1 :
神も仏も名無しさん :
2011/12/25(日) 08:44:25.85 ID:1HVJyMer 善人が環境によって悪人になる。 悪人が環境によって善人になる。 究極の段階に達した心の状態を悟りと言う。 俺は悟りの境地を観た!!
2 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:02:13.88 ID:1HVJyMer
「自分で自分を自分にする」 道元の言葉である。 道元は悟りを自分になりきると言った。
3 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:05:21.35 ID:1HVJyMer
どの時代も似たようなものだ。 僧侶だって人間。 ラクしたいのである。
4 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:06:43.71 ID:1HVJyMer
どうも道元の言ってることを理解して無い者もいる。 道元は「悟りたい気持ちも捨てて修行せよ」と言った。
5 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:07:58.97 ID:1HVJyMer
言葉を解釈するのは人。 「悟りたい気持ちも捨てて修行せよ」 これを悟ってはいけない、と考える僧侶もいるのである。
6 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:09:18.98 ID:1HVJyMer
どう解釈しようが、人の勝手。 しかし、「悟ってはいけない」を修行をサボる僧侶だっている。
7 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:10:37.36 ID:1HVJyMer
そう、これは口実。 並みの僧侶ならいいかもしれない。 しかし、これは住職クラスの人間もなのだ。
8 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:11:23.63 ID:1HVJyMer
一休さんを知ってるだろう? 彼は肉や女も喰った。
9 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/12/25(日) 09:11:46.71 ID:ShPrlZQ0
「悟り」という特別な境地がホントにあると思ってる奴は仏教素人。
10 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:12:30.13 ID:1HVJyMer
一休さんを知らない者は変態扱い。 そりゃあそうだろう。 お坊さんの癖に肉や女を喰う? ほとんどキチガイだ。
11 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:13:19.91 ID:1HVJyMer
12 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:14:22.43 ID:1HVJyMer
肩書きを持った人間は大変だ。 総理大臣の売春がバレてみろ。 大変なことになる。
13 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:16:00.17 ID:1HVJyMer
総理大臣はそんなハレンチなことはしない。 看護婦は清楚で、弁護士は悪いことをしない。 そんなことあるか!!
14 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:17:31.20 ID:1HVJyMer
ハレンチな看護婦もいれば、極悪人の弁護士だっている。 そう、肉や女を喰うお偉い高僧だっている。
15 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:18:29.97 ID:1HVJyMer
これが現実だ。 一休さんはそれを知っている。
16 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:21:27.51 ID:1HVJyMer
現在、道元が建てた永平寺では、こんな修行僧が増えている。 「悟りたい気持ちも捨てて修行せよ」 とは、修行をサボることではない。
17 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:22:38.03 ID:1HVJyMer
仏教とは悟りのための修行。 「自分で自分を自分にする」 そう、自分になりきるのである。
18 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:23:59.83 ID:1HVJyMer
自分になりきる? バカなことを言うな? そのとおりだ。 自分は自分なのに自分になりきるとはどういうことだ?
19 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:25:02.10 ID:1HVJyMer
そう、わけがわからない。 答えは君の心の中にある。 人が教えるものではない。
20 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:25:55.82 ID:1HVJyMer
それが悟りだ。 究極の段階に心が達したとき、自分になりきることができる。
21 :
神も仏も名無しさん :2011/12/25(日) 09:28:17.29 ID:1HVJyMer
今日の悟りの講義はこれくらいにしておこう。 鬼和尚様のお来しも楽しみに待っている。
内容の無い、ただの言葉遊びか。
「自分は悟っている」と悟るのが悟りの境地w
24 :
神も仏も名無しさん :2012/03/16(金) 01:43:42.28 ID:reQJ9x8D
すべては神様の体で出来ている。 仏も神様の体で出来ている 悪魔も神様の体で出来ている。 悪魔は神様の中で悪魔の行いをしたものが悪魔なのである。 すべては元々は神様だけ。 すべてのものが神様なのである。
25 :
神も仏も名無しさん :2012/03/16(金) 01:56:24.51 ID:5QJtP306
まあ悪を知るものとはつまり善を知るものだな お前は優秀だよ
26 :
神も仏も名無しさん :2012/03/16(金) 17:13:25.40 ID:jP3+yeJl
釈迦は究極の悟りに到達したかどうか。したんだろうね。
27 :
神も仏も名無しさん :2012/03/16(金) 17:50:13.18 ID:jP3+yeJl
ただ、2500年前の話だから、釈迦の話がほとんど残ってない。 大乗経典は偽経だから役立たない。無視していいだろう。 そうなると、原始経典から推測する以外に方法がない状況にある。
28 :
神も仏も名無しさん :2012/03/16(金) 18:38:35.41 ID:jP3+yeJl
原始経典を読んで思うこと・・・ @ 後世の弟子たちによって、骨董品に磨きをかけるように磨きをかけられ、 釈迦の生の声が聞こえて来ないような印象を受ける。 A 表面的に読むことは可能だが、理解ではなく行為が求められており、 釈迦の言葉を深刻に受け止めるのはかなり難しいと思う。
29 :
神も仏も名無しさん :2012/03/16(金) 19:00:39.34 ID:jP3+yeJl
日本の仏教は大乗だが、大乗がダメなのは戒定慧を捨てた空仏教だから。 大乗には実体がない。中身がない。行為がない。 行為がないから中身がない。それを空とし、空をさらに称揚する。 いい加減気がつけよ、ニセ坊主ども。
30 :
神も仏も名無しさん :2012/03/16(金) 20:47:22.49 ID:jP3+yeJl
空仏教のために、日本は無明におおわれてしまった。 共産中国や南北朝鮮も同じか、それ以下だが、そろそろ空仏教を清算し、 無明の暗雲を吹き払い、台風一過の青空のような、 世界に誇れる精神文化を作ろうじゃないか。
31 :
神も仏も名無しさん :2012/03/16(金) 22:39:13.85 ID:Mnjv3DL9
上座部よりも大乗のが、ずっと洗練されてるんだよん。 法は洗練されると、逆に分かり難くなるんだよん。 現代の悟った人からすると、 上座部の教えは釈尊の個性が強く出過ぎていて、 却って使い難いと思うんだよん。
32 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 01:57:27.04 ID:yb2iWz4T
原始経典のひとつひとつの詩は平易である。 そういうことなんだろうなと理解することもできる。 ところが、そうやって読み進めて行くとほとんど記憶に残らない。 なぜか。信仰・誠実・真理・自制・忍耐などの抽象語が続き、 物語性や具体性に乏しいからである。
ではどうしたらいい? 自分の気に入った詩をいくつか選び、 それを毎日唱え、暗記したらいいのかもしれない。 そうすべき経典なのだろうと思う。毎日唱えていると、 日々の経験を通し、その深い意味に気がつく日がやってくる。 その時に初めて、釈迦の言葉が生きたものになる。
たとえば、スッタニパータ 八 慈しみ 147 目に見えるものでも・・・一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。 これを「生きとし生けるものは幸せであれ」と省略し、唱え続ければ、 その深い意味に気づく日がやって来る。
ナムアミダブツ、ナンミョウホーレンゲッキョウ と毎日唱えるより、 生きとし生けるものは幸せであれ、と唱える方がどれだけ有意義であることか。 このことがわかれば、原始経典の同じような個所がすべてわかる。 原始経典はこうやって読み進めるべきなのではないだろうか。 重要な詩を選び、それを毎日唱え、暗記し、それが真理であることを悟る。
36 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 02:46:35.53 ID:yb2iWz4T
>>31 大乗信者には悪いが、大乗は日本人の霊性を破壊し、
もはや有害無益の存在でしかない。大乗経典など読むに値しない。
どれもこれも作り話であり、妄想教団と化している。
多少評価できるのは、空、唯識の論書程度か。
だいたい大乗は、坊さんが墓場に住んでいること自体変だろう。 骨に囲まれ、いったい何を考えているんか。それが空の実践なのか。 ゲゲゲの鬼太郎かよと。因果な商売だと思う。
坊さんにとっては墓場が田畑なんだろうね。 骨が人質になっている。 こんなことで生計を立てていることが恥ずかしくないのかね。 乞食が坊主の王道じゃないか。檀家をだますな。
39 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 03:30:10.32 ID:yb2iWz4T
春分、お盆、秋分が近づくと、毎年坊主への疑問が湧いてくる。 いっそのこと、行政が全面的に葬祭事業をやるべきではないかと。 そうすれば檀家に対する独占企業、腐れ坊主を、 いくらかでも矯正できるだろう。かれらは結局、何も悟ってない。 呆れたね。恥ずかしね。日本の大乗は腐ってる。
究極の悟りに到達するにはどうしたらいいか。 じつは仏教の経典など大乗・小乗ともに読まなくてもいいのだよ。 聖書も読まなくていい。しかし読んで学ぶべきものがある。 それはね、フロイト心理学と弁証法である。
なぜフロイトと弁証法かと言えば、このふたつが唯物論だから。 まず唯物論からスタートするのが王道だろうと思う。 フロイトは欠かせない。悟るために「苦しみを経験する」からである。 そしてフロイトは唯識に、弁証法は空思想につながっている。 弁証法は陰陽の太極図程度でいい。この二つでいい。
42 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 04:10:47.52 ID:yb2iWz4T
もう一度繰り返そう。究極の悟りを得るには、 聖書も仏教経典もいらない。フロイトと弁証法を学べば間に合う。 ただし、頭で理解するのでは不足、体で理解する必要がある。 過去のことであれ、現在のことであれ、経験に裏打ちされた思いが、 究極の悟りへと導いてくれる。これが悟りの秘密である。
生きて、心が砕かれること。これが悟りへの第一歩である。 その砕かれた心を癒すためにフロイトを読む。 そして弁証法は、人生が「空」であることを教えてくれる。 これが神への、悟りへの狭い道である。
44 :
Andrew :2012/03/17(土) 04:30:23.86 ID:w9iVlPGb
フロイトも唯物論も、何もかも勉強すべきだよ・・・。 かたっばしから勉強する。 そう言う気持ちが大切。 何が正しいじゃなくて、 型破りに勉強してみればいいのだね・・・。 研究者的気概を持てばいいのだろうね。 究明してみる。 究明するのが楽しい。 そういう素質はあたほうがいい。
それはそうなのだが、日々の仕事、生活上の雑事などがあり、 わたしたちの時間は限られている。読書する時間はほんのわずかにすぎない。 その時間で何を読むのか。できる限り絞り込む必要があると思う。 興味が持てること、読んで役に立つこと、これが基準である。
最初から宗教書を読み始める? これはかなり疑問だと思う。 読んでも興味が湧かないし、かりに読めたとしても盲信する以外にない。 それが誤っていたらどうするのだろう。取り返しがつかない。 そのため「師」を選ぶわけだが、その「師」が本物だとどうやって見分ける? いきなり宗教を始めるジレンマがここにある。
47 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 11:52:13.50 ID:squaM5ZU
何をするにしても「好きこそ物の上手」である。 もうひとつは「急がば回れ」である。 神も霊魂も真理も知らないのだから、まずは唯物論をベースにした方がいい。 その中で、体験的に勧めたいのは、フロイトと簡単な弁証法である。
48 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 12:05:58.87 ID:Qp0XNgHZ
フロイトと弁証法だけは学ばないほうがよさそうだな こんな2ちゃんで連投する奴になりたくない 絶対に病んでるよ
弁証法は「空」がわかるまで学ぼう。弁証法はこの現実で役立つし、 空が手段であることもわかる。空の内容は太極図にある。 フロイトは著作集を読む。実例が多く、小説のようでおもしろい。 運がよければ、この二つで神(真理)に出会うことができる。 そうすれば、聖書を含め、霊的な書物がスラスラ読めるようになる。
空を知り、神を知る。これが順序である。霊魂は最後になる。 なぜなら、雑念→鋭敏な感覚→禅定→魔境→霊魂の瞑想プロセスで、 魔境越えがきわめて容易になるからである。 そうではなく、いきなり瞑想からスタートすると、釈迦や空海のように 塗炭の苦しみを経過しないと霊魂にたどりつけない。
51 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 12:41:25.10 ID:squaM5ZU
宗教関連の本などまったく読まなくていい。心配はいらない。 神、真理、霊魂を知れば、あっという間に、スラスラとみんな読めてしまう。 宗教本の真偽もわかる。これがものごとの順番ではないか。 何もわからないで、神や真理や霊魂にアタックするのは無謀すぎる。 素人が軽装で、エベレストの頂上を目指すようなもの。
52 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 13:17:52.32 ID:squaM5ZU
釈迦や空海は修行で塗炭の苦しみをした。 それではフロイト、弁証法の道は苦労がないのか。とんでもない。 社会そのものの、現実の生活で塗炭の苦しみをする。 働かないと生きていけないからね。生きることが修行になっている。 たぶん、スマートに悟ることはできないのだろう。
フロイトと弁証法など、余暇に、いろいろ考えながら読んでも、 1〜2年もあれば済んでしまう。もちろん、これだけでは悟れない。 現実に苦労し、心が砕かれなくてはならない。 神を知り、悟るためには、世の中に出て苦労することが欠かせない。
54 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 15:08:20.51 ID:squaM5ZU
一切皆苦は、世の中を苦であると見なせ、という意味ではない。 世の中で苦労するから、一切皆苦としか思えない心境を語っている。 一切皆苦、それが神を知り、悟るための必要条件なのである。 だれでも楽をしたいし、楽を目指して努力している。 しかしその逆、苦労の果てに神がいる。こんなことだれが考える?
普通、自分から苦労しようという人はいない。 楽を目指しているのに、社会との関係で苦労へと追い込まれて行く。 世間的には「運が悪い」で片づけられるが、それは偶然ではなく、 もしかしたら神によって選ばれたのかもしれない。 そして神に出会えれば、苦労は癒され、至福そのものになる。
神や霊魂は、人生に苦しんでいる人・悲しんでいる人への祝福である。 逆に、人生を楽しんでいる人・喜んでいる人への災いである。
57 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 15:49:14.64 ID:T2Fes5xt
弁証法といってもヘーゲル弁証法は唯物論ではなく観念論だぞ
ヘーゲルはやめよう。唯物弁証法の入門書でいいと思うが、 興味があれば、フォイエルバッハ、エンゲルス、マルクスの経哲草稿、 レーニンあたりの弁証法に関するもの。弁証法の使い方を学ぶ。
レーニン ・・・ 岩波文庫、唯物論と観念論についての小冊 〜 難易度低 エンゲルス ・・・『自然の弁証法』 〜 難易度低 フォイエルバッハ ・・・ 岩波文庫『将来の哲学の根本命題』難易度中 マルクス ・・・ 岩波文庫『経哲草稿』〜 難易度高 ☆☆☆ マルクスが理解できたら、弁証法は卒業ですね。
フロイトを読むことで、自然に自分自身の精神分析をしている。 読むだけで精神の健康に役立ってくれる。それと同時に、 人間性に関するフロイトの追求から、人間とは何かを学ぶことができる。 後になって思えば、これが重要なカギになったと思う。
61 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 20:53:55.15 ID:VhgZW23p
読む順番は、フロイト → 弁証法がいい。 フロイトはおもしろくて読みやすい。まずは精神の健康が優先される。 元気になったら、弁証法にアタックするといいだろう。
62 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 22:03:32.27 ID:VhgZW23p
旧約と小乗を比較するとき、大きく異なるのは「神との関係」だろうか。 小乗には神との関係を表現した戒がない。原始経典は仏法僧への帰依を説く。 しかし旧約の視点からすれば、これは十戒の第一「あなたには、わたしを おいてほかに神があってはならない。」に違反している。 釈迦はほんとうに仏法僧への帰依を説いたのだろうか。
仏法僧への帰依は後に続く者のウソだと思う。 そういう執着をやめなさい、というのが釈迦の教えではないか。 それなのに、なんで仏法僧が出てくるの?
