>>833 >一般的な 『四禅』→『四無色定』→『滅尽定』・・・・いわゆる、九次第定の見解はとらない。
九次第定はとる。
>(理由は、『四無色定』など禅定が深まると、『観』ができない。よって、『観』を
>前提とする『滅尽定』とはならない)
>『四禅』→『四無色定』 で終了。ただし、これは仏教的最終ゴールではない。
禅定主義ではなく、四禅で観が必要。
九次第定は禅定の階梯であるが、必ずしも四禅以上は必要ない。
>『四禅』→『観』 で、その後、「涅槃到達」と「滅尽定」とに分かれる。
>「涅槃なら、仏教的ゴール」であり、「滅尽定」なら、これは迷い道。
>(ただし、その分岐の詳細については不明)
>・・・・・・こういうことでOKかな?
九次第定と止観の関係という意味ではそう考える。
水野先生も言うように仏教は禅定主義ではないんで、観ができる程度の集中力以上は求めないし、禅定主義では六十二見に陥るとするのは『梵網経』以来仏教の一貫した立場だと考える。
そしてそれは釈尊が二師に就いた後、それでは悟れないとしたのは禅定主義、ヨーガの道だけでは悟れないとしたことを裏付けると思う。
そして仏教は大乗小乗を問わず、一貫して外道は観がないから悟れないとしているのは時代も地域も関係ない。もちろん例外はあるけど、そういう例外は異端・邪見と伝統の中で見られている。