>>265 師から弟子への(直接的時間的連続も込みで)、
因により縁により弟子に生じた知恵をも「感得」「テルマ」だと言うならば首肯できるってことさ。
縁起ってそういうことでしょ?そういう意味で連続性を見るわけでしょ?(輪廻議論の際の心識の相続の如く・・)
そうではなく、どこかにあるものが舞い降りてくるかの如き「感得」という言い方は嫌だなということ。
あくまでも、
「情報(おしえ・知識・ノウハウ・示唆・方便等等)が感受されて(因や縁が紡がれて)、機が熟して、
そこに先人と同じ智慧が生じる」という意味でなら、縁起による感得と言い得るだろうということ。
だから、その意味でいけば、
実は神智学側でいう「覚者方からの啓示」という形とも明確に構図を異にすると思うしね。
もし同じ構図だと言ってしまうなら、大乗の先師達もまた、誰かから・どこかから啓示を受けた、と言わねばならなくなる。