64 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 22:24:41.77 ID:VhgZW23p
自灯明法灯明ならまだしも、仏法僧への帰依はまったく違うだろ。 原始経典の中にも、坊主どものウソが早くも登場する。 油断も隙もあったものではない(^^) 釈迦の真実の声は、ほんのわずかだと思った方がいい。
65 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 22:39:26.20 ID:bHa+hsE4
釈迦と超能力についての意見を希望。 十大弟子に超能力第一なんて現代の感覚で言ったらぶっ飛び過ぎやん。 それも坊主どもの嘘と言われればそれまでだが・・
神と出会えば必ず運がよくなる。宝クジが当たるわけではないが、 そこそこに生きていく道が外から与えられる。 食べるのに苦労しなくなる。周囲が助けてくれるようになる。 今もそんな感じ。いつも不思議な思いをしている。
以前より、人の気持ちがわかるようになったと思う。 知らない人でも、チラッと見ただけで、その人となりがわかる気がする。 そのせいか、他人をあまり見ないようにしている。 他人なんだから、わかっても仕方ない。
68 :
神も仏も名無しさん :2012/03/17(土) 23:17:02.53 ID:VhgZW23p
輪廻に関しては、アラヤ識の身体を見たので、前世を否定できない。 でも、前世があるとも断言できないでいる。 自分の体験から想像するしかない。 いまのところ、このぐらいのことしか言えない。
もうひとつ大事なことがあった。 祈りが通じるようになったよ。自分勝手な祈りではなく、 どうしてもこれだけはと思うような祈り、これが神に通じる。 自分の利益を祈らないことがコツかな。
神はこの物質世界にはいない。次元の異なる神界にいる。 神は命だが、命がむきだしのままこの物質世界に現れることはない。 この世の生き物は命によって生きているではないかと思うが、 命は何層にも守られ、ようやく物質という衣をまとうようになった。
宇宙は150億年前、地球は50億年前、生物は40億年前、 おぼろげに祖先らしきものは6500万年前、類人猿は2500万年前、 猿人は500万年前、原人は160万年前、旧人は30万年前、 新人(いまの人類)は2万年前に誕生した。 〜 年代は約
72 :
神も仏も名無しさん :2012/03/18(日) 12:16:15.52 ID:ZkYRU/z/
命は10億年をかけて地上に現れ、それから40億年をかけて人類がいる。 命は何層にも守られないと、物質をまとうことはできない。 その層を区別したのが唯識、霊魂 → アラヤ識 → マナ識 → 意識 ということではないだろうか。各識のそれぞれに五感がある。 霊魂は球体だが、それ以外の識はそれぞれが人間の形を持っている。
霊魂は透明である。そこに透明な、静まり返った自分がいる。 何も思わないし、何も思い出そうとしない。 この自分は、現実における「わたし」そのものとまったく同質である。 周囲は白い霧で、それを見ている。それを感じている。視覚と触覚がある。 音が聞こえたら、それを聞くこともできる。聴覚もある。
アラヤ識は、魔境に現れるもう一人の自分である。 人間の形をし、目も鼻も口もあるから、感覚があることがわかる。 それは生きており、外見は別人なのに、それが自分だと即座にわかる。 マナ識は夢の中に現れる自分である。そして意識は肉体を持つ。
75 :
神も仏も名無しさん :2012/03/18(日) 13:29:11.06 ID:ZkYRU/z/
推測だが、十二因縁はもともと、意識以下の識の話だったのではないか。 なぜならアラヤ識が、無明そのものとして登場するからである。 だとすれば、逆観が悟りの道であり、順観はこの世への帰り道になる。 逆観 ・・・ 意識 → マナ識 → アラヤ識 → 根本識(霊魂) 順観 ・・・ 根本識(霊魂) → (通過) → マナ識 → 意識
独覚に十二因縁が割り当てられ、声聞に四諦が割り当てられる。 独覚は目を閉じて独り、「瞑想して悟る」から十二因縁になる。 声聞は釈迦の話を聞いて悟る。四諦を利用し、釈迦の話と自分の経験を 照らし合わせ、自分の誤りに気づく。ゆえに四諦になる。
声聞はピンからキリまでありそうだにゃ。 ピンは、すでに心砕かれ、熟していて、釈迦の言葉をきっかけに、 聖書で言う「聖霊の訪れ」を受けた者だろうか。 このレベルなら独覚と声聞は甲乙つけがたい。
78 :
神も仏も名無しさん :2012/03/18(日) 17:56:57.50 ID:3au/rPmi
そうなると十界(仏・菩薩・独覚・声聞・六道)の序列が崩れる。 だいたい仏とは独覚のことだし、悟りを開かぬ菩薩の利他行などウソだし、 この世には独覚と声聞しかいない。仏=独覚とするにしても、 大乗の致命的な欠陥は「菩薩」ではないだろうか。悟っていないのに、 悟ったかのように振る舞える存在は虚構である。
79 :
神も仏も名無しさん :2012/03/18(日) 18:43:37.60 ID:3au/rPmi
この話はこれぐらいにし、祈りの意味とか、
悪政が天災を招く、ということにも触れておきたい。
神=命が、この大地を目指していることを理解できたろうか。
>>70-72 それがわかれば、神が地上に影響力を持つこともわかるだろう。
80 :
神も仏も名無しさん :2012/03/18(日) 19:41:33.08 ID:3au/rPmi
神が生き物に影響できることはわかるだろう。 問題は、山、川、大地に影響できるかどうかである。 影響できる! なぜなら、影響できるからこそ、生き物が誕生したのだ。 神はこの大地にに影響を及ぼすことができる。えがったなあ(^^)
81 :
神も仏も名無しさん :2012/03/18(日) 20:11:27.11 ID:3au/rPmi
悪政が天災を招く、これを理解したかな。
82 :
神も仏も名無しさん :2012/03/19(月) 16:49:13.17 ID:KP3GBkre
誤解されないように霊魂について補足しておく。
>>73 声を聞くが、その声は自分の声である。呼び戻さないとこの世に戻れない。
神界は清浄なので匂いがない。そのため嗅覚は必要ない。
口がないので味覚も必要ない。〜 霊魂は呼吸をしていない。
聖書には神の声を聞いた預言者の話が出てくる。 クルアーンは神がかりしたムハンマドによって作られる。 日本でも天理や大本は教祖が神がかりしている。 しかし、体験すれば納得できるのだが、幸い体験したことがない(^^) 神の声については半信半疑である。
神は人格神であるのか否か。これについては100%人格神だと言える。 神界にいる神は清浄さの中に静まり返っている。 しかしかりに、神(命)の中に、あらゆる知恵・感情・意志がなければ、 霊魂(命)の中にも、そういったものがありえるはずがない。 霊魂から形成される人間の中にもありえない。
神と自然災害についてもう少し考えてみよう。この世、この物質世界には、 神といえども覆すことのできない自然の法則が働いている。 神は、この法則の範囲内で、この物質世界に影響を与える以外にないだろう。 崖の上や、崖の下に住む人は、本人に責任がある。
日本は運悪く、四つのプレートがぶつかり合う位置にある。 そのため、地震や津波や噴火など、しばしば大きな災害に襲われている。 これは住んだ場所に大きな原因がある。日本人が悪いからではない。 津波で10万人を超える死者を出したスマトラ沖地震も同じ。
そういった場所的な、あるいは時期的な運の悪さもあるだろう。 歴史の中に滅び去ったユダヤ民族も同じかもしれない。 エジプト・アッシリア・バビロニアなど、大国に囲まれた小国の悲劇である。 しかしもうひとつ、人々の思いの悪さ→人々を代表する政治家の悪政が 自然災害の原因になっていないか、という見方も存在する。
88 :
神も仏も名無しさん :2012/03/19(月) 19:20:11.45 ID:KP3GBkre
神は何をしようとしているのか。これを知らなくてはならない。 神(命)は、自分の片割れである物質世界(死)をひたすら追い求めている。 神は大地との「結婚」を追求している。命と死との「結婚」・・・ これが神の思いではないのか。これが善、これに反するのが悪。 悪に出会えば神は怒り、その影響力を大地に行使する。
神(命)と大地(死)の関係とは何だろう? 神が神だけで、大地と関係しなければ、神は単独になって消滅する。 この理屈は大地の側も同じである。 相互に関係し合うことで両者が存在する。実は相性がいい。
90 :
神も仏も名無しさん :2012/03/19(月) 19:48:29.89 ID:KP3GBkre
この地上で、命が粗末にされ、命が苦しみ、この世を呪って死んでいく。 神(命)はこれが許せないのだと思う。 自分(神)が否定されるなら、そんな大地は滅びた方がいいだろう。 地球全体がそうなら、小惑星の衝突も現実になる。
91 :
神も仏も名無しさん :2012/03/20(火) 05:30:15.71 ID:DndE+N9x
神は大地を生き物の世界に変えようとしている。これが神の思いである。 神の思いがわかったら、人もそのように思い、実行する。 金ではなく、生き物(命)を大切にする。 生き物は、人間だけでなく、植物も動物も、小さな虫も大切にする。 必要以上の殺生をやめ、生き物に感謝して生きる。
たとえば次のようなものを毎日唱え、自分自身に言い聞かせよう。 @ 一切の生きとし生けるものは幸せであれ。スッタニパータ147 A 聖書より十戒 ・・・ 覚えるまで紙に書いて唱える。 B 仏教より、不殺生戒で始まる十善戒 ・・・ これも唱えよう。
365日一日も休まず、何年も唱え続けるべきだ。 そうするとある日、その言葉の重要性がわかる日がやって来る。 特に、スッタニパータ147は、釈迦思想の核心ではないかと思う。 これがわかれば悟ったも同然である。
ナムアミダブツ、ナンミョウホーレンゲッキョウ などと唱えるより、 スッタニパータ147を唱える方が千倍も万倍も効果が上がる。 真言などもそうだが、無意味な言葉を繰り返し唱えるのはやめた方がいい。 それなら、呼吸を数え、呼吸を調えた方が役に立つ。
95 :
神も仏も名無しさん :2012/03/20(火) 17:47:53.53 ID:gEFl0oKE
唱えることあるいは祈ることの意味は二つある。 @ 自分に言い聞かせる。心がけのようなものだろうか。 A 神にお願いする → 神にお伺いする ・・・ 気づきはここに入る。
スッタニパータ147は、お願いの方に含めようか。 謙虚に「生きとし生きるものが幸いでありますように」の方がいいね。 わたしはこれを唱えているよ。この方がイーヨナー 元の「幸せであれ」はちょっと偉そうだもんね(^^)
さて、祈りはこんなものだとして、それが神に通じるのはなぜか。 祈りがどうしたら通じるのではなく、なぜ通じるのかという疑問だな。 そんなシステムが、神と人間との間にあるのか否か。 祈りの可能性を根源的に問いたい。
じつは、これについてはすでに話している。 神(命)は地上を目指している。そのパワーは凄まじいものがあり、 10億年かけて生き物を造り、それから40億年かけて人類を造り出す。 神のパワーは、汲めども尽きぬ無尽蔵の井戸なのである。 この世へ、この世へと神のパワーが働いている。
であれば、祈りの波長が神に合えば、神のパワーが働くわけである。 もう少し具体的に言えば、無明や原罪が清算されていれば、 その人の祈りが神に届くことになる。 無明や原罪が清算されているとは、アラヤ識が清算されていることである。
100 :
神も仏も名無しさん :2012/03/20(火) 19:35:47.91 ID:gEFl0oKE
要するに、神のパワーは地上に向かっているのであり、 この波長に合えば祈りが現実になる。 そのためには、無明や原罪の発生源であるアラヤ識を清算する必要がある。 アラヤ識が清算できれば、人間は神の波長に近づくことができる。 これが祈りのシステムではないだろうか。
101 :
神も仏も名無しさん :2012/03/21(水) 00:25:27.22 ID:uJ2CIyiL
神は善そのもの、正義そのものであるから、 正しい人によって正しく祈られたら断ることができない。 正しい人とは、仏教なら釈迦、聖書ならモーセやエリヤだろうか。 アラヤ識(無明や原罪)を清算した人のことである。
アラヤ識がなければ、意識から→マナ識→霊魂→神へと、 人間の思いが直通する。アラヤ識がないだけ通じやすくなっている。 というか、アラヤ識が神との関係を切断している張本人であり、 神などいないという主張が生まれる原因である。 人間はアラヤ識によってフタをされている。
祈りが神に通じるために、もうひとつの問題が横たわっている。 アラヤ識を清算したとしても、正しく祈る方法にはピンからキリがあり、 教科書がないから、自分で試行錯誤する以外にないのである。 うまく行く時もあれば、行かないこともある。まだよくわからない。
ひとり言だが、ひとり言だと話の内容にまとまりが保て、 祈りの話のように、自分でも気がつかなかったようなことにも気づく。 これがひとり言のいいところか。だれかとのやり取りになると、 テーマが飛び、話が深まることなく、いつまでもループしてしまう。 そういう展開は得るところがないように思え、苦手だな。
105 :
神も仏も名無しさん :2012/03/21(水) 01:24:47.94 ID:uJ2CIyiL
運よく聖霊の訪れを受け、瞑想してアラヤ識を清算しても、 それだけで完全になるのではない。その先が長い。 理解できるようになった聖書など、宗教的な書物を乱読し、 さらに自分自身を調えなければならない。これが簡単ではない。 だから、若いうちに、できるだけ早く、頂上に到達すべきなのである。
わたしの場合は幸い、フロイトと唯物弁証法だけだったから、 どこの教団とも無関係であり、苦労したが最短距離だったかもしれない。 なぜそんな選択ができたのか、神の導きとしか言いようがない。 宗教関連など、読まなくてよかったとつくづく思う。 その類は固定観念を作り、逆に邪魔になる。
107 :
神も仏も名無しさん :2012/03/21(水) 21:02:50.53 ID:w9HUqE1Y
アラヤ識に話を戻すが、なぜアラヤ識が神に通じる道を塞いでいるのか、 これには神の側にちゃんとした理由がある。 生き物は、アラヤ識があることで物質に執着し、大地に根付くからである。 動物にしろ植物にしろ、欲が少ないと育たない。 生き物にはアラヤ識が欠かせない。
アラヤ識は無明や原罪の正体である。 それは大地で生きるために、神が用意した装置でもある。 人間以外の生き物はそれでたいした問題はない。しかし人間は違う。 言葉を使い、知識を蓄え、自分の欲望を限りなく追及する。 これが必要以上の殺生という悪を生む。
人間同士の争いから、これでいいのかと悩み、疑問を持つ人も現れる。 こういった人が苦労の末に見出したものが神であり、霊魂ではないだろうか。 もちろん簡単にはいかない。アラヤ識は生き物が地上で生きるために、 神が用意した装置である。それを捨てないと霊魂が登場しない。 霊魂は人間の形をしたアラヤ識に隠されている。
本覚思想は、人間には仏性があり、もともと悟っているのだから、 修行も戒も必要ないという主張である。しかしこれは100%誤っている。 無明であるアラヤ識の中に霊魂が隠されているのであり、 瞑想によってアラヤ識を清算しないと、人間は無明のままで終わる。 輪廻があれば輪廻するし、悪趣に行くかもしれない。
アラヤ識が持っている二重性は、聖書にあるエデンの園にも描かれている。 @ アラヤ識は人間が地上で生きて行くために必要なものである。 A しかしアラヤ識が、霊魂、神との関係を切断している。
112 :
神も仏も名無しさん :2012/03/21(水) 22:18:08.05 ID:w9HUqE1Y
チャクラの話には興味がないが、アラヤ識のフタを開くなら サハスラーラに至る、という風に読めないこともない。 ただし、チャクラを意識して瞑想することには同意できない。 知識や薬物など、そういった小手先では無理、人生でも苦行でもいいから、 とにかく苦労し、心が砕かれていることが欠かせない。
113 :
神も仏も名無しさん :2012/03/21(水) 22:56:23.12 ID:w9HUqE1Y
ヴィパッサナーも疑問。瞑想のやり方とかに矮小化するのではなく、 基本的には、その人が熟しているかどうかだと思う。 シンプルな数息観でいい。それも天台小止観の流布本が簡単でいい。 魔境を避けるような瞑想法では究極の悟りに到達できない。
114 :
神も仏も名無しさん :2012/03/21(水) 23:03:06.64 ID:yfW7gZal
富山県高岡市荒屋敷
>>114 アラヤ識という地名があったのか(^^)
116 :
神も仏も名無しさん :2012/03/22(木) 00:32:31.01 ID:Mw18VZP8
神はどっちを望んでいるのか。 アラヤ識に支配されることか、それとも神に支配されることか。 もちろん、神に支配されることを望んでいる。 神は、人間が神を知り、霊魂を知り、神に支配されることを望んでいる。 であれば、人間が苦労し、心が砕かれることは正しい。
神のような人間が地上に生まれたと仮定しよう。 自分のことはまったく考えず、周囲の幸せばかりを願って行動する。 善そのもの、正義そのものとして生きる。 はたしてこの人は育つだろうか。ひとりで生きていけるだろうか。 たぶん育たないし、生きられないだろう。
そのために神はアラヤ識を用意する。 アラヤ識によって、生き物はこの地上で生きられるようになる。 それは生きている死体である。恐ろしく蠱惑的な死体であると言っていい。 死体とは物質であり、物質に執着する傾向はここから生じる。 もちろん、本物の物質ではなく、神が造った想念体のようなものである。
むきだしの命では育たないから、いったんアラヤ識を生き物に用意する。 そうやって地上に根付いた生き物の中から、人間のような、 神を知る生き物が地上に誕生する可能性を選んだのではないだろうか。 人間をおいて他に、アラヤ識を清算できる生き物はいない。 これが底知れぬ神の智慧である。
120 :
神も仏も名無しさん :2012/03/22(木) 13:10:36.84 ID:uJ9pLdgC
瞑想によって霊魂体験をしたいと思う人がいるかもしれない。 しかし、いきなり霊魂体験を目指すのは相当危険であり、不可能に近い。 釈迦や空海の場合は奇跡である。それより聖霊体験の方が安全だ。 しかし体験するのは至難の業。死にたくなるような精神的な苦労を重ね、 精神的に死なないと体験できない。たとえば聖書のヨブ記。
聖霊体験の場合も問題がないわけではない。 ヨブ記でわかるように、あまりの苦労に、精神病になる可能性もある。 その用心にフロイトが役に立つ。心を砕くことは簡単ではない。 それにしても順序は、聖霊体験 → 霊魂体験だと思う。
聖霊体験があれば、霊魂体験がきわめて簡単にできる。 それから聖霊体験には「入口」がある。「入口」があるからこそ、 それを探し求めることも可能なのである。 ところが霊魂体験には「入口」がない。偶然しかない。
◆ 霊魂体験には「入口」がない ◆ 瞑想のプロセスは、雑念→鋭敏な感覚→禅定→魔境→霊魂体験である。 これを見ればわかるように、瞑想は<禅定→魔境>の流れになる。 ところが、どんな魔境(夢)になるのかについての決定権は自分にない。 魔境は神の主導によって展開する。これが問題なのだ。
魔境(夢)の最初のシーン設定は神によってなされる。 そこに自分(マナ識)がいるのだが、その自分の判断次第で魔境が左右する。 ということは、@どんなシーンに設定されるのか、A自分はそこで 正しく判断できるのか、ということが問題になる。 @は神が主導する。自分がかかわれるのは、Aの部分である。
魔境(夢)のなかで、正しく判断できるかどうか、今でも自信がない。 誤った判断をすれば悪夢になり、その場合は霊魂体験どころではないだろう。 だから、霊魂体験には「入口」がなく、それは偶然としか言えないのだ。 魔境に挑戦するには、その中にあっても正しく判断する能力が求められている。 つまり、その準備が必要になるわけだが、それが聖霊体験である。
126 :
神も仏も名無しさん :2012/03/23(金) 00:11:44.51 ID:jGm9fovT
魔境で正しく判断する? マナ識は人間の形をしているが、それが魔境に翻弄されるのではなく、 目を開いて主体的に行動することを意味している。 そんなことが可能なのか。可能なんだね。
個人的な話をすれば、瞑想して魔境に入ったのは二回しかない。 今思えば、この二回がこれしかないという体験であった。 その後も瞑想を続けたが、禅定までは行けるのに魔境には届かない。 いつしか、こんな体験は何度もするものではないと考え、 さらに瞑想もやめてしまった。今は祈りだけ。
そのかわり夢で不思議な体験を何度もしている。 夢の中で主体的に動く。→ 夢の内容が変わり、よい展開になる。 あまりよくて、目が覚めることもある。ウソのようだけどホントだよ〜ん。 頭が冴えわたって眠れないのだ。もちろん変な夢も時々あるよ。 そういう時は、まだまだダメだなと深く反省している。
自分の夢をチェックする方法もある。 悪夢や支離滅裂な夢を見ている間は反省しなければならない。 夢をもっと活用すべきだろう。聖霊体験をしてから瞑想をスタートする。 これが安全で利口だと思うのだがどうだろう?
