仏教 議論スレッド 46

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300宝珠愚者@(規制代行)
>>250>>255-256>>258
話を判りやすくするために、今から質問の形式を摂ります。
一代はどういうつもりで大乗をテルマによる仏説と主張するのか?

1.大乗はゴータマ仏からの時空を超えた感得テルマである。
  従って、原始経典のゴータマの教えとは何ら違いなし。
2.大乗はゴータマ仏からの時空を超えた感得テルマである。
  従って、大乗は原始経典のゴータマ教示の発展形である。
3.大乗はゴータマではない別存在(複数可)の仏からの感得テルマである。
  従って、大乗も仏説(ゴータマの教説同様に)である。原始経典との教えの違いは仏の個性である。
4.以外の理由

因みに、
この私の摂るスタンスというのは、
“ゴータマによる教説以外を仏説とはいわない”というもの。
従って、神智学も仏説ではない(大乗も然り)。

尚且つ、
神智学文献(学徒による研究書ではなく)はゴータマとは異なる別存在の覚者(仏)
によって与えられたとみる。が、大乗経典、及び大乗教理の一部は高次存在の介入
の可能性は認めるものの、そのレベルについてはかなり不確か。
私の大乗批判は、ゴータマの教説ではないという意味と当然、その内容にある。
その理由(内容的批判)については、この後に投稿します。
301宝珠愚者@(規制代行):2012/09/27(木) 04:17:21.01 ID:ZWF8B/hR
>>266
>実は神智学側でいう「覚者方からの啓示」という形とも明確に構図を異にすると思うしね。
>もし同じ構図だと言ってしまうなら、大乗の先師達もまた、誰かから・どこかから啓示を受けた、
>と言わねばならなくなる。

神智学的理解では、
弟子の(自己修行によって)準備が整ったときに初めて“内なる魂”から、
或いは、高位の弟子存在や覚者からのインスピレーションが与えられる。
通常、殆どの場合、本人は必ずしも外部の高次存在による介入だとは、
知ることができない。これが霊的“閃き”という。
302宝珠愚者@(規制代行):2012/09/27(木) 04:17:43.98 ID:ZWF8B/hR
>>244
>「ゴータマの予言とか透視能力」が立てられるのであれば、
>大乗経典編纂者たちにも「瞑想力」があって、瞑想によって
>500年の時空を飛び越え、釈尊の説法を直接聞法し、大乗経典が成立した
>という話を立てることも可能ではないでしょうか。

架空の想定ならどうにでもできます。
けれども実際、内容が原始経典とはまったく以って異質なのだから、
そういう理屈は通らないでしょう。

>宮元啓一氏は「ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ」で--中略--
>この系譜に袴田憲昭氏などがおられるのではないでしょうか。

確かに、そういう部分がまったく無いとはいいません。
303宝珠愚者@(規制代行):2012/09/27(木) 04:18:14.14 ID:ZWF8B/hR
>>245
>しかし初期大乗は法華を出し、三乗成仏という一乗仏教を説きますので
>早い段階でアンチテーゼを脱したといいうると思います。

 彼らのアンチテーゼは、上座部の出家集団である比丘比丘尼に対抗する在家信仰の確立であり、
これはそのまま修行(三十七菩提分法の修得)の放棄でもあります。彼らは、“修行せずとも解脱成
仏できる”ことを謳い始めたわけです。それがジャータカからアイディアを貰った“慈悲の実践”として
の菩薩行であって(ジャータカ自体が創作逸話です)、その根本精神は、ただひたすら“仏の本願に
スガレ”というもの(仏は大いなる慈悲を以って一切衆生を救わんとする本願を打ち立てている-とい
う解釈)。この場合の重要ポイントは修行の放棄、禁止であり、自己修行による自力解脱の精神性
は他力本願とは相成れないものとした。こうして、原始経典の説く菩提分法の自己修行と決別した
のです。
304宝珠愚者@(規制代行):2012/09/27(木) 04:18:46.99 ID:ZWF8B/hR
>>245
>しかし初期大乗は法華を出し、三乗成仏という一乗仏教を説きますので
>早い段階でアンチテーゼを脱したといいうると思います。
 『衆生は仏の教えを受ける場合、どこまでも仏の本願を信じそれに随順するのみであって、自己の
修行に功を認めるような態度によっては絶対に真の仏果は得られない。これは法華経の方便品の
眼目であると同時に、後世中国・日本において唱えられた浄土教信仰の基調でもあった。』
(横超慧日著『法華思想』平楽寺書店)

 究極的には、法華経を読誦するだけで勝手にこんな功徳が得られるなどと創作し、更には、「南無
妙法蓮華経」の題目だけで法華経読誦と同等の効果を得るものとしたのです。
 もちろん、そういうことは有得えません。
 
 『この法華経を受持し、若しくは読み、若しくは誦し、若しくは解説し、若しくは書写せば、この人は
当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、 八百の身の功
徳、千二百の意の功徳を得べし。 この功徳をもって六根を荘厳して皆、清浄ならしめん。』
(『妙法蓮華経法師功徳品』第十九)