>>607 一代氏
>あの滅尽定ってのは迷い道で、最終的な境地ではないというのが、
>以下のようにアーガマ・ニカーヤ、諸論書の説くところではないでしょうか?
>
> PTS, DN II, 156: 九次第定で涅槃する時にアーナンダが涅槃と勘違いする
> 倶舎自註 ad 2.43 ff.: 滅尽定は心・心所の止滅。非想非非想処の境地。聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地。
前者は大パリニッバーナ経の釈尊が般涅槃する場面のことでしょうか?
後者は、(一代さんの)指示語の係り受けの誤読ではないですか?
・滅尽定=心・心所の止滅
(それに対して)
・非想非非想処の境地=聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地
だと、特に問題ないと思います。
また、上記指摘は別としても「迷い道」と言う以前に、滅尽定は、何ら「道(手段・方法)」ではないと思います。
・滅尽定に「よって」、解脱するわけではない。
・解脱したら、(その瞬間)滅尽定の状態になる。
スマナサーラ長老の話もそういうことを意図しているものと推察します。
中論の境地(三解脱門)の位置付けに関する議論については私はよくわかりませんので、本来のそちらの議題とは
外れますが、どの道、滅尽定自体は止であり、観ではなく、すなわち解脱には直接寄与しない。従って「最終段階
で止の滅尽定じゃなくちゃいけないのに、三解脱門が観だから、未熟」という
>>595の論考は私には適切なものと
は思えません。かといって迷い道、陥穽とか魔境のように言うのも、ちょっと違和感がありますので、指摘させて
いただきました。どの道、悟っていない人には、滅尽定を起こそうとしても、起こせませんし。