130 :
神も仏も名無しさん :2012/03/23(金) 01:15:12.34 ID:jGm9fovT
もし若い人が読んでいてくれたら嬉しいな。 わたしは25歳のころ「空」を知り、 30歳前後で聖霊も霊魂も両方体験している。急ごう。時間がない。
◆ 世の中の電波はピンからキリまで ◆ 鵜呑みにするのはよくない。なんにせよ、納得がいくまで保留しておく。 フロイトも唯物弁証法も同じ。ただ素直に読むのではなく、 誤りはないのかと著者と対決するつもりで読む。
フロイトは独創的で勉強になるが、疑問に思うことも多々あった。 性欲で夢の解釈をするのもそのひとつ。疑問を感じたら、ではどう解釈すべき だろうかと考える。その時わからなくても、いずれわかる時がやってくる。 唯物弁証法は共産主義と結合している。このふたつを分けて読む必要がある。 それから、エンゲルスの『自然の弁証法』は読む必要がないと思う。
133 :
神も仏も名無しさん :2012/03/23(金) 22:29:15.50 ID:o+GSJXwl
十牛図は悟りの段階を簡単に描いている。ただ問題は、ネットで見ると、 牛を「本来の自己」or「真の自己」とする解釈が主流になっている。 しかしこの解釈は間違っている。牛を欲望(食欲と性欲)の象徴にするなら わかるが、牛が「本来の自分」では十牛図の意味が逆転してしまう。 高名な僧侶がこういったデンパを垂れ流すから困るのだ。
仏教は欲望を諸悪の根源とし、欲望を根こそぎにすることを説く。 しかし、欲望を根こそぎにしたら、いまの欲望社会は成立しないではないか。 これを心配したのか、高名な僧侶が時々「大欲」を主張している。 仏教本来の立場からすれば、この「大欲」という主張は完全に間違っている。
精神的な意味での「大欲」なんだと弁解するかもしれない。 しかし、無欲を説くべきなのに、「大欲」を主張したらアウトだろう。 乞食をし、必要最小限のもので満足するのが仏教精神である。 僧侶自ら「大欲」などと言い出すのは、ぜい沢をしている弁解、言い訳、 あるいは、ぜい沢をしたい野心、下心ではないだろうか。
乞食は無理だね。乞食も浮浪者も軽犯罪法違反になる。 ということは、日本は仏教本来の在り方が成立しない社会なのである。 大乗は戒もなく、肉食妻帯の普通の人が僧侶を名乗っているだけ。 葬式で生き延びているわけだから、葬祭業者と変わりない。 葬祭業者と連携しているフリーの僧侶もいるという。
137 :
神も仏も名無しさん :2012/03/24(土) 00:01:41.91 ID:o+GSJXwl
釈迦はなぜ釈迦になれたのか。空海との違いは何か。 @ カピラ城(現在のネパール)の王子として帝王学(人心掌握術)を学ぶ。 A ヴェーダ聖典を学び、ブラフマンやアートマンなどを熟知していた。 B カピラの王子ゆえに強国マガダの庇護を受ける。僧団がカピラ城を継承。 C 当時のインド社会では「乞食」が可能であった。日本より暖かい。
空海はなぜ釈迦になれなかったのか。 @ 日本には乞食を受け入れる習慣がない。冬は寒いしね。 A インドのようなヴェーダの伝統がなかった。アートマン初体験。 B 天皇などの権力者に依存するしかない。鎮護国家宗教へ。
遊行 ・・・ 乞食をしながら各地を旅する。機会があれば説法する。 風を背に受け、寒くなれば南下し暑くなれば北上する。川で水浴びをし 林の中で休息する。身体が丈夫なら合理的な布教活動である。 そういえばイエスも似たような布教をする。それが可能な社会だった。 しかし空海は高野山にこもる。そこが釈迦やイエスと異なる。
釈迦はアートマン(霊魂)体験をして、それをヴェーダ聖典で理解する。 イエスは聖霊体験をして、それを聖書(旧約)で理解する。 神秘体験をした後、それが何なのかを、言葉を通して学ばなければならない。 神秘体験だけでは足りない。その時に役立つのが、 先人の残してくれた聖典であり、その国や民族の文化的伝統なのである。
空海の場合は、大日経と金剛頂経という密教を選んだ。 これらの経典が自分の体験にもっとも近いと感じたからに違いない。 しかし、ヴェーダ聖典もなく、インド的な伝統もない日本では、 それら以上の認識に到達できなかった。これが空海の限界なのであり、 空海が釈迦になれなかった根本理由だろう。
空海は求聞持法で霊魂体験をする。23歳の若さだ! これが空海の誕生であり、空海のすべてであると思っている。 その神秘体験は「谷響きを惜しまず、明星来影す」として伝えられている。 いろいろな説があるようだが、明星は(空海の)霊魂であり、 それを地上に呼び戻す(空海の)声が神界に響いたのだと解釈している。
空海の霊魂が聞いたのは、求聞持法で唱える陀羅尼(真言)である。 求聞持法は100万回の陀羅尼を100日あるいは50日間で唱える。 それは、@禅定→魔境→神界へ入り A神界の霊魂を呼び戻すためにある。 霊魂が抜けても、身体が陀羅尼を覚えていて「再び」唱え始め、 これが神界の霊魂に届き、霊魂を無事に呼び戻すことができるのである。
吽字義を書いたのもそうだし、真言宗という名前もそうだが、 空海が陀羅尼(真言)にこだわる背景には、この神秘体験があるように思う。 陀羅尼(真言)だからこそ、神界に届いたという理解である。 しかし、それが真実かと言えば実はそうではない。日本語も届くのである。 わたしが聞いたのは日本語である。
ナムアミダブツ、ナンミョーホウレンゲッギョー でもよさそうだが、 これだと精神集中で終わりそう。禅定かどうかも怪しい。 求聞持法は落命する者もいるほど過酷であり、とても比較にならない。 問題は過酷過ぎて挑戦する者がほとんどいないということか。
こういったことが空海の原点だと思うが、 真言宗を開いてからの空海は少しズレたのではないだろうか。 信者には現世利益の修法を前面に出し、弟子には簡略化した求聞持法を説く。 印契を結び、口で真言を唱え、心に大日如来をイメージする。 三密加持すればすぐにでも成仏すると。
求聞持法を勧めたのでは、みんな逃げちゃうものね。 信者を獲得し、弟子を集めるためには仕方なかったのかもしれない。 そのかわり真言宗には、空海のような神秘体験をする人が現れなくなる。 不動明王の掛け軸を前に、ひたすら護摩を焚いて真言を唱えても、 願いはかなわないだろう。修法者が空海なら別だが(^^)
というか、空海はどこかで方針転換をしている。 かれは吽字義で「草木また成ず、いわんや有情をや」と書いているという。 天台宗安然の「草木国土悉皆成仏」や大乗涅槃経の「一切衆生悉皆仏性」と 同じであり、苦しい修行をしなくても成仏する、という本覚思想である。 悟りを求めて苦労した若き日々を忘れている。
149 :
神も仏も名無しさん :2012/03/24(土) 15:03:27.48 ID:GW4bdXEG
これで真言宗から名僧が現れない理由がわかってきた。 かれらは悟りを求めていないのだ。 空だとか本覚思想だとか、やっぱし大乗はだめだねえ。
空海の意義は、求聞持法で霊魂体験をしたことにつきるだろう。 言葉へのこだわりについては理解できないわけではない。 神秘体験をしても、それが何であるかを読み解かなければ落ち着かないし、 次に何をなすべきかもわからない。それが究極の体験だと知れば、 悟りを求める旅も終了する。人間は言葉によって着地する。
空海は、大乗の空に関係ないかと言えばそうでもない。
もともと大日経は龍猛(龍樹?)を経由して空海に伝来したと言われている。
霊魂体験をした空海でさえ、空の思想を信じ、さらには「草木また成ず、
いわんや有情をや」と言っている。
>>148
同じようなことは最澄も法華秀句で、「草木また空に従ひて成す。 まさに是れ衆生なるべし」と言っている。 大乗の二大祖師が、空、本覚思想の持ち主であったことになる。 空、本覚思想は、その後の天台・真言・浄土系・日蓮系に影響している。 禅宗は悟りを目標に修行するが、悟りの中味は空に設定されている。
153 :
神も仏も名無しさん :2012/03/25(日) 00:12:49.27 ID:NZu9Joii
空海の話は飽きちゃったので、戒や肉食妻帯の話題に変えるね。 見出しをつけないから、話題の転換に苦労するお。
究極の悟りを求めているなら、結婚して子供をつくらない方がいい。 なぜなら、精神的に死ぬことが悟りだからである。 悟ろうと思えば、苦労の連続になり、妻子を必ず不幸にしてしまう。 これが僧侶や神父が独身を求められる理由である。 妻子を優先したら悟れない。
悟ってから結婚であれば、できるだけ早く悟らなければならない。 遅くても30前後には悟っている必要がある。 逆算すると、それこそ子供のころから悟りを目標にして暮らすべきである。 ユダヤ教やイスラム教やヒンズー教の子供たちは、幼いころから 聖書やクルアーンやヴェーダに親しんでいるのではないか。
だれであれ、修行中の者は結婚しない方がいい。 しかし悟った者は、機会があれば結婚して子孫を残すべきである。 そういった区別がなく、一律に結婚を禁じるカトリックや、 上座部仏教のあり方は逆に不自然だと思う。 不自然なことをやっているから、聖職者の性犯罪が後を絶たない。
キリスト教は死後の天国を願い、この世に対して否定的である。 仏教もこの世からの解脱(悟り)を願う。 仏教からもキリスト教からも学ぶべきことは多々あるが、 この世を否定的にとらえる宗教は基本的に間違っていると思う。 本当に悟った者はこの世を肯定するだろう。
聖霊の訪れ、霊魂を体験した者は次のように感じるだろう。 神はお造りになったすべてのものをご覧になった。 見よ、それは極めてよかった。夕べがあり、朝があった。(創世記1.31)
聖職者(教師)は社会で普通に暮らし、修行を望む者は道場(学校)に通う。 これがまともなシステムだと思う。相応の授業料も必要だろう。 基本は独身男性の道場とし、そのほかに結婚した社会人用の道場や、 女性専用の道場もあっていいだろう。 子供から大人になるための、通過儀礼のような役割を宗教が担う。
160 :
神も仏も名無しさん :2012/03/25(日) 12:43:17.20 ID:R2AFBjre
出家制度は疑問だね。人間関係が下手な人ほど、悩み苦しみ、 生きる意味を考え始める。それが実は悟りに欠かせない。 それなのに出家制度へ逃げ込むと、そこは社会と異なる特殊な世界だから、 もはやそこから出られなくなる。羊は狼の社会では生きられない。 社会で悩み苦しむことこそ最善の修行なのである。
修行 ・・・ オウムもそうだが、みんなカン違いしている。 聖霊の訪れ、霊魂体験には「精神的に死ぬ」ことが求められている。 滝行や断食など、身体を痛めつけることはスジ違いだよ。 そうではなく、親離れし、社会の中で精神的に苦労することが肝心。 最初から坐禅などやるな。悟りの方法が誤っている。
162 :
神も仏も名無しさん :2012/03/25(日) 19:01:55.49 ID:R2AFBjre
人間関係に疲れたら休めばいい。音楽も絵画も彫刻も文学もあるよ。 気分転換に引っ越しも、転職するのもいいだろう。旅行もいい。 映画もスポーツも趣味もあるよ。友人と酒を飲むのもいいだろう。 生きるつらさを、やり過ごすのも生きていく知恵なんだね。 その挙句、運よく「精神的に死ぬ」なら、これこそ真の修行ではないか。
フーン。でも世間で人並みにやろうとしてことごとく挫折して 路頭に迷ったとき、それでもやれとは言えないですよね。 まあ、そこで自己の因縁を自覚して殊勝な精神を起こしたかと言われれば そうなってないのだから、まだ甘いのかもしれません。 「あんたらに言われたくない。」という気持ちが働いて、自分を向上させる 気になるという点で2ちゃんほど精神的打撃になるものは無い・・・w
実際の苦労と精神的な苦労を区別してください。 この二つは無関係ではないが、人間はちょっとした苦労でも精一杯苦しむ 傾向があります。そういった精神的な苦労が修行になるという話です。 金がなく食うに事欠くとか、病気や怪我で苦しんでいるなら、 実家に帰るなり、生活保護を申請すべきです。
繰り返すけど、ただ単に苦労すればいいのではなく、 フロイトと弁証法を学ばないと、骨折り損のくたびれ儲けになる。 何の装備もなくエベレストの頂上を目指すようなものだろう。 山の麓から上の方まで、途中で倒れた無数の骨が散らばっている。 少なくても、フロイトと弁証法(空)を装備してほしい。
十牛図を見れば、どうしたら悟れるのかを簡単にイメージできる。 ただし、牛を本来の自己にしたり、八図の人牛倶忘を空にしたら落第だね。 十牛図は、序や頌をいっさい無視し、図だけをジーッと眺める。 そして自分なりに理解すればいいのではないだろうか。
ついでだから十牛図をやっておこうか。 @尋牛(じんぎゅう) A見跡(けんせき) B見牛(けんぎゅう) C得牛(とくぎゅう) D牧牛(ぼくぎゅう) E騎牛帰家(きぎゅうきか) F忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん) G人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう) H返本還源(へんぽんげんげん) I入廓垂手(にってんすいしゅ)
十牛図の解釈は二通りあると思う。 A いきなり霊魂体験のパターン ・・・ 求聞持法とは異なる。 B 聖霊体験 → 霊魂体験のパターン ・・・ これが理想的である。
A いきなり霊魂体験のパターン @尋牛 ・・・ なぜ生きているのかと、生きる意味を探し始める。 A見跡 B見牛 ・・・ 自分の中に野生の牛(欲望)がいることを知る。 C得牛 D牧牛 ・・・ 欲望をコントロールしようとする。
E騎牛帰家 ・・・ 孔子の「七十にして心の欲する所に従いて、 矩(のり)を踰(こ)えず」という心境ではないだろうか。 七十はともかく、自分の中に牛(欲望)を見つけてから、相当の年数が経過し、 性欲もうすれ、食欲も細くなった年齢(50歳以上)だろうと思う。 昔は早死にだったからそんなものだろう。
F忘牛存人 ・・・ 男が満月を見ている。→ 満月が男の霊魂である! 男は瞑想中に、牛(欲望)を捨てることで霊魂体験を可能にした。 G人牛倶忘 ・・・ 男を満月が飲み込む。男が満月を飲み込むのではない。 白い円は満月である。霊魂が男の元に戻ってきたのだ。 満月を見てから、その満月が男を飲み込むのは一瞬の出来事である。
H返本還源 ・・・「わたし」がいて周囲を見ているのだが、 自分という色メガネを外したので、周囲をストレートに見ることができる。 これができるのは前段階で欲望(アラヤ識)を捨てたから。 I入廓垂手 ・・・ 太鼓腹の布袋様のようなのが描かれている。 十牛図は、この世への疑問で始まり、この世の肯定で終わる。
このパターンで悟れる可能性もあると思うが この道の欠点はやたら年を取りそうなことだね。悟れる保証もないし。 求聞持法は危険すぎるし。ではどうしたらいいか。 Bの、聖霊体験 → 霊魂体験のパターンが悟りの王道だと思う。
