>>778 「神々」や「悪魔」とは「支持派」や「反対派」の人間であるとしたり、
「龍王」とは「キングコブラ」であるとしたり・・・ということかな?
ならば、この私も疑問符をつけたいと思う。
私の理解では、ゴータマの前に出現した「梵天」や「悪魔」は
ご自身の心の葛藤の象徴的比喩で仏教文学表現。
ゴータマ最終解脱に至る七日間の瞑想においてゴータマをとぐろ巻きして守護したという
「ムチャリンダ龍王」というのは、ゴータマの意識が超常的状態にあることを示している比喩で神通の象徴表現。
基本的には通常、
龍王/龍神とは神界に住む霊的生命体であるとして理解。
>>781 >彼曰わく
>「弟子と師匠の関係は永遠」だそうで
それが現実となるのは、
“覚者とその弟子の関係”においてです。
>>792 >オイラは歴史的にあまり考えてないから。
>>793 >一つ感想を言うと、もともと原始仏教とか、パーリへの関心は希薄だったんだよね
やっぱりね・・・
どうりで変だと思った。
>>784 >釈尊に倣ってホームレスになって修行する方が出ないのはどうして?
私なんかは(一時期)それが望みだった頃がありました・・。。
当時、仏教(原始経典)に出遭って感動した若き日の私は今生解脱しか脳裏になかった。
TV・ラジオ・新聞を見ず、一切の動物質の食事を摂らず、起床から消灯まで行に没頭を続けた数年間。
その熱き想いで社会生活などには興味を失っていた・・・。
山野の屋根無き生活に入って、覚りを目指して修行したいと強く願うようになっていた。
家族との接触も面倒で修行の邪魔だけでしかなかった・・・。
そんな私を変えたのが神智学との出遭いだった。
ズーと抱えていてたインド教の出家至上主義に対する疑問を解消してくれたのは
唯一、この神智学だけでしたから。
暇人さんと一代のこの議論については、
たぶん、暇人さんの方に軍配が上がるに一票かな!!
>史実の釈尊は、弟子たちに対して「師」という立場ではなくて
>同じ「行者」という立場で接していた。
>>783 >
>但し、後代の信仰であるが
>南伝も北伝も、北伝の伝統に従う暇人も三宝帰依を尊重する。
>そのことと、「史的史実」の前に謙虚でいることは別問題だわ
>>788 に、同意します。