>>256 ≫このことを理解してから
いったい何を理解するのでしょうか。
主体は私は存在しないということを理解するというのは、主体は私は存在しないということを
見抜くということですよね。それは悟り、光明と言われるものではないでしょうか。
では実際に見抜くという光明以外の理解とはなんでしょうか。
それは実際の認識ではなく、他人のの言葉を借りているだけではないでしょうか。
それは自我であるとらわれ、そしてそこから抜け出そうとする努力の苦しみ(むろん無自覚な思考の働き)から逃れるための
一時的な甘い夢であり抑圧でしかありえないのではないでしょうか。
現状私たちにとって私はあります。それが出発点です。
私が存在しないことを実際に見出すのはかまいませんが、なぜ先んじてそれがないということを理解できるのでしょうか。
473は問題を作っているのではなく、我々の現状を描写しているだけです。現状を理解する一つのヒント、刺激です。
自我を問題視も肯定もしません。それに無知であり振り回されている状態から、
自我を理解したうえで便利ならなら使えばいいし苦の元なら離れればいいという
先走った結論のない個人的な探求を提示しています。
ブッダは玉ねぎのたとえを使います。473が語ったことはすべて幻です。(そう何度も述べています)
しかし実際に幻の中にとらわれている我々は自分自身でそれが幻であることを実地で見出してゆかねばなりません。
自己を理解せず結論を先取りするのは気晴らしにはなりますが、自己はより強まり苦しみが戻ってきます。