B 聖霊体験 → 霊魂体験のパターン @尋牛 ・・・ Aに同じ A見跡 B見牛 ・・・ フロイトで欲望や本能を学習ずみ B得牛 ・・・ 野生の暴れ牛に手綱? これは聖霊の訪れがないと無理。
175 :
神も仏も名無しさん :2012/03/26(月) 19:54:43.08 ID:asQqqSVw
D牧牛 E騎牛帰家 ・・・ 神=聖霊の訪れで通過してしまう。 F忘牛存人 ・・・ これはね、瞑想(坐禅)が必要なのだよ。 G人牛倶忘 H返本還源 ・・・ Aに同じ。 I入廓垂手 ・・・ これはねえ、若いなら菩薩というわけにはいかない。 この世で生きていくには、まず自分のことを考えないと・・・(TT)
この場合、弁証法(空)がどう働いたのかと言えば、 正(欲望を土台に存在している自分 or かのような自分の発見) → 反(その自分に深いショックを受け、それを根こそぎにする悔い) → ・・・ 目を開いたまま幻覚を見る ・・・ 聖霊の訪れ 合(癒しと至福、聖霊が神であることを直感) であったろうか。
結果的にフロイトと弁証法だけで聖霊も霊魂も体験した。 聖書などの宗教関連本を読むのはそれからである。 なんでフロイトと弁証法なのかは、その二つに自然に興味を持ったとしか 言いようがない。周囲と議論するわけでもなく、ひとりで黙々と読んでいた。 いま思えば、神に導かれていたとしか思えない。
最初に聖書に向かったのは、悔い→聖霊の訪れという順序にある。 イエスの「悔い改めよ」ぐらいは知っていたからね。 神を信じるようになったから、旧約新約と全部読むのに苦労しなかった。 瞑想(半跏趺坐)も始めたが、神への絶対的な信頼が瞑想を容易にしてくれた。 最初から1時間程度やり、半年ぐらいで霊魂体験もできた。
聖霊を脳内麻薬(エンドルフィン)だと言っている人がいる。 霊魂体験を変性意識だと言っている人もいる。これらは何も知らない人が、 言葉の言い換えをしてわかったような主張をしているに過ぎない。 これらには神秘体験を否定しようという悪意や嫉妬が込められている。 もっともらしいから余計、たちの悪いデンパである。
聖霊の訪れは、神を食べることであり、味覚に関係している。 エデンの園には命の木があるが、神は人がこの木から取って食べ、 永遠に生きる者になることを恐れ、楽園から人を追放する。 創世記でも聖霊(命)は食べ物に喩えられている。
聖霊体験は味覚、霊魂体験は触角・視覚・聴覚。 どちらにも匂いがまったくないせいか、嗅覚は働かなかった。 十牛図の補足 F忘牛存人〜G人牛倶忘が、空海の「明星来影す」に対応している。
悟りを開くというのは、そんなに難しい話ではないような気がしている。 悟りを開き終わった後、それを維持し続けるのが難しいだけ。
そんなことはないよ。かなり難しい。まず第一になかなか死なない。 精神的な話だから余計困難だ。心は安きに流れ、限りなく逃げて行く。 そのため、悟り以前にノイローゼや精神病を患う。 その用心にフロイトが欠かせない。ほどほどに緩める必要がある。 悟後の問題については、この後で少し触れてみたい。
十牛図の整理 ・・・ 聖霊体験 → 霊魂体験のパターン @尋牛 ・・・ 苦労や挫折から生きることに疑問を感じる。 A見跡 B見牛 ・・・ フロイトから夢・精神分析・本能などを学ぶ。 C得牛 ・・・ 弁証法(空)によって、聖霊の訪れを体験する。
D忘牛存人 E人牛倶忘 F返本還源 ・・・ 瞑想で霊魂を体験する。 G牧牛 H騎牛帰家 ・・・ これが「悟後の修行」だろうか。 俗世で働きながら暮らすなら、羊が狼にまじっているようなものである。 それに、いままで気がつかなかった自分の欠点も見えてくる。 I入廓垂手 ・・・ この心境にはなかなか至れない。
悟後の修行は、山下りであり、悟る以前の苦労とはまったく違う。 まず苦労をそれほどの苦労とは感じなくなる。それから運がよくなる。 他人の好意が増え、他人の悪意を無意識に微妙にかわしている。 他人の心の動きが何となくわかるような気がする。
新聞もテレビもない生活をしているが、 2chで何かを書いた後、PCニュースなどに、書いたようなことが 載っていることをたまに経験するようになった。 自分の意識を集中しても何もわかるわけではないが、それがわかったように 行動しているような気もする。少しだけシンクロしている。
骨折り仕事のような、肉体的な苦痛は以前と変わりないが、 精神的な苦労がほとんどなくなっている。ただね、神秘体験をするだけで、 実際に自分を捨てて他人のために行動できるかと言えばそうでもない。 そういう試練にもあっている。自分の夢をあきらめないと無理。 100%潰れないと他人のために行動できない。
心は限りなく逃げて行く。だから精神的に死ぬのは逆に困難になる。
>>183 これを逃さないのが、弁証法(空)であり、心を「空」にくぎ付けにする。
これが欠かせない。これが「空」の役割である。
C得牛で示したように、聖霊体験に必要なのは弁証法(空)であり、 アラヤ識を説く唯識派とは位相が異なっている。 仏教はこれらを空にまとめるが、空とアラヤ識は別の話なのである。 空とアラヤ識をまとめようとするところに無理がある。 この二つを位相の違いとして理解すればすっきりするだろう。
八宗の祖、龍樹の『中論』は「空」を説いている。 この書は難解であり、修行中はまったく読む必要がないだろう。 しかし、神やあの世がないとしたら、この世は「空」になるという話であり、 その意味では龍樹の言っていることは正しい。これは唯物弁証法だね。 唯物弁証法の解説書を読んだ方が何倍もためになる。
唯物弁証法と言うとマルクスの共産主義を連想するかもしれないが、 これは唯物弁証法にとって不幸だったと思う。 共産主義自体は少し学べば、経済の話であり、胃袋の話でしかないことが すぐにわかる。そういう話とは関係なく唯物弁証法を学んでほしい。 唯物でも観念でもない、弁証法そのものを学んでほしい。
わたしがどれぐらいの思いでフロイトを読み、弁証法を学んだか。 あまり話したくないのだが、そのころ心がパンク寸前だった。 だから必死であり、他人と議論することもなく、身体全体で読みふけった。 そしてある日、パンクを恐れるのではなく、自分の意志でパンクした。 悔いるとはそういうことであり、自分の意志でパンクする。
すべての人間が幸せになりたいと思っている。 楽をしたいと思っている。豊かに暮らしたいと思っている。 だれも不幸を望まない。苦労を望まない。貧しい暮らしを望まない。 しかし、不幸や苦労や貧しさの果てに神がいるとしたら・・・ いったいだれがそんな神を探し求めようか?
だれもそんな神を探さない。求めない。 これがね、神の恐るべき智慧なのだと思う。神は見事に隠れている。 それでも探そうとする者に対しは、目が眩むような渦巻きが用意されている。 この渦巻きに飲み込まれたら何が何だかわからなくなる。 どうする? 弁証法がこれを突き破る。
196 :
神も仏も名無しさん :2012/03/29(木) 18:58:53.68 ID:URZCvP7v
後は自分自身を心底「悔いる」ことかな。 自分を「悔いる」ことが悟りの「入口」であり、悟りの「正門」だろう。 求聞持法などは「裏門」だろうと思う。
未来に夢希望あるうちはむりぽ
夢希望でも「生きている意味を知りたい」のようなのはかなう。 しかし「せめて人並みに生きたい」というのはかなわない。 197さんは後者の話をしていると思うが、ほんとにその通りであり、 夢希望どころか、生きることさえ粉砕されないと悟れない。 精神的には死の向こう側に行く。
聖霊体験や霊魂体験があったとしても、この世で生活している限り、 似たような状況に繰り返し直面する。このような試練にどう対処するのか。 その都度、自分を捨て、自分が潰れる選択をするのか。無理だよね。 たったひとつの命だから、他人のためには捨てられない。 でも家族のためなら捨てられるかもしれない。
家族のためでも、自分の将来を捨て、毎日全力を尽くすことは難しい。 これは実際に体験しないとわからない。 明日のことは明日自らが思い悩む(マタイ6.34)などという心境には なかなかなれない。でもそれが要求されている。 家族への愛がないと無理だろうね。
やってみればわかる。底抜けの忍耐力が要求される。 聖霊体験や霊魂体験があっても、頭の血管が破裂しそうに何度も思った。 でも学ぶことも半端ではなかった。神秘体験だけでは足りない。 神秘体験は現実の中で鍛えられる必要がある。相手に潰されるのではなく、 自分から潰れることが愛ではないだろうか。
自分の全存在を悔いる、というのは神への愛だろうと思う。 だから悔いた瞬間に神が現れる。神は雫であり、永遠の雫である。 それは形がなく、透明であり、癒しであり、至福であり、知恵であり、 神の愛に直接触れることでもある。それは一瞬の出来事である。 これが、聖書で言う聖霊であり、神(命)の正体である。
これに対して霊魂体験は少し違う。神界は清浄であり、 ひたすら清らか、痛いほど清浄であり、神と「わたし」の出会いでもある。 神は白い霧の世界にいる。「わたし」の感覚は研ぎ澄まされている。 愛というより、般若の知恵かもしれない。 霊魂(アートマン)がいるが、これは仏教世界に近いと思う。
> 197さんは後者の話をしていると思うが ちがいます。 こちらがより近いです。「 夢希望どころか、生きることさえ粉砕されないと悟れない。 精神的には死の向こう側に行く。」 > 自分の全存在を悔いる これはちがうとおもう。悔いるんのではなく全存在を手放すこと。これは生きることの粉砕と同じかと。
IDがわらえる
微妙なので誤解があったら申し訳ないが、自己への執着は自己愛に よって生じる。であれば、自己を捨てるため自己嫌悪があった方がいい。 もちろん理屈ではなく、本当にそう思っていることが大切なのだが、 自己嫌悪があれば簡単に自分を手放せる。 自己を嫌悪するから「悔いる」し、自分を捨てたいと思うのでは。
自己嫌悪ではなく、人生への嫌悪では?
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」創世記1.28 これには基本的に賛成だな。ノアもアブラハムも同じ流れであり、 イサク(笑う)は祭壇で死の恐怖を味わう。 しかし、ポアとか、エッチでセックスはないよね(^^)
創世記しらないし、意味わからんレス。 説明よろしくです。
人生への嫌悪が生きることの粉砕につながるとおもうんだよね。 そうかんがえると、「この人生を生きなければいけない自分」という存在を悔いる気持ちもあるわけか。 同じですね。
>>207 この世への嫌悪は、仏教にもキリスト教にもある。
ただ、自分を正しいと思い、蚊帳の外に置くのは間違っていると思う。
悟りの核心は、欲望や本能にあるから、自分自身の問題になる。
人生というなら、わたしの人生と言ったらいいかもしれない。
> 悟りの核心は、欲望や本能にあるから これもよくわからないですし、そうではないと思いいますが。
>>209 神はもともと人間の性欲を否定していない。創世記1.28
しかし人間は、エデンの園で堕落し、原罪におおわれる。3.22〜24
創世記はそれほど長くないので一読を勧める。
ネットで「創世記 対訳」で検索する。
>>212 そういった思いが普通だろう。欲望や本能がないと生きられないからね。
これがコインの表なら、コインの裏はこれが原罪になる。
それに気がつくかどうかだが、その前にフロイトの学習をすすめたい。
聖霊体験は「悔いる」ことが契機になる。 霊魂体験は、魔境に登場する自分(アラヤ識)を「捨てる」ことで生じる。 自分を「捨てる」という言い方もできるのだけど、 それを可能にするには強烈な自己嫌悪がなくてはならない。 あっ、自分にだまされていた、というショック、絶望的な思いだろうか。
どのくらいの悔い方か。目を開いたまま幻覚を見る。 その瞬間は周囲が見えなくなる。その直後に聖霊が訪れる。 使徒言行録9章にパウロの神秘体験があるが、たぶん著者の脚色であり、 実際はパウロも聖霊体験をしたのではないかと思う。 聖霊体験はほんの一瞬の出来事である。
聖霊体験でも霊魂体験でも、幻覚や魔境を見るだけでなく、 それを正しく判断し、それを悔いたり、見捨てたりする意志が問われる。 だから、酒や薬物で意識をもうろうとさせたら絶対に悟れない。 話は逆、冷静に考え、冷静に瞑想しなければならない。 サイケな夢を見てもまったく無意味である。
空の体験は独特なものがある。弁証法の本を読んでいる最中に、 ああそうか、そういうことなのかとわかった瞬間に、興奮で体が熱くなる。 もちろん、仏教の空を知らないから、これが空だなどとわからないが、 世界の秘密を知ってしまった、などと舞い上がってしまったよ。 これも他人には内緒にした。世界の秘密だからね(^^)
それから聖霊体験、霊魂体験まで5〜6年が経過する。 空に舞い上がる。これがむしろ幸いし、自分を空にくぎ付けにした。 後は罪が熟するのを待つだけ。空は運を良くしない。 フロイトや弁証法(空)は心を楽にするが、運の悪さはそのまま続く。 運の悪さが重なり、追い込まれ、ついにパンク寸前になる。
ちょっと書き方が悪かったので補足すると、25歳で空を知るが、 これはパンクしそうな自分を救うため、フロイトと弁証法を必死に読み、 自分を癒し、空を自分なりに理解したという話である。 30歳ごろのパンクしそうな状態では、5〜6年の発酵期間を経たあと、 フロイトと弁証法が自然に役立ったという話である。
ついでだから運の悪さにも触れておこうか。わたしの場合は、 30歳以前がそうなのだが、非常に不思議な運の悪さに苦しんでいた。 身体ではなく、精神的に痛められ、追い詰められていく。 ヨブ記にあるように、悪魔が陣を張っていたような気がしないでもない。
222 :
神も仏も名無しさん :2012/03/31(土) 13:54:47.62 ID:s+1A5z0J
たぶん悪魔はいると思う。しかしヨブ記がそうであるように、 悪魔は神のために働いている。神のために働くのだから悪魔は天使である。 そしてこの悪魔は、エデンの園に登場する蛇のことだろうと思う。 人間は自分の利益だけを望むから、悪魔が陣を張らないと神を振り向くような 人間が現れない。そのために陣を張り、試練を用意する。
悪魔はいないよ。
>>213-222 同意できるところと、よくわからないことと、同意できないことが混在してるわ。
弁証法、原罪、フロイトみたいな難しい言葉はよくわからない。
>>220 頭で考えて達成するものではないでしょ。
合ったやり方というのが人それぞれあるみたいですけどね。
>>223 悪魔については別の機会にしよう。もしかすると一番奥深いかもよ。
>>224 少しでも理解してもらえたら嬉しいな。
>>225 自分の人生だから、自分が納得した道を歩むべきだと思う。
死ぬ間際に気がつくだろう。結局は自分自身が責任を取らされる。 他人の考えや主張は単なる参考にすぎない。
山登りをする時、いくつかの登山コースがあったとする。 大乗、小乗、儒教、道教、神道、カトリック、プロテスタント・・・ しかしどれもこれも頂上に行き着けるのかどうかはっきりしない。 そんな時、これで行き着いたと言う人がいたらどうしよう?
