>>689 >滅尽定「自体」はあくまでも禅定の境地の内であって、涅槃の境地ではない(別個無関係である)ことは確かですね。
ですよね。
>解脱した仏教聖者が、禅定の純度をずっと高めていって、最高点が滅尽定。
>解脱していない凡俗が、禅定の純度をずっと高めていって、最高点が非想非非想定。
ニカーヤでは他にも、
MN I, 302: 滅尽定から出たビクの心は遠離に傾き、遠離に向かい、遠離に滑り落ちる。
SN II, 151: [七界を説くなかで]想受滅界、この界は滅尽定を得る。
SN IV, 294: 滅尽定は想と受を止滅すること。
Ptm 97ff.: 滅尽定は止観を前提する。止は精神集中。観は、無常・苦・無我などの十六の観法。
ニカーヤでなくてテーラワーダ教学を決定づけている『清静道論』で「定の等流は非想非非想処、観の等流は果定、止観の等流は滅尽定」PTS320と説かれるますので、少なくとも『無碍解道』以降「止観の等流は滅尽定」ということ明文化されているのだと思います。
>いずれも禅定の極みという点では違いはない。解脱(の手段・道)や涅槃とは直接関
>係がないわけですから。
>>691 ですよね。止だけ、禅定だけでは六十二見になるというのは『梵網経』以来の仏教の伝統だと思います。
>>692 そりゃ最初の前提から間違ってますよ。