>九次第定を初め初期の涅槃を語るのは適切ではないのでは?
大乗で語るのは適切でないという意味?
大乗でなくても禅定・三昧という方法だけで涅槃するというのは仏教ではないのは確実。
なぜなら、それなら釈尊は外道二師の方法を掘り下げることになるから、
そうならないのは禅定・三昧だけではだめとしたということを表し、
初転法輪の五比丘、縁起法頌、釈尊の遺言などが示すのは縁起であり、それが観であること、そこが重要だということに他ならず、
それ以外の『梵網経』なども、そう捉えると一貫して筋道が通る。
水野先生もそう考えておられるし、パユトーなどの現代の伝統的テーラワーダもそう。
もちろん、大乗は一貫してそう。
>あと、水野弘元『原始仏教』って
>>755の入門の方じゃないよな・・・
そう。違う。それにそのレヴューは評者の思いだけで水野先生の考えはほとんど反映されてないでしょう。
こういうの引っ張ってこられると混乱するだけなんだよね〜