7 :
神も仏も名無しさん:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE 天台宗の「三諦偈」「一心三観」「円融三諦」
『中論』の原義から言えば、
「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、全て、
「縁起」「無自性」の言い換えであり、
同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、
ただの「同義語」として使用しているだけに過ぎず、
対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり、ましてや、
「空」と「仮」が、「無」(断見)と「有」(常見)の「二辺」としての捉え方は、
端的に言って、解釈としては、明確に誤りである。
こうした天台宗・中国仏教的な「誤解」を、前向き・好意的に捉えることもできなくはない
実際、語彙・概念にまつわる誤解は混じっているものの、
「空」という概念もまた「非空」なる諸々の概念と相互依存的に成り立っているとも見ることができる
8 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 14:09:38.13 ID:167jiwWB
9 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 14:34:18.90 ID:167jiwWB
一方帰謬論証派
帰謬論証派
↑ 訂正して、お詫び申し上げます
10 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 15:19:36.51 ID:48z+mTAP
>>8 >自立論証派 ← 例えば 「火の熱さや燃焼作用が火の自相として認められる」 とする世俗的な考え方に近い立場
>
>一方帰謬論証派 ← 世俗の次元においても自相(自性)を、否定する
これはゲルク的理解で原義は全くちがう。
自立・帰謬という宗派は、特に言葉はインドで使われなかった可能性が高い。
そして月称菩薩の中観をチベット的に自立・帰謬で呼び習わすとしても、
帰謬派ということはできても帰謬論証派ということはできない。
なぜなら、論証したなら主張・見解を持つことになり、そうなると中観の趣旨である四句分別遮断による戯論寂滅への導きという道から逸脱することになるからだ。
これはゲルクが批判する離四辺中観に他ならない。離四辺中観こそインド中観の王道を伝えるもので、シナ・日本の中観も基本的に変わらない。
一方、特殊な論理学を用いて自立論証を中観に取り入れた清弁菩薩は、だからこそ月称菩薩に批判されたのであって、論証法の違いでも、自相(実在)に対する解釈の違いからでもない。
そんな些細なことではなく、中観の本質に関わる問題だから批判されたのに他ならない。
ゲルク中観はより自立論証的であり、私見ではよりアビダルマ的で全く中観的ではないと思う。
>> 自立論証派 ← 例えば 「火の熱さや燃焼作用が火の自相として認められる」 とする世俗的な考え方に近い立場
>> 帰謬論証派 ← 世俗の次元においても自相(自性)を、否定する
> 帰謬派ということはできても帰謬論証派ということはできない
> なぜなら、論証したなら主張・見解を持つことになり、そうなると中観の趣旨である四句分別遮断による戯論寂滅への導きという道から逸脱することになるからだ
了解致しました
常住な自性、無常な自性、無自性、中観、チベットなどで(日本語限定で)推薦できる処があればリンクの貼り付けお願い致します
12 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 15:57:39.16 ID:48z+mTAP
>>11 もしかして?
?なら、そんなことより水野弘元『仏教要語の基礎知識』を三回音読した方がいいよ。
じゃないなら、言ってください。リンクします。
私【?】以外の人で
常住な自性、無常な自性、無自性、中観、チベットなどに
興味が有る人がいるので
(日本語限定で)推薦できる処があればリンクの貼り付けお願い致します
14 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 16:31:08.27 ID:48z+mTAP
>>13 その人のリクエストがあれば貼るけど、
君は混乱するだけだから、貼らない。
帰謬っていうけど輪廻や仏教が救いになるという根拠のない前提
に反するから間違ってるっていう理屈なんでしょ
16 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 18:35:23.48 ID:48z+mTAP
>>15 全く違うよ。
帰謬っていう場合は、あらゆる思考、見解、主張が矛盾に導かれ、
あらゆる考えが停止して頭真っ白な状態に導くこと。
その場合は、輪廻にしろ四諦にしろ方便として仮設された仏教の教え、
それも停止するために帰謬される。
だから、よく中観は輪廻を否定したとか言われるけど、
それは論証とか世俗的な議論のレヴェルで否定するわけではない。
頭真っ白な状態に導く言葉が、勝義への方便
輪廻とか善悪、四諦など仏教の一般的な道が世俗としての方便
この世俗と勝義をごっちゃにしたり、どちから片方を取って妄想すると、
全く分からないことになる
17 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 18:47:54.56 ID:gWJheXv2
>>5 >反省の上に立って自浄努力をしてないでしょ!
