ゴータマ教説の主眼はあくまでも自己修行であって、“わたしにすがったところで決して成仏するこ
とはできない”、何故なら彼らは修行しないからだ、と看破したのです。
かくして小乗経典と謗って、アーガマ(原始経典)を放棄した大乗から完成者(阿羅漢)が輩出しな
いのは当然のことなのです。
『比丘たちよ、だが、もし、比丘にして修習するに精進することがなかったならば、<わが心取著す
るところなくして、もろもろの煩悩より解脱してあれ>と望むといえども、その心は、取著するところな
く、もろもろの煩悩より解脱してあることはできないであろう。
それは何故であろうか。それは修習しないからであるといわねばならない。では、なにを修習しな
いのであるか。四つの熱心なる観想(四念処)を修習せず、四つの正しき精進(四正勤)を修習せず、
四つの意志力の修練(四如意足)を修習せず、五つの能力の修練(五根)を修習せず、五つの能力
の実現(五力)を修習せず、七つの観察(七覚支)を修習せず、また、八つの正しい実践(八正道)を
修習しないからである。』(『雑阿含経』10.8応説/『相応部経典』22.101手斧の柄)