仏教 議論スレッド 46

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239宝珠愚者@(規制代行)
>>225
>神智学を認めながら、
>文献学者の大乗非仏説を根拠にするのは可笑しいと分からないような人と話すことは何もないし、
>多くの人はそんな人が何を言おうと聞く耳を持たないのです。

これは“仏説か否か”ということであって、
この私がいうときの仏説とは“史実のゴータマの説法”以外を指さない。
神智学が如何なるテルマ感得であろうとも、もちろん仏説ではないし、
こちらは最初から仏教などとは誰も主張していない。
同様、大乗教理のどれだけがテルマ感得であろうとも
アーガマを根拠にせずに書かれたものがゴータマの教説であろう筈がなく、
従って、仏説などでは在り得ない。

こんな単純なことすらも分らない人とは、
こちらだってどうしようもないこと。
240宝珠愚者@(規制代行) :2012/09/26(水) 01:07:53.01 ID:kr0XCwVb
参考:
 『大乗仏教運動が起った時点ではすでに諸部派において「釈尊の言い伝え」として承認される経
典の範囲が確定していた可能性は高い。つまり、大乗経典は四部または五部に分類される経典の
何処にも場所を持たなかったと考えられるのである。
 文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相
応部(サンユッタ・ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ
定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。』
(wikipedia)

 『日本仏教は完全に大乗仏教の流れを引き継いだものなので、今でも教典に説かれている教え
はゴータマ・ブッダの教えだと広く信じられているが、これは事実に反する。事実はまさに、まさに
「大乗非仏説」なのである。』(宮元啓一著『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実』光文社)

 『従って今日から見れば、諸宗派の教義は、釈尊の仏教とは直接何ら関係もない哲学思想に過
ぎないのであるが、遺憾ながら、この最も重大な問題には、各宗とも目をおおって、根本的解決を
図ろうとしていない。』(大野達之著『日本仏教思想史』吉川広文館)
241宝珠愚者@(規制代行):2012/09/26(水) 01:10:11.30 ID:kr0XCwVb
 『しかるに、ブッダがなくなられてから数百年を経たのち、いわゆる大乗仏教なるものが起こり、か
つ大乗教典なるものが生産されはじめた。それとともにこの阿含経が持っていた独占的な地位はよ
うやく崩壊し始め、そこからこの経の運命の浮沈がはじまるのである。』
(増谷文雄著『原初経典 阿含経』筑摩書房)
 『しかるに、いま、かくのごとくにしてはじめられた明治以後の新しい仏教研究においては、厳密な
経典批判の結果として、この阿含経典のみが、よく仏教の根本聖典たることを主張しうるものとなっ
た。つまり、今日の仏教研究においては、仏陀の教法をその原初的なすがたにおいて伝える経典と
して、よく学問的吟味にたえるものは、この経典群を措いて他にまったく存しないのである。(中略)
そして、それを私どもは、根本経典と呼ぶのである。』
(増谷文雄『日経新聞』文化欄/論説-昭和55年8月5日付)
242宝珠愚者@(規制代行):2012/09/26(水) 01:23:03.12 ID:kr0XCwVb
>>225
>実際、ここでアナタの説を認める人はカラス以外何人いたか、

いなくても当然、それは最初から承知のこと。
ここには、ただ仏教事典を開けばそこに書かれてあること程度のことしか話せない者、
唯物主義の視点から、仏教の宗教性の確たる部分である輪廻転生や神通を排除する愚か者。
伝統仏教なり、伝統宗門のいうまま鵜呑みにして、これにただ追従するだけの者。
〜ばかりだからです。この私が、このような人々から支持を得られなくても当然のこと。

その中にあって、カラスさんは別格だといえる。
家系の信仰として洗礼を受けた身でありながら、
真実のイエスとは異なるとして伝統カトリックには従わず、
迷信に束縛されることなく、自らの意思で真理の探求を続けられている。
つまり、イエスの説かれた精神そのものに忠実で、
同様の視点から仏教についてもその本質を見抜いている。

>そこをよく考えてもう仏教について云々するのは止めて神智学に専念するか、
>神智学は止めてまともな仏教の師匠に就くかするのがいいよ。

それはこちらのセリフです。
ダメなものはいつでも捨て去る勇気と覚悟が必要。
この私は、神智学であろうが何であろうがいつでも捨てる。