>>547 もちろん、“世間での「理(=理性論理分別)」解としての真理(世俗諦)”(中論24-8)は想念できる。
問題は、無分別中道(勝義諦)においては、執着を生む二項相対分別概念たる【真理】は中道ではありえないことにある。
ここが悟り=勝義を体得するための乗り越えるべき「関」のひとつだ。
以前(
>>503)に出た【清浄】という価値観念も関だ。
だから、理趣経は仏法に反するインチキ仏教と批判した。
だから、『究極の立場から見られた真理』(中論24-8:中村元 訳)などと言う表現は
ありえないと龍樹を批判している。
まさに廓然無聖 廓然無真 廓然無浄。
さすがに達磨大師は掴んでおられる。