>>861 >水野先生が批判したのは「禅定主義」ではなく、「主定主義」。
記号に拘るね。同じ意味だよ。
>「定」を悟りだとみなした他教徒の立場を批判したとみられているのだが
>同時に釈尊は常に「定」を修したともみられている。
だから、始めから戒定慧で説いている。慧・観になるためには定・禅定・三昧が必要だと。
>「梵網経」は、「禅定主義」批判をしているわけでなく「観」も説かれていない。
六十二見は禅定主義・主定主義に他ならない。水野先生もそう解釈されてるよ。
> 釈尊当時の外教の人々には、禅定をもって修行の最後の目的となし、
> 定を得ればそれで涅槃の理想境に達したものであると主張する、
> いわゆる主定主義者が少なくなかった。これは前ににも述べたように、
> 仏陀が修行時代に師事した二仙人とか、六十二見の中にある
> 初禅乃至第四禅の禅定をそのまま涅槃であるとする主張とかがそれである。
観という言葉はないけど、六十二見を寂滅に導いている教えが全く観そのものに他ならない。番号118から流転門、145から還滅門ね。これが分からないのはアナタが観を理解してないから。
そして中論も観しか説いてない。だから中道を観じるという意味で中観と言われるわけだけど。
これでも納得しないと恥ずかしいと思うよ。