>>522 私見と断っている以上、それほど深い意味があるわけではないということは、最初に言っておきます。
臨終の説法の補助として、例えたまでですので、この議論自体に、意味があるのかも疑問です。が、
一応答えさせてもらいます。
釈尊自身の教えや抽象的な仏教の経典を読む場合、私は学者ではないので、基本、注や学者の解説を引用し
その解説に添った、またそれに対する自分の理解を説明しますので、そこのところを理解してください。
まず
>歴史的人物としてのゴーダマはその臨終においてさえも、佛教と言うものを説かなかった。かれが、説いたのは、
>いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道である。ところが、後世の経典作者は、佛教と言う特殊な教えを
>つくってしまったのである。
>> ゴータマ・ブッダ 第七章 中村元
ここからも、わかる通り、仏教の教えに釈尊の教えは、関係ありますが、釈尊の教えに仏教の教えは関係ありません。
しかも、釈尊を、神格化していった大乗の経典「正法眼蔵」「中論」は、仏教ならまだしも釈尊自身の教えを、理解する上では、
悪影響が多いと思います。
例えば、質問版で言った通り、釈尊は、「自灯明法灯明」でアートマンを倫理的行為のよりどころとして承認していますが、
仏教では、あなたが
>>522-523で示した通りアートマンを承認していません。つまり、自灯明法灯明を理解する上で、ほとんどの仏教のによる解説は意味をなしません。