タダなんだから、話を聞いてから判断しても遅くはないよね。 でも宗教なのに、フロイトとか弁証法とか、思いっきり怪しい所もある。 やっぱし、お金を払ってでも老舗の案内人を頼る? まあ、信用されなくても損するわけじゃないから、別にかまわないよ。
釈迦の悟りはどの程度だったのか。 これが多くの宗教者や研究者を悩ませてきたのではないか。 何しろ2500年前の人であり、資料があまりにも少なすぎる。 しかしそれでも知りたいと思うのが人情だ。
資料の中でもっとも信頼性が高いのは原始仏典だろう。 研究するつもりもないし、ほんの少ししか読んでないので粗筋ぐらいだが、 わたしなりに推測してみよう。釈迦が説いたと言われるものは、 四諦八正道、縁起・空、十二因縁などである。 視点 → これらは聖霊体験、霊魂体験のいずれに関係しているのか。
結論は次のようになる。たぶん釈迦は、聖霊も霊魂も体験している。 聖霊体験 ・・・ 四諦八正道、縁起・空 霊魂体験 ・・・ 十二因縁
釈迦の聖霊体験は伝えられていない。インドは多神教であり、 かりに聖霊体験があっても、それが何であるかはわからなかっただろう。 しかし、聖霊体験のすばらしさは、ちつの時代も変わりない。 それは赦しであり、癒しであり、愛であり、至福であり、神の英知である。
釈迦が聖霊体験をした痕跡は、原始仏典で善悪を説くことにも見られる。 もちろん、世俗の善悪を180度転回した宗教上の善悪である。 善悪の転回は霊魂体験だけでは起きない。自分の人生を心の底から悔い、 聖霊が訪れ、癒しや至福の体験しないと起きない。 聖霊体験がないと、宗教上の善悪や、命への真の愛が生じない。
それではいつ聖霊体験をしたのか。たぶん苦行をやめた後であり、 スジャータの乳粥で命をつないだ後ではないだろうか。 ほどなくして聖霊を受け、さらには瞑想で霊魂体験をして成道する。 聖霊体験には縁起・空、四諦八正道などが欠かせない。これらの方法論は、 成道後、時間をかけて整理されたものではないだろうか。
これに関してしばしば、苦行でもなく、王子時代の安楽でもなく、 そのどちらでもない修行 → 中道に気づき悟りを開いた、という説明を 見かけることがある。しかしこれは間違いなくデンパですね。 それぐらいの気づきで悟れるはずがない。 やはり釈迦は、聖霊体験→霊魂体験パターンの悟りではないだろうか。
もうひとつ、釈迦はパンクしそうな精神状態にあったのか。 これについては、29歳で妻子、王子の身分を捨てて出家したことを 想像してみなければならない。釈迦は生まれてすぐに母を失い、 母の妹に育てられる。父と母の妹の間に子供ができる。異母弟ナンダ! 釈迦はヤショーダラーと結婚し子供ラーフラを作る。
29歳で妻子、王子の身分を捨ててホームレスになってしまう! 釈迦を想像する場合、ここを軽く見過ぎているかもしれない。 子供の名前をラーフラ(悪魔)とするぐらいである。 母代りに母の妹がいたが、その母の妹はじきに実の子供を作ってしまう。 たぶん、母の妹とは言え、継母であったことが深く影響している。
わかったよ(^^) 釈迦が出家した時、パンク寸前だったことはまちがいない。 であれば、霊魂体験だけでは不足、聖霊体験がないと救われない。 釈迦には聖霊体験がなければならない。
釈迦が聖霊体験をしていれば謎が解けてくる。 なぜ、瞑想とは無関係な、縁起・空、四諦八正道などを説いたのか。 縁起空は弁証法であり、四諦八正道はフロイトである。 これらは聖霊を体験するための方法なのである。 仏教はそれを、霊魂体験と混同するから訳が分からなくなる。
仏教でも空を説く大乗はさらに訳が分からない。 空は手段なのに、実体がない空を悟ろうという本末転倒ぶりある。 まあ2500年前のインドの話だから仕方ないけどね。 大乗など学んだら、悟りから逆に遠くなるよ。
釈迦が聖霊→霊魂なら、空海との違いも明確である。 求聞持法の空海には霊魂体験しかないのだ。またすべてを瞑想に求める 禅宗系の誤りも指摘できる。空はともかく、かりに霊魂体験をしたとしても、 それは霊魂の存在を知り、清浄な般若の知恵に触れることである。 聖霊の赦しや癒しや至福とは内容が違う。
245 :
神も仏も名無しさん :2012/04/01(日) 16:05:21.87 ID:Ke/PwG4K
釈迦の悟りはどの程度なのか。これがここ最近のテーマではあったが、 おそらく究極の悟りに到達したのではないかと思う。 肝心の聖霊や霊魂の話がないので苦労したが、ようやく納得のいく推論が できたかもしれない。しかしまだまだ修正するかもしないぞ(^^) (ウダーナヴァルガ26章が釈迦の神秘体験に近いかもしれない)
今日は何とも幸せな一日であった。 不遜だが、釈迦と少し心が通じたような気がする。 釈迦は幼いころから、猛烈に悲しく、猛烈につらい思いをしていたと思う。 母の妹は実の子供ができれば、当たり前のように釈迦から心が離れる。 父親も同じ。死んだ実母より、母の妹に心が移っている。
王の位はだれが継ぐのか。王も母の妹も愛しているナンダなのか。 それとも釈迦なのか。釈迦の妻は自分の子供ラーフラを望む。 そのため母の妹と、釈迦の妻ヤショーダラーの深刻な対立が展開する。 たぶんドロドロの泥仕合があったのではないだろうか。 なぜラーフラ(悪魔)なのか。その辺の事情が絡んでいたかもしれない。
248 :
神も仏も名無しさん :2012/04/01(日) 19:18:25.00 ID:6rGwD2ar
釈迦が29歳の時、異母弟のナンダは20歳を超えていただろう。 いったいどっちが王位を継承するのか。母代りをしてくれた母の妹と、 釈迦の妻ヤショーダラーの対立は深刻さを増していく。 父と継母と異母弟と、妻と子供ラーフラの間に立たされた釈迦は、 その煩わしさから出家の道を選ぶ。何となくわかるなあ。
釈迦の家族関係は不明な点が多い。だから断定した話はできない。 しかし、四門出遊、城門から出たら、老人・病人・葬式・出家者に会い、 それから出家を願うようになった、という話は信じられない。 従者がそれぞれを説明するから、たぶん子供時代の逸話なのだろう。 でも幼い子供が出家を願う? あまりにも不自然、リアリティーがない。
もっと深刻な悩みが身近にあったのだと思う。 経済的には問題がないから、何かあるとすれば人間関係になるだろう。 すぐ思いつくのは、実母を失い、母の妹が母代りをしたこと。その母の妹が、 父である浄飯王と結婚し、異母弟ナンダを作ったことである。 ここから釈迦は、精神的に家庭内孤児であったのではないかと。
モーセもイエスもムハンマドも、宗教者は不幸な育ち方をしている。 というか、それが宗教者の条件のようになっている。 なぜなら、親の愛が不足し、かれらの心には穴が開いているからである。 かれらは生まれつき愛に飢え、無意識に愛を探すことになる。 愛を探す? それは神を探すこととイコールである。
釈迦が家庭内孤児であったなら、出家して生きる意味を探そうという思いも わかるし、ついには成道してしまう強い求道心もわかる。生きる意味がわから ないから、死んだようにしか生きられない。だから命がけで探求する。 そしてその必死さが究極の悟りを導く。王位継承をめぐる家族同士の神経戦、 これが釈迦出家の直接のきっかけになったのではないだろうか。
釈迦が元気ないのを心配した浄飯王が、 16歳の釈迦をヤショーダラと結婚させたと言われている。このことから いくつかのことが推測できる。ヤショーダラは12歳前後の子供であり、 釈迦の妹のような感じだったろうと思う。息子のラーフラの誕生は、 二人が結婚してから遅くとも4〜5年後ぐらいだろうか。
さらに、父の浄飯王が釈迦をうっとうしく思い、16歳の釈迦を結婚させた のではないかという疑問もある。しかし釈迦が求めていたのは 親の愛だったのではないだろうか。そのうえ、まだ親の愛を求めているのに、 自分の子供ができてしまう。それがラーフラ(悪魔)という命名になる。 この結婚にはあまり幸せなものを感じない。
四門出遊は結婚した翌年、17歳の時の逸話らしい。
>>249 その年なら、生・老・病・死の理ぐらいは知っていなければならない。
従者に問うほどのことではない。それに結婚した翌年に早くも出家を願う?
望まぬ結婚だったにせよ、出家が何かを知っていたにせよ、
四門出遊は作り話であるとしか思えない。
もう一度、釈迦の誕生のころに戻ってみよう。 マーヤ夫人の脇から生まれたとか、天上天下唯我独尊と言ったとかは ウソっぽい。しかし母の妹が、釈迦の母代りに招かれたのは事実なのだろう。 そして母の妹と浄飯王との結婚はわりと早かったのではないだろうか。 この二人の子供ナンダは、たぶん2〜3年後には産まれている。
ここで疑問が湧いてくるのだが、母の妹は乳が出ないはずである。 では釈迦は何で育ったのだろうか。たぶん牛の乳である。 そして乳離れするときに釈迦が口にしたのは乳粥ではないだろうか。 これは村娘スジャータだね。釈迦がスジャータの乳粥を口にしたとき、 生まれたころの記憶がかすかに蘇えったのではないだろうか。
釈迦に責任があって苦労していたわけではない。 しかしそれでも、村娘スジャータの親切に、自分が自分中心にしか 生きてこなかったことに気がつく。それを悔いる。 聖霊の訪れを受けると、それからわずか49日で成道してしまう。 このスピードは、聖霊体験 → 霊魂体験のパターンである。
釈迦は、母の妹を本当の母親だと思って育ったのかもしれない。 異母弟ナンダのことも、本当の弟だと思っていたのではないだろうか。 しかし、王権の継承が問題になるにつれ、どこからともなく、 自分の本当の母親がすでに死んでいることを耳にする。 この事実は出家の原因になってもおかしくない。
釈迦は異母弟のナンダに、王位継承権を譲るために出家したのではないか。 それを母の妹も浄飯王も望んでいる。そう考えたのではないか。 釈迦にすれば、王子を捨てるより、生きる意味がわからない方がつらかった。 修行すれば必ず悟れる、そう思いつめた末の行動だったように思う。
出家した釈迦はいいが、残された妻子は不幸だね。 釈迦には申し訳ないが、これが求道者は結婚するな、妻子がいると必ず不幸に してしまうという実例になっている。なぜしつこく想像したのかと言えば、 悪魔がどんな陣を張るのかということを理解するためである。 釈迦は外見的には幸せだが、内面的にはパンク寸前の状態になっている。
実際の孤児なら、それはそれで大変な思いをするだろうが、 自分は孤児だからと言い訳できるし、世間からもそれなりに同情される。 しかし家庭内孤児は微妙だ。実際の孤児よりは恵まれているし、家庭の恥を 世間にさらしたくない思いもある。結局、弁解せずにひとりで悩む。 言い訳できないような苦労、これが悪魔の陣である。
スジャータの乳粥以来、釈迦は苦行でも安楽でもない修行、中道によって
悟りを得たという主張もあるが、これはすでに指摘した(
>>238 )ように
誤ったデンパである。(これは『中論』の中道ではない)
苦行や安楽が悟りを導かないのは確かだが、では中道の修行をすれば 悟れるかと言えばそうでもない。釈迦は聖霊体験し、 その後に、肉体的な苦行の無意味さに気づいただけだろうと思う。
265 :
神も仏も名無しさん :2012/04/03(火) 19:53:29.30 ID:uOXbLi5G
*** 仏教の学び方 基本 ・・・ フロイト、唯物弁証法 〜 他の宗教も同じ 大乗 ・・・ 十牛図、小空経、戒香経、唯識三十頌(マナ識・アラヤ識) 小乗 ・・・ 原始経典から気に入った言葉を選び出し毎日唱える
小空経、戒香経は原始仏典ですね。 大乗から出し、小乗へ移動してください. orz
釈迦は聖霊(神)を体験している。仏教徒も神について学んだ方がいい。 神と言えば聖書だが、ユダヤ教やキリスト教ではなく、 聖書そのものを学んでほしい。聖書には神に関する知識が豊富である。 新約から始め、旧約へと読み進むのが順番なのだろうが、 旧約の方が内容が濃いし、素朴で野太い響きがあるように感じる。
仏教徒は宗教の選択を誤ったかと慌てなくてもいい。 キリスト教徒であっても聖霊体験をした人は数えるほどしかいない。 仏教と同じであり、方法論が間違っているからダメなのだね。 キリスト教には逆に「空」の思想がない。
「わかった」と言うことはあるかもしれないよ。 だが、その時が来たら、 もっと「わかる」べきことがあるのに気づくだろう。 わかればわかるほど、 もっとわかるべきことがあるとわかるからだ。 だから、成長し、わかっていくプロセスは決して終わらない。 わかるかな? あなたの魂がびっくりするようなことは何もない。 新しいことは何もない。
保守
福音書を読むなら、マルコ福音書、マタイ福音書 手紙を読むなら、ヤコブの手紙 後回しにしたいのは、パウロの手紙、ヨハネの黙示録
旧約はまず創世記からスタートしよう。 それ以後は、かなり分量があるので、おもしろそうな個所から読んでいく。 ルツ記、エステル記、コレヘト、トビト記、ユディト記など、 単独で完結している作品が読みやすい。 ヨブ記は相当難しいが、いずれは挑戦してほしい。
マタイ福音書3〜4章には、聖霊→霊魂パターンによく似た、 イエスの神秘体験が順番に書かれている。【洗礼を受ける(3.16) → 神の霊が降る(3.16) → 悪魔から誘惑を受ける(4.1〜11) → 悪魔が離れ、天使たちが来てイエスに仕える(4.11)】とある。
「洗礼」は悔いのシンボルである。 「神の霊」は聖霊のことである。 「悪魔からの誘惑」は、記載はないが、瞑想中の出来事だったと推測する。 問題は「悪魔からの誘惑」である。これはいったい何か。
これについては、わたしの体験が参考になるかもしれない。 瞑想して魔境体験をしたのは二回だが、その最初の魔境で霊魂体験をした。 その次は、試みられた後、龍の背中に乗る体験をした。 そして、龍の背中に乗ったまま瞑想を終えた。 二回目の魔境が、イエスの「悪魔からの誘惑」によく似ている。
イエスの神秘体験を整理すると、 悔い → 聖霊体験 → 悪魔の誘惑 → 守護天使が登場 になる。 ここには霊魂体験がないが、そんなはずはなく、霊魂体験をしたはずである。 なぜなら霊魂体験をしたからこそ、悪魔からの誘惑を受ける。 守護天使が仕えるためである。つまり悪魔イコール守護天使なのである。
そう解釈するのは、わたしの魔境体験からであり、 わたしを試みたものが龍になり、わたしがそれに乗り、しかも乗ったまま 瞑想を終えたことからの推測である。 わたしの場合は、試みたもの(悪魔)イコール龍神イコール守護天使である。
話を整理すると、マタイ福音書にあるイエスの神秘体験は、 イエスと悪魔との問答部分を除き、大筋で神秘体験の一般的な経過を 書いているのではないかと思われる。それは次のようになる。 悔い → 聖霊体験 → 霊魂体験 → 龍神体験 → 守護天使 ・・・ これが悟りの全体である。
魔境体験というのは、 あなたのマインドの投影だとおもいますよ。
イエスはたぶん実在した人間なのだろう。しかしけっして神ではない。 人間だからこそ、洗礼や神の霊や悪魔から誘惑を受けるのであって、 真の神ならそんな必要はまったくない。洗礼を受ける神、神の霊を受ける神、 悪魔から誘惑を受ける神などありえない。イエスを神とするキリスト教は 神を冒涜しているように感じる。
新約聖書には学ぶべきことも多い。読むべきだろうと思う。 しかし、イエスを神だと信じれば救われる。信じなければ救われない。 というキリスト教の教義は、カルト宗教そのものだ。 カルトであることは、刑具である十字架を拝むことにも現れている。 それに偶像を拝むのは十戒違反ではないか。
新約聖書は、キリスト教と距離を置いて読むべきである。 人類の罪の身代わりになって、イエスが十字架で死んでくれた、という キリスト教の教義は真っ赤なウソだろう。信じれば偽薬効果ぐらいはある だろうが、無明や原罪がそんなに簡単に消えるわけがない。 結局は、救われてもないのに、救われたとだまされた人生を送ることになる。
キリスト教を知りたい人間にとって、新約聖書の読み方は意外に難しい。 何が真実であり、何が作り話なのかを見分け難いからである。 これを切り抜けるには、イエスを徹頭徹尾、単なる人間として読むといい。 イエスが人間でなくなる個所は、たぶん作り話だろうと思う。
イエスはもともとユダヤ教徒である。旧約を学んだ人間である。 そのイエスが、33歳ほどで十字架にかけられ、無残に殺されてしまう。 だれがそんな人間を神だなどと思うものか。だからキリスト教は、 信者獲得のため、ウソや作り話を語り始める。 イエスを神に祭り上げるは、信者を洗脳するためでしかない。
もともとアリウス派というイエスを人間と見る勢力があったのに、 政治が介入してイエスを神に祭り上げたのだね。 ローマは、政教分離ではなく、政治のためにキリスト教を利用したわけだ。 それの残り滓が、いまのカトリックでありプロテスタントである。 あまりのぼせないで頭を冷やして眺めた方がいい。
286 :
神も仏も名無しさん :2012/04/05(木) 19:45:08.58 ID:ToQ8bx33
キリスト教世界には三つのグループがある。 @ 洗脳され、イエスを神だと素直に信じている人々 A かれらを導く神父や牧師 ・・・ かれらは半信半疑かもしれない。 B 悪人 ・・・ 民衆を支配し、収奪するために宗教を利用する。
287 :
神も仏も名無しさん :2012/04/05(木) 23:18:50.58 ID:VfIy9CR+
仏陀・・自身のなかの神を悟り幸福の原則を語り広めた人。 イエス・・創造主に遣わされた生身の人間。 創造主・・この世界の物理的なエネルギーそのもの。 創造主(神、仏)とは自身の中にある良心で対話できるよ!
