>>786 >クタバル寸前までエエ『修行』さしたるでw
お誘いありがとうです!
お気持ちは嬉しいのですが、残念ながら、
殆どプライベートではなかなか近隣地域から出ることがないです。
今は時間と経済的制約の中でジッと我慢しており、
自身の信仰する本山に参るといった憧れすら叶わず・・・(苦笑)。
>アナタが言ってる『意味』が分りません
あなたが志向する方向性はある程度は正しく、
究極的な勝義的真理を述べているものであることは認めます。が、
しかし、この道にある者の殆ど99%はそれを自己実現させることがありません。
何故なら、ただ単に中論の言葉や論理について“思考を巡らせているに過ぎない”からです。
私が、この道を役立たずと呼ぶのはそういうこと。
>・ところで、クリシュナのバガヴァット・ギーターは反仏教やで。
ここで説かれている問題はまったく同じものなのです。
真理到達への道には、「行為の道」と「非行為の道」の二つがあります。
これは仏教であろうと何教であろうと無関係であり、必ずこの二つの道が途上の者を迷わせるのです。
『中論』の示す内容は完璧にこの後者側であり、
この道に就く者の殆どが、「行為の道」を認めず無価値と見なす愚弄を犯して、
「非行為の道」なる実現不能な道のみに固執するようになります。
(これらの人々は、「悟るべきものは何も無い」とか「既に、今このままですべてを悟っているのだ」
などといって、地道な修行や錬行を放棄します。)
クリシュナの教えはこの問題を明快に教示したものであり、
結果的には、「行為の道」に勝るものがないことを見事に論証します。
このクリシュナの教示は、
仏教の教えと修行をスッポリ当て嵌めて読めば自ずと氷解できる勝れものなのです。
あなたのことがそのまま該等する忠告ですから、これを繰り返し読むことをお奨めします。
特に、ギーターの第三章〜第六章を。
『人は行為に着手しないでは超行為の状態に達せず、また行為の遠離(カルマ・サンニャーサ)によってのみ
完成に到達するものでもない。なぜなら、一瞬間たりとも行為を行わずにいる者はないから。(3:4-5)
行為の実修を修めた者は、行為の結果を捨てて、究極の静寂に到達する。行為の実修を修めない
者は、欲しいままに行動して、結果に執着し束縛される。(5:12)
行為の結果を期待せず、義務的行為をなす者、彼は遠離者(サンニャーシン)であり、実修者である。
単に祭火を用いない者、祭式を行わない者がそうであるというのではない。(6:1)』
(『バガヴァッド・ギーター』)
〜取りあえず、この件はこれで終わりにします。