>>801 >けしからんとかおもっちゃってるの?
「ゴータマが説いた本物の話で“実話”です。」
ということにしないと、ジャータカとしての存在意義を失うでしょうね。
文献学者は唯物主義の素朴実在論だから認めないだけ、
という方もいるでしょうが、私は神格化であるから認めないという姿勢を摂ります。
どんなに数百、数千年が経とうとも、
世界の何処にも火に自ら身を投じて食べられてあげよう、
などという動物は出現しない。出現したためしもないし、今後もない。
“唯一、ゴータマの過去世だから”などという理屈ならば、尚更、それは神格化に他ならない。
私は、ゴータマは絶対に
ご自身の神格化や崇拝対象にされることを決して望まれていないものと見ています。
多分、神格化されていることを知ったら、すぐに辞めるよう弟子達をお叱りにならなれること間違いなし。
まっ、素敵なお話だと評価したい方は、
もちろんご自由にどうぞ!
>>823 >「釈尊の根本仏教」は「始まりからして大乗であった」
>もしくは「大乗的」であったと推測します。もちろん単なる憶測に過ぎません
>>827 >私は「釈迦の根本仏教」そのものが想像以上に大乗的であった
>否、大乗だったという仮説を立てたい
私の記憶が確かなら、
同じくそういう論旨を立てる学者もいた筈と思います。
「大乗だった」「大乗的だった」という言い方は好みませんが
(大乗の方がゴータマより勝れている的表現なので)、
大乗側が自慢する思想は本来、元々ゴータマの説く原始仏教には殆どあったものと私は見ています。
名残はある。本来の原型そのものは部派によって消失してしまったのかな・・・。
ゴータマ仏陀そのものまで小乗視する
(大乗の方が勝れているという発想)などは待っての他!
これが私の摂る姿勢スタンスです。
>>835 >(今夜、宝珠は不機嫌らしい)
んなことはない!
あなたの気付き“素朴的原始大乗”には大いに賛成しますよ。
>>829 >仏法の仏法たる由縁が縁起にあるとするなら、「廻向」思想と縁起に整合性があるとは納得できん。
>なんぼ大昔の馬鹿坊主のテキストに書いてあってもや。
>
>詳しいいハナシを聴こうじゃあないか。
「廻向」を全面に押し出してるのは、その道がご専門の一代の方でしょう。
ですから、それは一代に問う方が宜しいのではありませんか?
果たして、
(善行の)功徳は他者へと廻向できるのか?
南伝テーラワーダの理解では、
その(自分に対する供養の)行為に対して湧いてくる喜びの念が
自己の救済に寄与すると見ているようです。
これを“得達の随喜”とか“随喜の功徳”などいう。