288 :
神も仏も名無しさん :2012/04/06(金) 18:24:56.67 ID:JlH+zJ/A
話題を替え「万教帰一」にしようか。 これはもうわかると思うが、大乗とキリスト教は「万教帰一」しないね。 大乗は「空」を目指し、キリスト教は「イエス」を目指す。 どう考えても「万教帰一」するわけがない。。
ある宗教を信じても、それだけではエベレストの頂点に到達できない。 どの宗教も一長一短、複数の宗教を照らし合わせてようやく 真理がぼんやりと見えてくる。ひとつの宗教にいくら熱心でも真理に 到達することはできない。宗教はお互いに補完的な関係にある。 群盲、象をなでる、のような感じだろうか。
290 :
神も仏も名無しさん :2012/04/06(金) 19:31:00.18 ID:JlH+zJ/A
なんにしてもキーワードみたいなものがある。 万教帰一を主張していたら、眉唾の宗教だと思っていいだろう。
万教帰一をユダヤ教とキリスト教で検証してみよう。 ユダヤ教は、唯一神と、ユダヤ民族との契約(旧約)によって成立する。 それが十戒を中心とする613の戒律である。これを守れば神に祝福され、 これを破れば神に呪われる。どちらもこの地上の話である。
これに対してキリスト教は、あの世(天国)を強調し、 @ 人はアダムの原罪で生まれつきの罪びとだと考える。 A その罪でさまざまな不幸が地上に発生する。それを救うために、 B 神の独り子イエスは、人類の「罪の身代わり」となり、十字架で死ぬ。 C これが新約であり、これを信じれば人は救われると主張している。
◆ ふたつを比較すれば、とても万教帰一などとは言えない。 A ユダヤ教(地上の幸福をめざす) キリスト教(天国の幸福をめざす) B ユダヤ教(戒律を守り行うこと) キリスト教(神の子イエスを信じる) C ユダヤ教(自力宗教) キリスト教(イエスによる他力宗教である) D ユダヤ教(神は唯一) キリスト教(神とイエスと聖霊は三位一体)
ユダヤ教から見れば、 キリスト教の「三位一体」は、十戒の第一(あなたは、わたしのほかに、 ほかの神がみがあってはならない)に違反している。 十字架や磔刑像やマリア像やイコンなどは、十戒の第二(あなたは、 自分のために、偶像を造ってはならない)に違反している。
それからもうひとつ、イエスはマタイ福音書4.17で「悔い改めよ。 天の国は近づいた」と言って宣教を始める。 イエスは福音書の冒頭で「悔い改め」を要求しているわけだ。 しかし「悔い改め」は自力であり、信じれば救われるという他力宗教、 キリスト教の教義と衝突しないのだろうか。
イエスが刑死したことで消滅の危機に瀕した教団が、 信者を引き留め、あるいは信者を増やすために、ウソと作り話に熱中した ことはまちがいない。その最大の功労者がパウロなのだろう。 『パウロの手紙』読めばわかるが、生前のイエスに対する興味のなさは異様 でさえある。パウロは死後のイエスにしか興味を示さない。
パウロが生前のイエスに興味を示さないのは、イエスが奇跡を連発する ような超人ではなかったことの証拠ではないだろうか。 イエスは優秀な宗教指導者だったかもしれない。しかし神ではなかった。 福音書の奇跡が作り話であることはパウロが証明している。 奇跡連発なら、パウロだって放置しなかったろう。
キリスト教とはいったい何か。もう多くの人がわかっているように、 イエスを神のごとくに祭り上げて作った「パウロ教」である。 パウロ自身には神秘体験があり、その後、アラビアに退いて三年の間、 新興宗教の作戦を練りあげている。ガラテヤ1.11〜20
キリスト教は、浄土系との類似性がしばしば指摘されている。 どちらも他力だし、イエス信仰と酷似したアミダ信仰が浄土系にはある。 しかし浄土系は、僧侶の「空」思想と、善男善女のアミダ信仰との ダブルスタンダードである。この二重性は大乗に共通する。 浄土とかアミダを説いても、それを説く僧侶は「空」でシラケている。
これに対してキリスト教は、「空」というワンクッションがないから、 いったん信じると強く洗脳され、聖職者も信者も本気モードへと直結する。 しかし、ウソに気づけば、だまされた反動から人間のだまされやすさや、 キリスト教を利用しようという悪魔的な人間が誕生するかもしれない。 その意味で、キリスト教世界は仏教より振れ幅が大きいと思う。
パウロの善意はわかる。法然や親鸞の善意もわかる。 いま目の前にいる、難しいことを言ってもわからないような、弱くて 貧しくて不幸な人々を救うにはどうしたらいいのか。 これがパウロや法然や親鸞たちのテーマだったのだろうと思う。 まだよくわからない。他力については宿題にしたい。
キリスト教が生まれる土壌、ユダヤ教にも触れておこう。 ユダヤ教には神との契約がある。十戒を中心にする613の戒律であり、 これを守れば祝福され、これを破れば呪われる。これが旧約である。 だから、戒律を守り行うことがユダヤ教のすべてである、ということになる。 守れたら救われるし、守れないなら罪びとになる。
キリスト教で信仰か行為かという時は、愛の実践というより、 613の戒律=律法が念頭にある。パウロは、とてもじゃないけどできない、 律法は罪を自覚するばかりだと。つまり、みんな罪びとだと言っている。 ユダヤ人でありパリサイ派の聖書学者・パウロがそう言っているのだ。 パウロでさえそうなのだから、日本人は素直にそう思ったらいい。
そういえばキリスト教にも二重性三重性がある。 福音書・使徒言行録 ・・・ 信じやすい子供や善男善女向け パウロなどの手紙 ・・・ 理屈好きで、疑い深い人向け ヨハネの黙示録 ・・・ 信者を煙に巻く奥の院
神との契約がユダヤ教の戒律=律法である。しかし613という その数の多さは、実行できなくするためにあるとしか思えない。 むしろ実行できては困るのだ。実行したのに幸福にならないじゃないかと、 信者に突っ込まれるからである。戒律の多さがその時の言い訳になる。 例の「信心が足りないからだ」という類と同じである。
306 :
神も仏も名無しさん :2012/04/08(日) 03:19:12.68 ID:68X1QMMn
そういうことであれば、ユダヤ教そのもののような律法だが、 大幅に値引きしてもいいのではないかと思う。 個人的には、あるいは日本人的には「十戒」に絞りたい。 十ぐらいであれば学びやすいし、実行しやすい。 しかしそうであれば、どうしたら救われるのかが再び問われる。
だからイエスの十字架だよ、というのがパウロのアイデア。他力。 もうひとつは、創世記の「エデンの園」に帰り、 原罪をよく検証したらどうか、という自力の道ではないだろうか。
聖書の真髄は「エデンの園」にある。 それは要点を少しも外さず、シンプルにまとまっている。 しかし人は、この話を簡単には理解できない。 なにごとか理解した人も沈黙する。話すことをためらう。 なぜだかわからないが、ためらわせるものがある。
秘密を口外したら、人々は聖書に頼ることをやめ、 自分で悟る道を歩み始める。そうなったら宗教教団が滅びてしまう。 これがその理由なのかもしれない。 でもわたしは、教団の人間ではないから何も気にしないぞ(^^)
まず、エデンの園にアダムとエバしかいない、としたらどうだろう? 二人はどこからやって来たかが問題になる。そこで神が登場する。 神は土の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に「命の息」を吹き入れる。 人という泥人形の中には、神の「命の息」〜霊魂が入っている。
神はアダムに、「善悪の知識の木からは、けっして食べてはならない。 食べると必ず死んでしまう。」と命じる。2.17 これが神と人との「最初の契約」である。条文はたったひとつ。 ユダヤ教の律法とは雲泥の差だ。また、ここには命の木がないことに注目!
神は、人から抜き取ったあばら骨で女を造る。2.21〜24 霊魂の知識がなければここの解釈はできない。霊魂は球体であり、 男でも女でもない。しかし男あるいは女として生まれる。男だけでは半分、 女だけでは半分。それゆえに失われた半分を探そうとする。
3章に入ると、エデンの園に突然「蛇」が登場する。 蛇は女をだまし、女はアダムを誘い、善悪を知る木から取って食べてしまう。 二人は裸を恥じ、イチジクの葉をつづり合わせ、腰を覆う。3.1〜7 善悪を知る木は、価値基準、食欲、性欲の三つを象徴している。
人は、自分にとってこれは善い、これは悪いと判断しながら生きている。 ここでは、その判断基準の内容が、食欲と性欲という二大本能であることを 示唆している。食欲をそそるものが善、性欲をそそる異性が善である。 善悪の判断基準、その正体は食欲と性欲という二大本能である。 それは自分の本能だから、根源的に自分中心である。
神は、アダムとエバが「善悪の知識の木」から取って食べたことを知り、 人が「手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれ がある。」と思い。二人をエデンの園から追放する。3.20 二人の追放は、「命の木」から取って食べられないようにするため。
神は、「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、 エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」3.24 この文章を素直に読めば、命の木に至る道があり、 その守りを破れば、命の木から取って食べることができるわけである。
ざっと一巡したので、後はランダムに書いていきたい。 まずは「蛇」にしよう。この「蛇」はどこへ消えたのか。 神がアダムとエバを追放したのは、命の木から取って食べられないように するためだから、「蛇」は「エデンの園」にいるはずである。
まだエデンの園にいるとしたら、エデンの園を守るケルビムと、 きらめく剣の炎しかない。これが「蛇」である。 ふたりの番人がいるように書かれているが、いるのは「蛇」だけである。 ということは、神と「蛇」とは最初から通じ合っていたことになる。 神と「蛇」との関係は、ヨブ記の神と悪魔の関係とまったく同じである。
生き物には食欲や性欲が欠かせない。「蛇」は食欲や性欲を肯定する。 これは神でさえ否定しない。これを否定したら生きられないからである。 であれば、神と「蛇」とは連携していたとと言わざるをえない。 また、これと同じ文脈で、イエスを試みる悪魔を理解しなければならない。 龍や悪魔は天使であり、神の支配下に置かれている。
320 :
神も仏も名無しさん :2012/04/08(日) 19:38:48.27 ID:8gBITsOR
黙示録12・9には、「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか 呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた」とある。 これはどうだろう? 著者が悪魔を天使だと理解してない。 エデンの園とは「蛇」の位置づけが異なる。神と敵対する「蛇」である。 イエスを人類の救済者とする点でも、黙示録は間違っていると思う。
黙示録がインチキなら、キリスト系の新興宗教が使う常套手段、 ハルマゲドンだとか最後の審判だとかの、不安の煽りができなくなる。 さらには、イエスが予言した「終わりの日」もウソめいてくる。 こういった悲観的な予言は人の心を暗くする。場合によっては、 オウムのような狂信者が、予言を実現しようと画策するかもしれない。
黙示録の、悪魔が地上に投げ落とされるというイメージは、 イザヤ書から来ているわけね。でもこれはバビロンのことだよね。 黙示録からイザヤ書を解釈したら話が逆じゃないだろうか。 ああ、お前は天から落ちた 明けの明星、曙の子よ。 お前は地に投げ落とされた もろもろの国を倒した者よ。14.12
322を補足する。キリスト教会は、黙示録(12・9)から神と悪魔を 敵対関係にあると見る。その見方でイザヤ書の14.12を 悪魔(ルシフェル=明けの明星)が「地に投げ落とされた」と解釈する。 ルカ福音書10.18にも同じような記載がある。 これに対してユダヤ教会(旧約)は、神と悪魔を連携プレーと見る。
個人的には、エデンの園を守っているのは「蛇」だと考える。 だから、この園に入ろうとしたら、この「蛇」と戦わなければならない。 しかしこの「蛇」は、不用意に入ろうとする者をことごとくなぎ倒す。 ではどうしたらよいのか。逆に考えたらいい。人はなぜ追放されたのか。
>>313-314 で書いたように、生きるためにそうしないと仕方ないのだが、
善悪の知識・食欲・性欲で生きるから追放される。
これらを捨てること、これが「命の木」に至る道ということになる。
この話のどこに「蛇」が・・・と言えば、善悪の知識・食欲・性欲
そのものではないが、そのすぐ裏側にいる。
326 :
神も仏も名無しさん :2012/04/09(月) 06:36:41.31 ID:setqe2ET
ここまで来れば、なぜフロイトと唯物弁証法が威力を発揮したかがわかる。 まったくの偶然だったが、エデンの園に入るための合鍵になっている。 フロイトで食欲や性欲という本能について考え、 唯物弁証法で善悪の知識や、共産主義(食欲)について考えている。
◆ 命の木とは何か 運よく「蛇」との戦いに勝てば、命の木から取って食べることができる。 何を食べるのか。神の命である。これが聖霊である。 創世記2.7に出てくる命の息とは異なる。命の息は霊魂である。
神がじきじきに与えた命、これが霊魂である。 これに対して聖霊は、人が自分の意志で取りに行く命である。 命の木とはそういうものだから、人がエデンの園を追放される時に、 その存在が明らかにされる。原罪が生じる前は必要ない。 原罪によって神から離れたので、命の木という聖霊が用意される。
命の木から取って食べるとは、神の命を食べることに同義である。 その実はたくさんある。「蛇」に勝てば、だれでも食べることができる。 しかし実際には、その実を食べた人はほとんどいないと思う。 その理由は、体験の困難さ、時代の制約、教団の秘密主義などにある。 状況が変わった現代は? → 聖霊体験者が増えることだろう。
330 :
神も仏も名無しさん :2012/04/09(月) 20:46:48.59 ID:XTXvZPIJ
ここまでの検証から、エデンの園の話は純粋に個人的なものであり、 人種や民族や国家とはまったく無縁であることがわかるだろう。 聖書は最初の最初から、ユダヤ人でもなく、ユダヤ民族でもなく、 ユダヤ国家でもない、という地平からスタートしている。 ここからズレたら、ズレた方が間違っている。
「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」3.15 これは謎めいている。キリスト教界はこれを、イエスの登場を 預言したものだと解釈するらしい。ユダヤ教界にも それと似たような立場、メシアの登場とする説もあるらしい。
331の直前では、神は「蛇」に対し「お前(蛇)と女、お前の子孫と 女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。」と言っている。 3.15をどう解釈するか。330で言ったように、人種や民族や国家を 絡ませてはいけない。イエスとかメシアとかは関係ない。
「彼はお前の頭を砕き」・・・瞑想では「蛇」にはほんとうに頭がない。 小中大と三つの「蛇」を見たが、不思議なことに頭が見えない。 なぜ頭が見えないのかと言えば、わたしが「蛇」の頭になるからだろう。 目と目が合うのは、一体になっていない証拠である。
「お前は彼のかかとを砕く。」・・・かかとを砕くと言うのは、 だますとか、出し抜くという意味である。これが「蛇」のやることである。 命までは奪わないが、相手の「意志」を利用して窮地に追い込む。 人が問われているのは、人の「意志」である。
335 :
神も仏も名無しさん :2012/04/09(月) 22:00:13.57 ID:XTXvZPIJ
園の中央に「善悪を知る木」がある。アダムとエバに「さあ食べろ」と 言わんばかりである。それに神の態度が気になる。二人に皮の衣を着せたり、 この地上は大変だけど、がんばってくれよ、みたいじゃないか。 やっぱし神と「蛇」との連係プレーだよね。
聖書は聖霊につきる。霊魂を探求するヒンズー教や仏教と異なる。 命の木から食べれば、原罪は消え、心は癒され、至福を得る。 聖書はエデンの園のすばらしさを実感させる。 しかしその先を追求する動機がない。通常、聖書だけでは聖霊で終了する。 「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」コレヘト12.7
創世記2.7に、命の息として霊魂のことが書かれている。 しかしこれを探求すべき理由が聖書にない。エデンの園からの追放は、 どうしたら神との関係を修復できるか、という問題意識を持てる。 これに対して霊魂の探求は、神の業を探求するものであり、 そんなこと不可能だと、最初から問題外にされたのかもしれない。
聖書の世界は聖霊を中心に語られる。 ・・・ 地上の不幸から救われたい。この答えが聖霊である。 ヒンズー教や仏教の世界は、霊魂(アートマン)を中心に語られる。 ・・・ わたしとは何か。この答えが霊魂である。 ふたつの宗教世界は目標が異なるから万教帰一しない。
◆ 個人的な体験から集団的な体験へ 〜 ヤハウェ 聖霊は万人に開かれた個人的な体験である。しかし旧約(ユダヤ教)は、 それをユダヤ人、ユダヤ民族、ユダヤ国家の所有物へとすり替えて行く。 ユダヤの神ヤハウェが誕生する。
アダムとエバの子供がカインとアベルである。兄カインは土を耕し、 弟アベルは羊を飼う者になる。神は、カインの献げ物・土の実りを無視し、 アベルの献げ物・肥えた羊の初子に目を留められた。創世記4.1〜5 このことが原因でカインはアベルを殺してしまう。 神はなぜカインを無視したのか。→ この話の作者が羊を飼う者だから。
あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、 あなたの名を高める、祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者はわたしは呪う。 地上の士族はすべて、あなたによって祝福に入る。創世記12.1〜3
これは神が、アブラハムに突然現れ、突然宣言する「怪文書」である。 ここから公然と、ユダヤ人の神ヤハウェの活動が開始される。 ユダヤ人の選民意識の始まりであり、パレスチナ問題の始まりでもある。 神は、人の霊感に働きかけても、神がしゃべることは絶対にない。 神には口がないから。何も食べないから口を必要としない。
◆ ユダヤ人の罪はふたつある 〜 ユダヤ人問題の起源 @万人と同じく、ユダヤ人も原罪におおわれている。 A人を含めた生き物すべての神(命)を、自分たちだけの神であると信じ、 自分たちを特別の人種・民族・国家だと思い込んでいる。そのため内心では、 他の民族を基本的に動物扱いする。迫害されれば憎悪を抱く。
創世記は、バビロン捕囚前後に改ざんされたと言われている。 12章の「怪文書」もそのひとつなのだろう。 ただ、こういった改ざんが行われると、後の時代にそれを信じてしまう 人々が出てくるのでやっかいなことになる。ユダヤ人だけでなく、 イスラム教徒も信じている。困ったねえ(^^)
旧約は、ユダヤ滅亡の原因は「偶像崇拝」にあったと総括している。 その一方で、ダビデのようなメシア(救世主)待望論も強まる。 キリスト教はメシア待望論を背景に生まれたのだろう。 それにしても、キリスト教(カトリック)が旧約の十戒、偶像禁止を削除し、 十番目を二つに分けて数合わせをしているのには呆れて笑ってしまう。
というか、キリスト教は「信じれば救われる」だから、 十戒などどうでもいいんだろうね。同じキリスト教信者でも殺し合うし、 ましてや異教徒であれば容赦しない。有害動物として殺しまくる。 かれらをなだめる唯一の方法は、同じキリスト教徒になるしかないらしい。 キリスト教を信じる白人同士で殺し合えばいいのに。
ユダヤ人の人類に対する憎悪を甘く見ない方がいい。 世界を牛耳っているのはユダヤ資本だ。かれらは金の力を使って 人類の奴隷化を画策している。黙示録にある額の刻印は総背番号制だよね。 新自由主義、グローバリズムなどはかれらの主張である。 かれらは人類を破滅させようとしている。
348 :
神も仏も名無しさん :2012/04/10(火) 17:39:45.85 ID:94IOU3Gr
ユダヤ資本が世界の主人になり、後はすべてユダヤ人の奴隷にしてしまう。 かれらはそんなことを真剣に考えている。いまならまだ間に合う。 ユダヤ資本の悪魔的な妄想を粉砕しよう。
349 :
絶対神 :2012/04/10(火) 17:55:52.53 ID:e6xY2/n2
>>339 「あほらしい」 『そもそも人の心に働きかける聖霊という概念は、キリスト教が出来て 三位一体説が確立してから出来た考えじゃないのか?』 「ユダヤ教には元々無い概念だったと思うが?」
350 :
絶対神 :2012/04/10(火) 17:57:56.79 ID:e6xY2/n2
「ついでにいっとくと」 『聖霊っていうやつは、キリスト教徒ひとつ制御できないのか?』 「ずいぶんと役立たずの無能な神だな」 いなくて結構だ
◆ イザヤ 旧約最大の預言者イザヤについても少し触れておこう。 かれは言葉の天才であり、ユダヤ教の信者でなくとも読むべきである。 しかししかし、かれには聖霊体験があるが霊魂体験がない!
