>>184 >>スレ主(別に返事はなくてもいいです)
興味を持つこと、知的な結論を出すということそのものは、何らかの幸福や安息への希望を含んでいると私は自分に見出しました。
そしてその希望は、緊張であり苦しみではないでしょうか。
例外として
@希望が自己増殖してより強くなり続ける(より強い希望を作り続ける)
A物質的な意味合いでは希望は叶う(断続的欲求不満と引き換えに)
B希望がないがゆえに起きた内面の喜びなのに、希望が戻ってきて自分の手柄という。
この3つの要素が事態を複雑にしますが、希望は緊張と退屈さを生みはしないでしょうか。
知的な結論の先取りは希望を含んでおり、
また「知識もその実体としての働きは」即安息への希望だともいえます。
そしてそれに囚われている私だからこそ、甘い宗教的な希望を抱かせ眠りをもたらすような言葉に抵抗を感じ、
誰もが目を覚ますような火を投げかけ投げかけられることを必要としました。
(それ故にスレ主やグルジェフスレッドのアレもしくはあなたの言葉の背景を理解するだけでなく抵抗し戦っているという指摘はその通りです)
もし囚われていなければそれをもっと自然に適度に起こしめ戦いはないでしょう。
私は事実の認識を求めているだけです。
苦しみをもたらすものだと認識すればたちどころに捨てるでしょう。
苦しみをもたらすものなのにそれに希望を感じているとすれば大変なことです。