通り。 んとに懲りない奴っちゃな・・w
ヒンドゥーではこの意味を教え、このマントラムの使用の仕方を指導します。 発声の仕方は多
様ですが、これを神智学的にいうと、声にすることで濃密肉体次元で作用し、心の中で唱えるこ
とで情緒界のアストラルレベル、想うことで識心界のメンタルレベルで作用します(チャクラとの関
係についてはここでは省きます)。
けれども仏教世界では、単に“阿・吽(あうん)の呼吸”などといった表現としてや真言陀羅尼に
「オン」として使用されているだけであって、これらの教えの真義については殆ど欠落しています。
探した所でなにもない
本当になんにもないとこに涅槃はあると思うな〜
志向作用が常時において全て止んだその先に
仏教に拘る時点でもうアウトな気が…
914 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 22:03:54.61 ID:6hK/9E1M
>>905 >ラマナ・マハルシやババジ直系列の大師方レベルが
>仏教圏では全然、輩出できないのは何故なのか?
>一代が今もいるという仏教のアルハット以上とは一体、何処にいる誰なのか?
>いるならば、ハッキリその個人名を明かして貰いたいものですね。
前も言わなかったかなあ。
チャター・リンポチェ、アチュ・リンポチェなどたくさんいるよ。
ビルマにもたくさんいるらしいけど、そっちはよくしらない。
チャター・リンポチェはカトリックの修道士で有名なトーマス・マートンが一番尊敬した聖者だし、
トーマス・マートンは弟子入りしようとして、その直前に暗殺された。
著名な修道士が仏教の優位性を立証してしまうことを恐れたんでしょう。
トーマス・マートンはヒンドゥー聖者やセイロン、タイなどにも行って広い見識からチャター・リンポチェに弟子入りすることを撰択している。
その概要はトーマス・マートン『アジア日記』で読めるよ。
仏教側ではマハルシやババジなどをそんなに評価してないよ。
もっともオイラにはそこら辺は分からないから、信じるか信じないかでしょ。
しかし仏教というなら、伝統仏教の意見を取るしかない。
ヒンドゥーをとるなら、ヒンドゥーと言えばいいだけ。
915 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 22:22:15.23 ID:6hK/9E1M
>>906 >バラモン・ヒンドゥーから拝借してきた古代叡智を、
>勝手にご都合宜しく大乗風にアレンジしただけのことです。
全然違う。そういう形相、祭式、習慣は大した意味はない。
それは単にインドで起きたから、インド的習慣に縁起しただけ。
同様にチベット的に縁起したり、シナ的に縁起したり、日本的に縁起してるでしょ密教は。
それは形相、習慣に大した意味はない、縁起としてしか意味ないってことなんだよ。
まあ、こういっても全く分かんないで、ヨーガとかアートマン・ブラフマンで解釈してるんだろうけど、それじゃ呪術なんだよ。
そういう呪術的習慣を、空性と菩提心で認識変換して秘密荘厳するから密教なんで、空性と菩提心がなければ単なる呪術なの。
>空性と菩提心・・・などといっても、
>無為涅槃を勝手に一切法に含めたのは部派であって
>本来のゴータマの教説にはなし。
オイオイ、そりゃ逆だぜ。部派が君の立場に接近して涅槃を無為にして実体化したと水野先生は言ってるんだが。
>涅槃も如来も「空」などじゃないから・・・。
いや、パーリ・ニカーヤでは空とは言わないかもしれないけど、少なくとも涅槃は不生とされる。それは空と同じ意味だから。
『ウダーナ』8.1『ウダーナ・ヴァルガ』26.24, 25;『法句経』大正4、791;
『 法集要頌経』大正4, 573b 片山一良「パーリ仏教における涅槃」『駒澤大學佛教學部研究紀要』 59、2001 あたりとその諸註みるとわかるよ。
それと一切法は仮設だから、それって縁起・空ってことなんで
この辺は『入中論自註』評釈を読んでね〜
>(はじめに答え有き--寺院洗脳--で読むから、水野氏の著書も誤読ばかり)
>
>>438を百回、読まれたし。
いや、上のように誤読は君だ。付き合ってられんは、君にも。
916 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 22:26:53.73 ID:6hK/9E1M
>>909 もったいないな〜、いい先生に就けばいいのに
もちろん仏教は思考ゲームではないです。
だけど、ネットで本物の仏教なんか説けないし、私はそんな聖者じゃないし。
それとダライラマのゾクチェン入門は誤訳だらけだからあてにならないよ。
英語で読んだほうがいい。
あとゾクチェンはもちろん、密教は本で読んでもしょうがない。
師匠から習わないとどうしようもないもんです。
あらゆる見解がうごめきあってる
なるほど…
是か非かに問題ありか…
918 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 22:37:43.32 ID:6hK/9E1M
>>914 >トーマス・マートンは弟子入りしようとして、その直前に暗殺された。
アジア日記、あとがきでは自分で感電死したことになってるけど、