イザヤ書27.1には、「その日、主は、厳しく、大きく、強い剣をもって、 逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、 また海にいる竜を殺される。」とある。しかしこれはイザヤの空想である。 イザヤは神と蛇との関係を知らない。なぜなら霊魂体験がないから。 霊魂体験がないと龍神体験が生じない。
これについてはイエスの神秘体験でも書いた。
>>276-278 その時は、イエスには霊魂体験があると思ったが、どうなのだろう?
イエスと悪魔の関係が良好であり、イエスには霊魂体験があると判断した。
しかしイザヤは、神と竜(悪魔)とが敵対関係にあるので空想だと思う。
イザヤ書6章1〜4節もありえない。天使が翼を持っていたらアウト。 黙示録は、イザヤ書のこの箇所から取材したのか、やはり翼を持っている。 しかし天使は、霊的存在だから、翼がなくても飛行できる。 それに、エデンの園を思えば、神に仕えているのは竜以外にいない。 イザヤを盲信するから、黙示録にボロが出る。
イザヤ書6章1〜4節は、いわゆる聖三唱という個所である。 イザヤが見た幻は、高く天にある御座に神が座し、 上の方に六つの翼を持つセラフィムが飛び交い、呼び交わしている。 聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。 種の栄光は、地をすべて覆う。
黙示録4章2〜8節、神の周囲には、六つの翼を持つ、一面に目がある 四つの生き物が、昼も夜も絶え間なく言い続けている。 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、 全能者である神、主、 かっておられ、今おられ、やがて来られる方。
この二つには明らかにイメージの共通性があり、 イザヤ書6章を下敷きに、黙示録4章が書かれていることがわかる。 黙示録の作者は、イメージの連続性を意識している。 じつは、このイメージの原型はエデンの園にある。神がいる楽園の門を、 ケルビムと回る剣の炎 〜「蛇」が守っている。
エゼキエル書4〜14節にも似たような話が書かれている。読み比べると、 エデンの園→イザヤ書+エゼキエル書→黙示録という流れがある。 何かと言えば、聖書作者は古い話を参考に、新しい話を練り上げている。 同じ幻覚を見たのではない。古い話を参考に書いている。 だから、天使の翼のような、同じような間違いを繰り返すことになる。
この話にこだわったのは、預言の成り立ちが見えてくるからである。 イザヤ書53章に福音書の元ネタのような話がある。 キリスト教界は、イザヤ書はイエスの出現を預言したのだと主張している。 しかしどう読んでも、イザヤはその当時の出来事を書いたのであり、 それを元ネタに福音書が書かれたとしか思えない。
聖書の預言には胡散臭いものがある。 釈迦が活躍した頃、何しろ紀元前500年以上昔の話である。 歴史の経過を知っている後世の作者により、さも預言されていたかのように、 聖書を書き換えることが習慣的にあったのではないか。 なぜなら、預言が当たった、という方が信者にアピールするからである。
今となっては、真実は闇の中 ・・・ というわけでもない。 聖書には聖霊体験があっても、霊魂体験がなさそうなので、霊魂体験から 見ていくと聖書の間違いが見えてくる。 イザヤ書も黙示録も、まるでフクロウのような天使をイメージしている。 これはまったくの空想である。これは真実ではない。
それからもうひとつ。神や天使がしゃべることだが、この源流はたぶん、 創世記2章7節、神は「命の息」を泥人形に吹き入れた、にある。 神は息をする→息をする口がある→口があれば話す、という連想である。 ヒンズーの聖典ヴェーダもそうらしいが、大昔は息に人間の命が宿ると 考えられていたらしい。神の息とはそういう意味である。
364 :
神も仏も名無しさん :2012/04/11(水) 06:38:22.36 ID:3WipDow6
聖書は、神や天使がしゃべることを前提に書かれている。 しかし、神や天使がしゃべらないのであれば、信じてる人には気の毒だが、 聖書の話は、その多くがウソ、作り話ということになる。 まあそれでも、聖書の値打ちはあるが、その全部を信じたらダマされる。 その辺をわきまえて読むということだろうか。
◆ 荒野の試練 ・・・ マタイ福音書4章1〜11節 これはまだ検証してなかったね。問題はこの話が、霊魂体験をした後の、 龍神体験なのかどうかだが、どうも作り話のような気がしてきた。
よく読めば、悪魔とイエスが荒野の決闘をしているわけではなく、 イエスの、神への忠誠心を悪魔が試している。 だからこれは、神とイエスとの決闘を再現している。 しかしこの決闘は、洗礼(悔い)→聖霊の訪れで、すでに決着がついている。 イエスが敗れ神の前に膝を屈している。敗者の栄冠が聖霊である。
かりに瞑想中であれば、聖書の言葉で悪魔と問答するはずがない。 瞑想中の魔境は夢と似ている。夢は記憶を思い出させない。記憶は夢を作る側 にいる。そのため、夢では聖書の言葉を思い出さない。それなのにイエスは 聖書の言葉で悪魔と問答する。夢の世界ではありえない話である。 何かを感じ、思うことはあるが、何かを言おうとすれば目がさめてしまう。
瞑想ではなく、単なる考えごとでは、荒野の試練にならない。 それに、イエスと悪魔しかいないはずなのに、具体的な描写がなされている。 いったいだれがそれを目撃し、記録したのか。こういった話が、旧約を含め、 聖書の中にはゴロゴロしている。これらは聖書作家たちの空想であり、 もっともらしい作り話ではないかと。
悪魔との問答にしても、冷静に読めば、バカらしさのようなものを感じる。 普通人なら、石がパンにならないことも、高い所から飛び降りれば死ぬことも わかっている。道義を無視すれば、金を手にしやすいことも知っている。 悪魔は当たり前のことを問い、イエスは人として当たり前に答える。 ここの問答は有名だが、いったいどこがどうすばらしいのか。
多くの人は世俗の損得で生きている。しかし、その人たちにも悩みがあり、 これでいいのかと常に考えている。心は神か金かで揺れている。 その結果、自分を悔い、聖霊の訪れを受ける場合もある。 聖霊の訪れがあれば人は神を知る。もはや神か金かという選択肢がない。 聖霊を知れば、人は喜んで神を選ぶのだ。
だから、聖霊を受けたはずのイエスには、福音書のような「悪魔の試練」は 無意味なのである。なぜ無意味な話が福音書に挿入されたのか。 聖霊を受けたら、悪魔の試練があるはずだという福音作家の先入観だろう。 こういった知識はユダヤ教団に蓄積されている。そこから空想する。 ・・・ 洗礼(悔い)→聖霊体験→霊魂体験→悪魔(龍神)体験→守護天使
372 :
神も仏も名無しさん :2012/04/12(木) 03:22:23.80 ID:EWDRyeu1
ここで前の話を修正したい。イエスというか福音作家は、霊魂体験がなく、 悪魔のことも知らない。福音書は神と悪魔を敵対関係としてとらえる。 イザヤ、エゼキエル、黙示録、福音書は同じ線上にある。 神と悪魔をパートナーとみなす、エデンの園やヨブ記とは異なる。 福音書が整理できたので、だいぶすっきりした。
やっぱし聖書には、霊魂体験以下が欠けているね。 そういったことはどこかから聞いたうわさ話なのかもしれない。 真の試練は、悪魔そのものとの緊迫した対決であり、神は登場しない。 その人が、本当に仕えるべきなのかと、悪魔に試される。 これが悪魔(龍神)体験ではないだろうか。
悪魔は何を試すのか。 悪魔(龍神)を愛せるかどうかを試そうとする。神ではない。 そこにいる、弱者、病人、貧しい人、不幸な存在を愛せるのかどうか。 ふだん恐ろしいと思っているもの、 悪魔は恐ろしいものとなり、それを夢の中で試そうとする。
前の方(
>>367 )で、夢では会話しないと言ったが、これを訂正したい。
思い出したのだが、しきりに会話したケースもある。
泣いて謝るから、もらい泣きして赦し、ふたりで抱き合って泣いたのだね。
ほどよい所で別れたが、目が覚めると実際に泣いたわけではない。
後味のいい、不思議ィーな夢であった(^^)
相手は30前後の女性。こっちも同じくらいだね。 でも性的な方向には流れなかった。ふーんとによかったよ。 なんだかなあ。女性が食事を作り始めたので、遠慮してサヨナラした。 夢だとバカにしない方がいい。バカにすると夢にバカにされる。
◆ 「蛇」= 悪魔は、神の敵なのか、神の味方なのか。 重要なのでこの問題を再考してみたい。神の敵と見なす起源は エデンの園にあると思う。神は「蛇」に、「蛇」があらゆる野の獣の中で 呪われるものとなったと宣告する。この言い方は少し変だね。 神が呪うのではなく、人から呪われることを言っているような感じである。
悪魔が好きな人はいないだろう。人の幸せを邪魔する邪悪な存在である。 蛇は園から追放されることになった元凶であり、そのうえ園の守衛? 人の天敵のような存在じゃないか。蛇だとか悪魔だとか、 この世から消えてなくなってほしい。〜 人のそういう切実な願望が、 黙示録のような、神と悪魔の大決戦を空想させる。
キリスト教は神と悪魔の争いを強調している。 神の国はあの世にあり、この世は悪魔が支配する邪悪な場所であり、 やがていつかは、神と悪魔の一大決戦があると信じている。 それを描いたのが黙示録である。神に与えられた幻覚という体裁だが、 相当怪しい。その理由は〜悪魔は神の味方だからだ。
ユダヤ教は「蛇」の役割を高く評価しているらしい。 この世では、善悪の知識や食欲や性欲などの本能が欠かせないからである。 蛇はそれを教えてくれた恩人ということである。旧約には悪霊という記述が サムエル記上16.14にある。「主から来る悪霊が彼をさいなむ」 作者は悪霊が神から来ると考えている。悪霊は神の支配下にある。
他方でケルビムを、ユダヤ教はどうとらえるのか。 例の「蛇」とは異なる天使だとするのか。だとすれば間違っている。 神と蛇とアダムとエバしかいない。二人が追放されたら、残るのは神と蛇。 神ではないから、蛇ということになる。園を守るのは蛇である。
蛇では不正確である。黙示録にもあるように、実際には竜である。 エデンの園は竜が守っている。神がいるのだからエデンの園は神界である。 竜の役割は、神界が汚されないように、神界を守ることにある。、 生きることそのものが汚れだから、人間はだれひとり神界に入れない。 唯一、精神的に死ぬことによって可能になる。
ユダヤ教の戒律をこの視点から見ると奇妙な印象を受ける。 613の戒律は法律のようなものだろう。罪を犯さないためには役立つが、 この戒律を守れば救われるという合理性が欠落している。 これは神との契約なのだが、どうもポイントがズレているとしか思えない。 戒律を研究し、戒律を実行すべく努力しても救われない。
そうではなく、どうしたら精神的に死ねるのか、という問題意識である。 これについては、もうすでに書いたと思うので省略する。 要するにユダヤ教は、基本的なところでズレているから、少数の人を除き、 救いの恩恵から漏れてしまう。ただし旧約は、バラエティーに富み、 戒律に拘らなければ、読んで損することはない。
385 :
神も仏も名無しさん :2012/04/13(金) 23:58:48.77 ID:SDIuVoab
キリスト教に戻れば、神と悪魔は敵対し、神の国はあの世、 この世は悪魔が支配しているから、いずれは神と悪魔の決戦が避けられない。 悪魔を滅ぼさないと、この世に最終的な平和がやって来ない。 ブッシュは悪魔の枢軸と言ったが、こういったキリスト教の教義が背景にある。 ボロボロに矛盾してるが、キリスト教徒は深く洗脳されて気がつかない。
イエスの時代なら、ローマ皇帝がこの世の君であり悪魔である。 今は、アメリカ大統領がこの世の君であり悪魔である。 正義の代表選手のような顔をしているが、実際には貧しい国々へ攻め込んで、 その土地の資源や利権を奪っている。キリスト教のハルマゲドン妄想は、 神のふりをした悪魔の勝利に終わることだろう。
愛とか平和とか正義とかが、まるでその正反対になってしまうのは、 キリスト教の教義に根本的な欠陥があるからではないのか。この世ではなく、 神の国である、あの世での生活を目標にするが、これは転倒思考だろう。 人類の未来に、地球規模の破滅、ハルマゲドンや最終決戦を設定するのは、 危険極まりがない妄想としか思えない。
イエスの時代、このままでは滅亡するという危機感がユダヤ人にあり、 ユダヤ人の終末思想にはそれなりのリアリティーがある。 しかし、悪いイメージがあれば、それは現実となるのが世の常であり、 ローマに決戦を挑み、ついにユダヤ民族の滅亡が現実となる。 悪いイメージがあるから、悪いイメージに引きずられる。
今の世界は終末への道を歩んでいる。 ユダヤ資本や軍産複合体などの問題もあるが、キリスト教の終末思想が 人類全体の共同幻想になっているからではないだろうか。 なぜ2000年前の、ユダヤ人の妄想につきあう必要があるのか。 ユダヤ人の運命をたどる必要などない。
それもこれも、神と悪魔を敵対関係にするから狂ってしまう。 ユダヤ人への試練は何度も繰り返さえられるのに、試練ばかりでついに 滅びてしまう。神への強い信仰心があれば、悪魔を成敗してくれることを 願うようになって当然かもしれない。なかには神への深い絶望から、 悪魔に魂を売る狂人も現れる。これがユダヤ資本である。
1996年の、世界人口55億の資料によれば、 キリスト教19億、イスラム教10億、ヒンズー教9億、仏教3.4億 これは100人いれば、35人がキリスト教徒、19人がヒンズー教徒 6人が仏教徒になるという。
◆ 十戒と十善戒 キリスト教に飽きたので、戒の話を少しやってみたい。 プロではないので、初歩の初歩だけど、間違ってたら勘弁して下さい。
十戒はキリスト教の戒、十善戒は仏教の戒だけど、この二つを並べると、 キリスト教と仏教の違いが歴然とする。 キリスト教は、神と人との関係、人と人との関係を語っている。 ところが仏教の十善戒は、人と人との関係しか語らない。 神不在なのが仏教であり、その特徴を戒において明確に示している。
393の訂正、十戒は新約の戒ではなく、旧約の戒でしたね orz それから十戒、十善戒はネットで検索して下さい。
神と人、人と人との関係を喩えると、神と人はその家の内側であり、 人と人はその家の外観になるかもしれない。戒はことの善悪を説くのだが、 そもそも善悪がわからなければ、戒が成立しない。 ことの善悪を知るには、善そのものである神を知らなければならない。 神を知ってこそ、戒が成立するという順序になる。
その点、仏教の戒が外面的になっていないかと疑問を感じる。 しかし、心構えという側面から、戒の役割を評価しなければならない。 神を知らなくても、何かしらの戒を持ち、自分を律すべきである。 やりたい放題をやっていたら獣のようなものである。
神を知らないと戒を持ちにくい。しかし子供を考えたらいい。 親が子供に、生き物を大切にしなさいとか、人の物をとってはだめだよとか、 女の子と仲良くしなさいとか、ウソをついてはだめだよなどと教えれば、 子供は素直にそれらを守るのではないだろうか。