>まだ歴史的総括をしていないし、信徒に是非を問うてない!!
>だから指摘するのです。
接点そのものが無いからね。対話のしようがない。
まぁ、言いたいことはわかる。
>すべてテルマだの感得だので済まされては困る。
これは、わからない。
ひとがどう消化するかにケチをつけてるのかな。
連中が、俺が気に入らない見解・解釈を持つ事が気に入らない。
そういうことかな。
何様のつもりなんですか?
宝珠氏が望んでいるのは、大乗非仏説を明かされる事そのものじゃなくて、その先。
「ニセ仏教」がある種の敗北宣言をして、
信者がもっと離れて、「ニセ仏教」が衰退して
それを見て、溜飲を下げることじゃないのかな。
「仏教」の枠組みがとれた彼らが自分達のような
自由な探求をする人々の列に加わることへの期待もあるかもしれないが。
そのためには彼らに感得説やテルマ説をとられることはこまる。
18 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 18:57:07.30 ID:gWJheXv2
自由な探求をする人々は「 」つきで
「自由な探求をする人々」としたほうがいいな。
修正します。
21 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 20:10:43.78 ID:48z+mTAP
>>19 そういう問いは、なんらかの見解を掴もう、xである、xでない、などという知的理解を求めようという方向で、
帰謬は、そういう何らかの答えを言語的認識的に与えるものではなく、
言語的認識的こそ誤りで、その無明を鎮めるものなんです。
ですから、こういわれても分からないようでしたら根本的に発想の転換をしないと理解できなものだと納得してください。
もしかするといつか分かるかもしれません。
>>21 なぜ言語的認識的な理解が誤りなのか
それがわからないんですけどね。
誤りだというからには理由が掛かれてるんでしょう?
24 :
神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 22:09:58.01 ID:48z+mTAP
>>23 それを示す言葉ばかりですよ仏教は。
無我・空・無常
「これあらば、これあり。これなくばこれなし」
これは此縁性といわれ縁起を端的にしめしています。
「これあらば、これあり」が流転門の縁起、つまり、輪廻の迷いの縁起です。
「これなくばこれなし」が還滅門の縁起、つまり、輪廻からの解脱の縁起です。
「これあらば、これあり」と「これ」と認識する一切を我、本質・実体、恒常と捉えるのが迷いの縁起です。
「これなくばこれなし」と「これ」が空と遮断し、一切を無我、無本質・無実体、無常と捉えるのが寂滅への縁起です。
こういう意味で凡夫の言語によって分節され認識される一切が無明によって我、本質・実体、恒常と捉えるのが迷いでそれによって業を作り、業が苦を生み出す輪廻の円環だから誤りに他ならないと仏教では説きます。
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 瑜伽師地論
人間がまさに死するときに、
過去の輪廻に於いて長い間経験され蓄積された『我愛』が現起し、
その力により促されて自己に愛着・執着し、
無始無終に続いてきた、
戯論(けろん)と善業悪業により、
中有を形成する。
その中有が次に生まれるべき処・縁を求めて、
やがて母体に入り、
ここで父母の精子が結合する時、
中有は滅して同時に生有が生じ、
一切の種子たるアーラヤ識がこれに結合して、
精子は成長し、胎児を形成し、出生に至るのである。