暗殺されたと聞いている。
ここは検証が必要ですね。
>>910>>906 >で、それ以外は涅槃のみであり、そこに我を見るのは顛倒でしかないだろ。
宝珠氏も相手さんも、「ゴータマ・ブッダ」「釈尊や仏教」「ヒンドゥー教」のそれぞれ異なる用語を同じように語るからおかしくなく。
仏教の「我」「アートマン」には、「エゴ」と言うニュアンスが含まれるが、ヒンドゥーの「アートマン」に「エゴ」なんて意味は含まれない。
「ゴータマ・ブッダ」に至っては、「我」も「涅槃」も最低限の事しか語っていない。
そこを区別しなければ、永遠に平行線のまま。他で言ってるマハリシ、リンポチェなど聖人に対しても同じ。
と言っても、仏教は、「エゴ」を含めない「我」など絶対に認めない。これは論理でも体験でもなく。「無我」を掲げ「無我」によって歴史を重ねて来たので信念に近い。
仏教=無我の教えといっても間違いではない。無我をここまで、全面に押し出している思想は、他にない。彼らのアイデンティティを傷つける事は、すべきではない。
仏教とは、内向きな宗教。他って置いて欲しいのだ。
反面ヒンドゥー教は、インド以外の地域で発祥した特定宗教以外のすべてをヒンドゥー教と考えているようだから、色々仏教からみて都合が悪い。
各宗教の聖人を比較するには、神智学みたいに既存のものとは別の視点で捉える必要があるけど、神智学は神智学で問題あるねw
>>889 >>888 で
>実際に様々なものを身に得てみると分かるよ。<
で済ませてしまったのは申し訳ない。
これでは議論にならないものね。
後期密教に於いて曼荼羅は中央仏から大日は外れて阿シュクが中央に入る。
これ自体は仏教の理論を推し進めていけば必然である。
なぜなら一切智智ですら本来とりえないものだから。
ただしそれではそもそもそれは「仏」である必要があるのかと言う疑問が生じる。
仏は智見道を開かんが為にあらわれたと空海も経を引いて書いている。
つまり仏の存在意義は全てのもの(人間のような思考を持つとかは関係なく)を悟らしめることにある。
ここで言う悟るとはどういうことか。
全てのものが世界(≠現世)の表象であるという当たり前の事が当たり前であると認識するということである。
華厳で成された多一の世界を経てそこに入る、ならばそこは既に仏のイラナイ世界である。
なぜなら仏の成すことは既に成し終わっているはずだから。
もし仏が必要であるならば、それはまだそれが成し終えていないからである。
つまり成し終えていないならばそこに入ることは出来ないし、成し終えているのならば仏を描くのはオカシイ。
自己矛盾である。
いや、道元が言うように(次元は違うけど)修証一如だからこれで良いという意見もあろう。
つまり仏の加持によりそれが常に保たれていると。
それは胎蔵界曼荼羅に於いてはそうだろう。
しかし金剛界曼荼羅に於いてはそうでない。
あれは既に智見道が完成した世界だから。
それは不二の関係だから仏として描くのだ、となると「うん?」となる。
ここで後期密教に戻る。
一切智智ですら本来とりえないが故に、理論の必然として阿シュクが中央に入る。
しかしそれでは仏教玉ねぎ論が真実ということになってしまう。
ということで本初仏を想定して入れる。
それは先程述べたように仏か?。
仏教は認識論だから認識が行き着く所まで行くとどうしようもなくなる。
表象と認識するだけではなく、表象と観測されて初めて表象は表象足りえる。
そこは本来仏の範疇ではない。
世界を保つのは仏ではないから。
そこに無理から仏を入れる理由はそれをまだ成し切っていないからである。
だから悪鬼の相で描くしか無い。
つまり仏を描くことで逆にそれを呼び込んでいることになる。
だから本来そこは仏として描くべきでない。
だからそこも扱えるものに行くべきとなる。
だから
>チベット密教は理論的には仏教の範疇を越えた所に踏み込んでいる<
となる
(身体的に言うと、仏教の範疇では手足までは本当の意味では扱えないよ。
ダルマの手足がないのはそういうこともあらわしていると思う。)
>>916 学問的な意味では良い先生に学べればと思うよ。
(学生時代もっと真面目にそういうことも出来れば良かったのだが。)
ただ、道を歩む上では少なくとも無常正等正覚に至るまでは徹底して直に叩きこまれたから(生身を持った人間ではないけれど)。
日本というのはそういう意味ではものすごく恵まれていたよ。
本気で向かい合おうと思えばあらゆる所に師匠がいるようなものだったから。
今はシステムが変わっているので違うようになると思うが。
本気で仏道をやろうと思えば、それを本当に導けるものから得なければならなかったと思う。
(そこを成していない人間の書物を読むだけではそれは成すことは出来ないと思う。)
923 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 23:30:40.42 ID:wCGuiyzC
>この聖書でいうところの“言葉”が聖音オームであり、キリスト教会で使用されるエジプト人の
>「アーメン(Amen」)やギリシア人の「アイオーン(Aion)」とラテン語の「アイヴム(Aivum)」、「イー
>オン」(Aeon)というのは、その派生語の一つとされる。
される?
