仏教議論スレッド47

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367大滝秀治 
>>394
>非想非非想処の境地もまた、解脱ではないので、そこに執著することを捨てよ
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

『如来は阿呆にして人を済度す。来たることもなく、去ることもなく、生まれつきのままにて、
心をくらまさぬを如来といふ。歴代祖師みなかくの如し。』
『悟る悟るとこのごろせねば 朝の寝覚めも気が軽い』(盤珪)

<生まれつきのまま> <阿呆><心をくらまさぬを如来といふ> ⇒ 縁起の直接現実(あるがまま)の直覚(現観)⇒空・中道

>聖者である婆羅門は、聖者たることを自ら知り

<聖者は聖者ではない、ゆえに聖者という>
 自ら知るんだったら、アウト。 
   
>ウダーナ
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bukkyo95/BR095L017.pdf

 字句がどうあろうと、言語論理なら中道(不生不滅:非有非無:中論25-3・10)にて掴めばいいだけ。

とくに説一切有部編纂のud􌍚ana-B (prose) Ud􌍚anavarga 26.21,P􌍚ali Ud􌍚ana VIII.3 (prose)は誤解を招きやすい。
>>365が典型だし、宝珠もカラスも説一切有部の上記字句を根拠に『超越的アートマン』論(←龍樹 中論25-19)という神秘主義外道論理を展開する。
その根底にあるのは不二一元論という反仏法だ。
仏法は不一不二の空言論というより、無分別中道であるがゆえに、論そのものが空である。
これら反仏法は中論にて破説済みだ。
だからこそ、外道カルトはいわゆる小乗仏教(マハーカッサパ教)を猫なで声で利用する。