仏教 議論スレッド 45

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901宝珠愚者@(規制代行)
 『原始仏教聖典には数多くのウパニシャッド的表現をもって説かれる語句が存在する。韻文におい
てbrahmanは最高の存在として説かれている。また世間一般においてbrahmanとbrahma^の両者を
区別なく同一視していたと思われる。「brahmaに達した人」や「brahmaになった者」は明らかに「悟っ
た者」を意味しており、「brahmanの輪」「brahmanの道」「brahmanの乗り物」などの語句は悟りに導く
仏の教えを意味している。故に原始仏教聖典に説かれるbrahmanに関する語句を軽視すべきでは
ない。多くの学者は原始仏教の独自性を見出したいがために、聖典の教えをバラモン教やウパニシ
ャッドから切り離して考察しようという傾向が強く、たとえ、聖典の中にウパニシャッド的な表現を以っ
て説かれる語句が存在したとしても、すぐに比喩的表現を用いた教えであると考え、それを釈尊の
説いた真理であるとは認めなかった。しかし、釈尊はバラモンであることを自称し、真のバラモンた
る行為を説いていたのであり、そのような教えを聞いていた出家者、在家者においても、仏教とバラ
902宝珠愚者@(規制代行) :2012/09/15(土) 08:25:54.61 ID:eFouPA8p
モン教やウパニシャッドが求める境地に区別なく、brahmanという語句を最高の存在としてみなして
いたはずである。また散文においては、「brahmanとなったattanによって住する」という定型句が説か
れているように、悟りに達するattanという存在がbrahmanになることを明確に認めている。--中略--
むしろ散文になるとattanとbrahmanの関係が定型句になるほど繰り返し説かれるようになったと考え
るべきであり、我々は原始仏教の悟りの境地がウパニシャッドの悟りの境地と類似していることを認
めざる得ない。--中略--たとえ原始仏教の悟りの境地がウパニシャッドの悟りの境地と同一であった
としても、悟りに至る道を区別して理解すべきであろう。』
(西 昭嘉著『原始仏教聖典におけるattanとbrahman』)
http://ci.nii.ac.jp/els/110002912913.pdf?id=ART0003260118&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1347649521&cp=