>>818 >空でも断絶せず、相続しても恒常でない。
>[業の]罪福も失われない。このようにブッダが説かれる[『中論』17-20]
『ブッダにより説かれた<業は消失しないという原理>は、
業は空性であって断滅ではなく、輪廻であってしかも常住ではない、というものである。』
この偈には直接現実と間接現実の混乱がある。
中論17-20は龍樹の偈ではなく、説一切有部の輪廻転生を前提とした批判対象としての偈だ。
チャンドラキールティも当然、反対者の偈と規定している。これを龍樹の偈とみるのは青目ぐらいだろうw
で、>業が有り果が有る。業と果を作る者は無い。[『勝義空性経』]
『業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す。俗數法をば除く。』
間接現実においては『業報有る』ように知覚・記憶・判断しても、一切内においても実は『作者無し』(無我)。
直接現実においては、無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相の空・中道(非有非無)=時空際断である。
縁起の直接現実(あるがまま)にては「縁って起こる」=相續観念自体がありえない。
直接現実にては相續観念自体がなくとも、間接現実にては、二項相対の妄想として知覚記憶(相續)してしまう。
仏は矛盾なきを矛盾のうちに説く(無分別の分別).
直接現実(勝義空性)の様相を、間接現実(無明世俗)にて還滅(無分別の分別)すれば、
無明の連鎖である十二支縁起(俗數法)なるものは批判排除<除俗數法>されて当然だ。
ならば、<除業報輪廻転生>であることも理の当然だろう。
第一義空法經たるゆえんである。