>>806-807>>871 神とてまったく同様であって
元々、はじめから全知全能なるものが有得ないということ。
それらは単に人間と引比べての表現に過ぎない
(ただし、無限的存在ではあるけれども)。
全能で完全であるということは進歩がないということ。
つまり、停止していることを意味します。
真実は無限的存在である神が有限界を生じさせて、
みずからが有限界の存在としての濃密肉体である人間を通して
“物質を経験”している姿こそが人間(の成長)であり、
真実は人間の成長そのものが神御自身の成長の糧であるということ。
この事実を直知体験して認識すること、
そして、必要な一定の経験を達成することが我々の当面の目指すべきゴールです。
>>857 >無記ってのは、中立という意味でなく、
>四句分別による論理的断定・成立を取らないという意味なんだよ。
わかっています。
>だから、「無い」と言ってないから「有る」と排中律で認められるというようなもんじゃない。
であるから、仏教は「ある」という姿勢にあるなどとは言っていません。
>だから、釈尊以来、一切外のアートマンは認められてないっての。
それは、
「(あるものとしては)説かない」ということに過ぎない。
アートマンについては一切には存在しないといえるだけであって、
一切外については「無い」ということすらもできない。
ただ無記があるだけです。--それがゴータマの摂る態度でしょう。
>ウパニシャッドとかヴェーダンーンタが現象以外の実在を設定してるのは分かる。
>だけど、それは『梵網経』以来以下のように仏教では否定されている。
>禅定の境地を勘違いしたと考えられてる。
>
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html ヴェーダ/ウパニシャッドそのものに対する否定ではない。
単に当時のバラモンたちの間違いを指摘したまで。
>だから、ヒンドゥーではこういうというならそれは否定しない。
>しかし、それと仏教を混ぜるなって。
あなたのいう伝統仏教とやらがそうであるということは認めます。
両者が異なるものであるということを。
ただしおそらく、
本来のゴータマの教えとは違うものなのでしょうね。
(後で掲載紹介する論文の趣旨に私は完全同意です---ご参考まで)
>>867 >宝珠愚者氏が以前から貫いてるけど、この発想がよくわからない。
>大事なものならちゃんと言明するよなー。
それ(その役割り)は、
ヴェーダ(ウパニシャッド)の正しい修得というものに任せたのでしょう。
事実、原始経典にはヴェーダを讃える文句はあっても批判する言葉は皆無でしょう。
ゴータマの批判とは単に、真理に到達できず誤解を生じて慢心している
当時のバラモンたちの間違いを指摘したまでのこと。
>悟りにも救いにも全く関係無い、「神」や「真我」って、
>そりゃどういうことだよ。「適用外」にするってことはそういうことだ。
これらを扱う道は“正しいバラモン道”に任せたのでしょう。
誤解を生じるバラモンばかりが徘徊してる様をみたゴータマは
まったく異なる別の道を選択したまでのこと。
けれども、目指すべきゴールも結果も本当は同じ。
(ゴールできずにゴールしたと勘違いしているバラモンたちを見て、
ヴェーダそのものの間違いであると誤解しないことです)
〜これが、この私の仏教理解です。
というよりはゴータマ理解ということかな。
現在、伝わっている仏教というはそのものであるとはみていません。
この論文などは、従来いわれ続けてきた仏教観というものが、
如何に一面的な強調(バラモン教とは異なる仏教の独自性の意図的強調)
に過ぎないものであったかを示す典型的なものでしょう。
無我の誤解をはじめ、従来の伝統的仏教観に対する批判的研究は
これからますます深まっていくことになるでしょう。
伝統法門側というのは、保守派として頑なにこういうのを拒む立場を摂るものです。
『原始仏教聖典には数多くのウパニシャッド的表現をもって説かれる語句が存在する。韻文におい
てbrahmanは最高の存在として説かれている。また世間一般においてbrahmanとbrahma^の両者を
区別なく同一視していたと思われる。「brahmaに達した人」や「brahmaになった者」は明らかに「悟っ
た者」を意味しており、「brahmanの輪」「brahmanの道」「brahmanの乗り物」などの語句は悟りに導く
仏の教えを意味している。故に原始仏教聖典に説かれるbrahmanに関する語句を軽視すべきでは
ない。多くの学者は原始仏教の独自性を見出したいがために、聖典の教えをバラモン教やウパニシ
ャッドから切り離して考察しようという傾向が強く、たとえ、聖典の中にウパニシャッド的な表現を以っ
て説かれる語句が存在したとしても、すぐに比喩的表現を用いた教えであると考え、それを釈尊の
説いた真理であるとは認めなかった。しかし、釈尊はバラモンであることを自称し、真のバラモンた
る行為を説いていたのであり、そのような教えを聞いていた出家者、在家者においても、仏教とバラ