>>870 >キリスト教文化圏にインドの宗教(哲学)を
>広めると言うのが、神智学の一つの目的として考えてもいいですよね。
思想の基本部分についてはほぼ同一ですけれど、
インド教(及びインド哲学)そのものを広めようという意図はなかったものと思います。
もちろん、欧米におけるインド教に対する“無知や偏見を取り払う方向性”での助力は惜しまない、
という感じかと。
インド教(及びインド哲学)そのもの、
またはその核となる精神性の基礎部分を広めようという確たる目的で欧米に出向いたのが、
ラーマクリシュナの直弟子、スワミ・ヴィヴェーカーナンダであったり、ババジ直系列のパラマ
ハンサ・ヨガナンダなどでした。
>神との合一つまり梵我一如などのは、どの様に説明しているのでしょう?
基本部分は同一です。
ただ、梵我一如そのものが誤解されていて、当時のゴータマの指摘にもあったように、
前段階の過程状態を梵我一如だと勘違いするバラモンたちが大勢いたのです。
この部分について神智学用語と分類とによって明確化を図ったのです。
バラモン教での梵我一如の「我」(アートマン)を輪廻する魂(シッディ)だと勘違いすることがないよう、
神智学では輪廻する魂(ジッディ)は真我(モナッド)の反映であり、
霊(スピリット)である真我が物質(肉体)を経験すべく、
その媒体としての魂を顕現して輪廻の旅を体験させているものとしました。
一定の必要経験を獲得した魂は最後にその役目を終了して、真我へと再び吸収されて消滅します。
ここで意識の焦点が魂に留まり続ける内はこれは果たされることがなく、
一度、“自己意識の完全死”を自覚した後に、真我が自己意識として立ち顕れてくるという体験が必要です。
尚、神智学の姿勢は、何教だけがゴールに達する唯一の道とすることはなく、
どこの宗教や道からもそれは達せられるものと見なします。
本当の進歩は個人によります。