仏教議論スレッド47

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691不説 ◆AnATTa/dJc
>>671
そもそも禅定の次元上には解脱・涅槃は存在しないと思います。
ところが、仏教以外のあらゆる外道は禅定の境地の中に悟りがあると勘違いしています。
だから、ほとんどの人は禅定境地の延長線上に、涅槃解脱があると思い込みます。
それが「群盲象を撫ずる」の例えです。
富士山の頂上に涅槃があるのであれば、富士山の周囲360度のどこから攻めても構わないが、
ただ標高的に高い方に行けばその先に頂上があると考えます。そうすると、「万教帰一」み
たいな発想にも通じます。
例え、形式上、仏教に所属し、また仏教を標榜する人であっても、そういう点では結局のと
ころ実態は禅定主義を免れていない場合があります。
非想非非想定の一歩先(滅尽定)に行けば覚れるというような発想など典型的なものです。

釈尊はそもそもその禅定主義という“土俵”で勝負していないのだと思います。
だから、「仏教だけが」、ということになるのです。もし、仏教を禅定主義的なものと考え
た上で、同時に「仏教だけが」という主張をするのならば、象(禅定)にタッチしている群
盲の一角に過ぎず、外部者からの相対化による批判に耐え得なくなります。