>>355 >「只管打座」「修証一等」は、只座るという「現実動作」からの帰納です。
そういうのは帰納なんでしょうけど・・・><
「不立文字⇔演繹」つうたら、何も私が説明せんでもピンとくるでしょ?
公案も同じなんだよ。
「隻手音声」にしても、どう受け止めるか?は、
「白隠の心を感じとれ」ってことですから。→演繹です。
(実際は演繹も帰納もない)→以心伝心
つまり感得つうくらいだから、解釈するんじゃなくて・・・感じとるもん。
(理性【理屈】ではなく感性【覚】)
不立文字ってのは、それを文章にした訳で、
これは師が弟子に伝えたいもんを残す。
悟った人間は、こういうものを後世に残したくなる。
それが人情ってものかとおもいます。
そういう訳で、禅宗の論書は他の宗派と比較すると
その量は甚大になる。
多いから良いってもんじゃないですが・・・
ツールですから、年老いて、再度紐解くと又違った印象になるかもしれんですね。