どこの界隈で?
>>871 書きながら分かったけど、やはり安息日は7レベルだと思うよ。
明けの明星はこれから太陽が出てくる先触れに過ぎないし。
これはお話レベルだが。
明けの明星であるルシフェルが天の神にとって替わろうとして天を追われた話を思い出した。
多分取り違いをしている。
(ちなみに私は7の後段レベルを真我、8の後段レベルを大我と言っています。)
それから私の見解では聖書を少し眺める限り、聖書における創世記部分は他からのパクリだと思う。
本当にそれを得て記したのなら、それは分かるから。
925 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 23:38:15.00 ID:wCGuiyzC
>反面ヒンドゥー教は、インド以外の地域で発祥した特定宗教以外のすべてをヒンドゥー教と考えているようだから、
ヴェーダに根拠を持たない、ムレッチャの低級な戯言としか見なさない気がするなあ。
ネオ・ヒンドゥーはやさしく評価してくれそうだけど。
926 :
神も仏も名無しさん:2012/10/19(金) 23:54:36.59 ID:wCGuiyzC
>仏教の「我」「アートマン」には、「エゴ」と言うニュアンスが含まれるが、ヒンドゥーの「アートマン」に「エゴ」なんて意味は含まれない。
梵網経で退けられているアートマン論には現行のヒンドゥー主流派が信じているものもカバーしている。
「心理作用を持たない我」や「心理作用を持つのでもなく心理作用を持たないでもない我」だ。
心理作用のない所にエゴは存在しない。こうした我論を信じる当時や現代の信者もエゴを想定はしてないだろう。
>>910 >で、それ以外は涅槃のみであり、そこに我を見るのは顛倒でしかないだろ。
そう勝手にいってるのは、改変された後代の仏教者ですね。
もう何度も指摘済みなのですけれど、あなた方がこれを認めたくない心情については理解します。
まっ、認めることをしないのは最初から判りきっている(私も読者のために投稿してるので・・)。
ウパニシャッドのアートマンが涅槃における自己としても何ら矛盾がない。
涅槃の意味と比較してもまったく問題なし。
単に、説くのを辞めただけのこと。
判る者にだけは判るということかな?
>(水野さんの「転法輪協について」読んでないのか?)
・・・いえ、存じてません。
Amazonには掛からないのですが、こりゃ図書館借りの必要かな??
>散々論述した通り。 んとに懲りない奴っちゃな・・w
ここで認めちゃお互い商売あがったりw
スレまで終わっちゃう^^
>>914 >仏教側ではマハルシやババジなどをそんなに評価してないよ。
そりゃそうでしょ。
後代に改変された部派以降の伝統仏教では、
「空」か「実存」かといった短絡思考しかないから、
「アートマン(実我)」とかいうだけでアウト(悟ってない扱い)ですからね。
>もっともオイラにはそこら辺は分からないから、信じるか信じないかでしょ。
>しかし仏教というなら、伝統仏教の意見を取るしかない。
>ヒンドゥーをとるなら、ヒンドゥーと言えばいいだけ。
わかります。
あなたの立場上では致し方ない・・・。
私はゴータマの根本仏教は消滅したという立場であるし、
あなたは現存する伝統教団がこれを保持してきたという立場ですからね。
では、あなた方を尊重し、
“異説がある”という言い方に改めることとします。
あと、『アジア日記』は取り寄せます---感謝!!