十戒の人と人との部分、十善戒程度なら子供にも教えられると思う。 素直さを失っても、かわりに理解力があれば、自分で学ぶことも可能だろう。 ただ、子供の心の成長に親が無関心であったり、周囲にそういった話に 心を向ける機会がないと、何も知らないで年を重ねる。 その結果、悪に染まり、それを善いことだと思うような人間も出てくる。
成人して社会に出れば、金、金、金の人間関係になり、悪意を持った、 とんでもない人間が周囲にゴロゴロしていることに気づく。 生きていかなければならないから、自然と周囲に合わせざるを得ない。 子供のころはともかく、社会では戒を保つことが非常に難しい。 おとなしいと、それを利用しようという連中が必ず現れる。
こういう社会だから、出家したくなる気持ちもわかる。 しかし修行だと思えば、この社会で苦労する選択もあるのではないか。 そしてこの苦労が、精神的な死、悟りへとつながる。 苦労は、社会で生きていく知恵として、その後の人生で大いに役立つ。 悟るためには、損得社会の中で戒を保つことが効果的である。
401 :
神も仏も名無しさん :2012/04/15(日) 06:01:32.33 ID:C+KzYzYs
もうひとつの役割は、道を大きく踏み外さないブレーキ役である。 生きてれば失敗はつきものだが、人間は不思議なもので過去のことを全部 記憶している。そして自然に、嫌な記憶を繰り返し思い出すのだ。 いいことは思い出さないが、嫌なことを思い出す仕組みになっているらしい。 だからできるだけ、嫌な記憶を作らない心がけが欠かせない。
十戒も十善戒もなかなか身につかないものである。 身につけたいなら、何年でも毎日繰り返し、自分に言い聞かせる。 精神的な領域でも無くて七癖だから、それに気づいたら直そうと心がける。 増え過ぎを避け、自信ができたら除き、新しいものと入れ替えていく。 神を信じるなら神への祈りも同時に心で唱える。
神を知らなくても「心がける」ことはできる。
しかし神を知るに越したことはない。その違いは内側と外側だろう。
>>395 マタイ福音書23.26には、「まず、杯の内側をきれいにせよ。
そうすれば、外側もきれいになる。」とある。
新鮮な驚きがあったが、釈迦も同じようなことを言っている。 中村元訳『神々との対話』第V篇第二章第一節15に、「或る人々は つき従う仲間をつれて歩き廻っているが、内心は不浄であり、 外側だけ立派なのである」と。内側と外側の問題を指摘してるだけでなく、 釈迦が究極の悟りに到達していたことの証拠のような個所でもある。
釈迦は2500年前、バラモン教の時代を生きたのであり、 聖霊の訪れがあったにしても、それが唯一神だとは夢にも思わなかったろう。 せいぜい神々のひとり、あるいはブラフマン程度ではないだろうか。 しかし、その体験は聖霊体験でだから、釈迦は善そのものを知ったのであり、 だからこそ「信仰の善悪」を明確に区別して話せるのではないか。
釈迦は、戒の裏付けとして「神を知る」重要性を知っていたと思う。 それが形骸化されてしまうのは「神を知る」困難さだろうか。 その困難さは、大乗に至り、手段(空)と目的(悟り)の転倒として完成する。 この経過は聖書も同じ。ユダヤ教の律法主義、キリスト教の盲信主義へと 堕落することで人々は落ち着き、精神的な安定を獲得する。
話を戻せば、釈迦は神を前提に、善悪や戒を説いたのではないだろうか。 神を知ることで善悪を知り、善悪を知ることで戒が成立する。 この順序であれば、善悪という内側の心と、戒という外側の行為が、 外側から内側へ、内側から外側へという相互作用を生む。 戒が苦にならず、心から戒に打ち込むことができる。
インチキ宗教は除くが、戒は教祖が神秘体験をし、その体験を土台に 信仰の善悪が確立された後で説かれる。 戒が宗教の花だと言われる理由は、その宗教の根幹から生まれ、 その宗教の現実的な実践課題になるからである。 外の人間から見れば、戒こそがその宗教を色取るものになる。
仏教の教えは経律論とか戒定慧とかの分類がされる。 戒は心がけであり、律は僧団内での平和を維持する規則である。 大乗は、鑑真が伝えたインド由来の律を放棄し、 梵網経に由来する大乗戒を僧侶の守るべき義務にした。しかし今は、 僧侶の肉食妻帯が流行し、戒さえも破られている。
戒は日常的な生活実践であり、 まだ真理を知らない弟子たちにとっては修行そのものである。 戒という制約(外側)と、それに抵抗する心理状態(内側)のギャップを、 忍耐し、埋めることが弟子たちの目標である。 形から入ろうという修行である。
戒について語るのは難しい。話がやたら散漫になってきたよ。 語るのではなく、実践することだからなのだろうね。 もう終わりにするが、最後に仏教とキリスト教の比較から言えば、 神と人との関係が抜けた仏教の戒は問題だと思う。 なぜなら、戒あるいは道徳の源は神以外にないからである。
無神論や大乗の空は、戒や道徳の根拠にはならない。
逆にこれらを破壊してしまう。これらに内面的な拠り所がないから、
周囲の目が拠り所になり、外面的な見せかけになってしまう。
こういったあり方が、釈迦やイエスに非難されたのだ。
>>403-404 それゆえ、十戒と十善戒を同時に唱えることをすすめる。
413 :
神も仏も名無しさん :2012/04/16(月) 07:20:32.62 ID:g1MQXwen
十戒から見れば、浄土系はとんでもない宗教になるかもしれない。 (第一)神はひとつはいいとしても、(第二)偶像禁止に違反し、 (第三)神の名をみだりに唱えるなに「大きく違反」する。 あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。 主は、御名をみだりに唱える者を罰さずにはおかない。
日蓮系は理解しにくいかもしれない。法華経という本の題名を奉じ、 手段(空)を、目的(救い・悟り)だとカン違いしている。 金は生きるための手段だが、この金(現世利益)を生きる目的にしている。 これでは世俗そのもの、宗教を利用した悪徳ではないだろうか。 日蓮系は浄土系に劣ると思う。宗教としては論外である。
houhou
十牛図の第五・牧牛、第六・帰牛帰家が戒の話ではないかと思う。 欲がまったく無くなったら死ぬ。生きている限り、欲との戦いがあり、 その欲をどう飼い馴らすかがテーマになる。 飼い馴らす側から欲を意識したものが戒である。
417 :
神も仏も名無しさん :2012/04/17(火) 13:07:17.53 ID:ClfwpzSK
日本に戒律を伝えた鑑真は、日本への渡航が5度失敗し、 疲労から失明し(多少見えたという説もあり)、6度目でやっと来日する。 55歳から65歳の10年がかりである。鉄のごとき意志であり、 戒律師の何たるかを感じさせられる。いまも戒律宗として存在しており、 奈良市にある唐招提寺が本山になる。日本に尽くした中国人に感謝。
418 :
神も仏も名無しさん :2012/04/17(火) 13:09:37.35 ID:bZPNWzHL
天地明察
419 :
神も仏も名無しさん :2012/04/17(火) 13:14:55.60 ID:bZPNWzHL
善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや
420 :
神も仏も名無しさん :2012/04/17(火) 15:20:32.67 ID:9YUuAEw3
真理を会得
ごまちくせえんだよあほが
422 :
神も仏も名無しさん :2012/05/06(日) 15:58:28.46 ID:xFycxhJH
保守
423 :
神も仏も名無しさん :2012/05/14(月) 20:36:04.91 ID:YHHkRJBk
保守点検
424 :
brown :2012/05/14(月) 23:15:40.46 ID:20IcQTys
煩悩という障害を浄化し,解脱することが仏道であり,戒・定・慧とまとめられます。 煩悩には粗大,微細の別に3つの段階があり, 最も粗大なものは,身や口の行動にまで現れる強い煩悩, 中くらいなものは,身や口の行動には現れないが,心の中では生じている煩悩, より微細なものは,心の中にも生じていないが,潜在しており,起こせば現れる 睡眠煩悩というようになります。 そのうち,最も粗大な煩悩は戒によって対抗し, 中くらいのものは定によって静め, より微細なものは知恵によって治めるということになります。
426 :
神も仏も名無しさん :2012/07/20(金) 16:30:50.46 ID:clUimPMl
続きを待ってるけどもう来ないのかな?
またやんは意外とデリケートだからな・・・
(^-^)
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430 :
神も仏も名無しさん :2012/10/31(水) 12:52:53.21 ID:sUXMfINW
中村元訳『ブッダ最後の旅』・・・6章24節 この本に「9次第定」という禅定の段階が書かれている。 それによれば瞑想は、まず色界の「四禅定」、次に無色界の「四無色定」、 その次に滅想受定(滅尽定)を、順次経過しながら深まるという。
「9次第定」の意味は、3章12節33にほぼ説明されている。 四禅定と、非想非非想処を除く四無色定を、後のアビダルマ教学の 空虚な設定として無視すれば、重要な禅定は次の二つになる。 「非想非非想処」想いがあるのでもなく、想いが無いのでもない という境地。「想受滅」表象も感受も消滅する境地。
さて尊師は、禅定段階を行きつ戻りつしながら入滅する。 6章24節8〜9 @ (初禅)四禅定→四無色定(非想非非想処)→滅想受定 A 滅想受定→(非想非非想処)四無色定→(第四禅)四禅定→(初禅) B (初禅)四禅定→(第四禅)→ニルヴァーナ
この話(6章24節8〜9)には大きな疑問がある。 @ 滅想受定に入ると、自分を失ってまったく身動きが取れない。 それなのに尊師は【自分から】非想非非想処に移行する。〜ありえない。 A 尊師の瞑想を、いったいだれが覗いたのか。〜後のアビダルマ教学か。 B 色界の第四禅でニルヴァーナなら、四無色定も滅想受定も必要ない。
これらの疑問は滅想受定を理解すれば氷解する。いったん滅想受定に入れば 後戻りできない。従って6章9にある話は本来ありえない。この部分を 後からの挿入として除けばすっきりする。なぜこんなことをしたのか。 滅想受定を知らなかったからであり、尊師の権威を利用してかれらの教学に 箔をつけたかったからだろう。滅想受定→ニルヴァーナが正しい。
「四禅定」と非想非非想処を除く「四無色定」とは、 世親の『唯識三十頌』で完全に無視されていることに注目してほしい。 世親は瞑想の行者である。二つの禅定が重要なら、何かしら触れているはず である。しかし何一つ触れていない。その理由は「そんな禅定はない」 ということに他ならない。これが世親の答えではないだろうか。
「四禅定」と、非想非非想処を除く「四無色定」とは、三章24以下の 八つの勝処、三章33の八つの解脱にあるように、ある特定のイメージを しながら行う瞑想である。かりにできたとしても、逆にそのイメージが邪魔 をし、それ以上に深くならないだろう。それにイメージが抽象的であり、 実戦的でない。要するに体験の裏付けのない空論だと思う。
入滅を複雑にした動機・・・想受滅からニルヴァーナでは、自分が消滅 した状態で一生を終えることになる。これでは断滅論である。 そこで行きつ戻りつにし、色界の四禅定、第四禅からニルヴァーナにする。 こんな変更をしても、想受滅を実際に知らないから無神経でいられる。
自分を知ることが瞑想(坐禅)の目的である。 何のために瞑想をするのか。それを明確にしないと、瞑想の方法も明確に ならない。基本的には、自分の心の中に潜行し、自分とは何かを探求する ためである。自分を知るためである。
心への潜行から、いくつかの禅定(境地)が順番に姿を見せる。 @ 外界への拘りがある・・・雑念→消える A 自分への拘りがある・・・感覚が鋭敏になる→消える B 外界へも自分自身へも拘りがない・・・非想非非想処(鏡のような意識)
非想非非想処・・・ストレスが解消し、集中力が高まり、周囲を素直に あるがままに感じることができるようになる。自分の壁を突き抜けたような 思いがする。しかしこの境地は長続きしないから、 この境地の快適さを求め、瞑想することがクセになるかもしれない。 無我の境地、道元の只管打坐、シャンカラの梵我一如などの境地であろう。
非想非非想処に至る過程は二つに区別できる。 色界の四禅定と、無色界の四無色定に区別する九次第定と似ている? いや、まったくちがう。九次第定の二つは禅定イメージが先行し、 そのイメージ自体が瞑想の邪魔になる。どちらも雑念レベルにすぎない。 自分を知るには、心を白紙にして瞑想しなければならない。
C マナ識・・・非想非非想処から魔境に入る。 夢もマナ識で見るが、夢よりも鮮明である。ここで神仏に試される。 魔境に翻弄されるのではなく、正しく判断できるかどうかが問われている。 正しく判断できれば解脱するだろう。誤れば現実へ弾かれる。 この境地の重要性はほとんど知られていない。
魔境とは何か。夜の夢と似たようなものである。 この夢を魔境だと思い、悪夢を良夢に変える訓練をしたらどうか。 そのコツは、ひたすらやさしくなることである。 夢の中でやさしくすれば、夢の内容が変わり、いい夢を見ることができる。 神仏は、生き物への、やさしさを求めている。
D アラヤ識・・・アラヤ識を捨てることで滅尽定(想受滅)に入る。 業の正体はアラヤ識である。このアラヤ識が、人間の形で魔境に現れること がある。その時、アラヤ識を捨てることができれば滅尽定に入る。 業は概念ではなく、人間の形で現れるから、一挙に捨てることができる。 アラヤ識を捨てる〜これが解脱である。アラヤ識は過去世でもある。
滅尽定では自分が完全に消える。そのため魔境→滅尽定以後は、 死ぬか成道するかのどちらかであり、非想非非想処などへ後戻りできない。 山岡鉄舟など、瞑想(坐禅)しながら息絶える話は昔からある。 薄明下、半眼で瞑想するのは、魔境に入ることを防ぐ意味があるのだろう。 しかし死ぬことを恐れては悟れない。
E 根本識(霊魂)・・・滅尽定から、涅槃定(ニルヴァーナ)に入る。 涅槃定にはいきなり入る。涅槃は清浄な白い霧であり、そこを透明な霊魂が 猛スピードで走り抜けて行く。霊魂は球で、意識も感覚もある。 これを書いたのが『ウダーナヴァルガ』26章24〜29ではなかろうか。 周囲を見ている主体が根本識(霊魂)である。
夢窓国師『夢中問答』 「如何なるか、典外の法。」「八角磨鏡、空裏を走る。」 世親『唯識三十頌』 「そしてそれ(根本識?)は、暴流のように、流れて存在する。」第四頌 「それ(アラヤ識)は阿羅漢の位において消滅する。」第五頌
F マナ識から意識へ・・・根本識が地上の身体に戻って成道する。 根本識は呼び戻さないと帰って来ない。だれが呼び戻すのか。根本識には 意識も感覚もあり、アラヤ識は捨てているから、残されたマナ識である。 滅尽定において、地上の身体にはマナ識が取り残され、これが取り残される ことでかろうじて生きている。〜そのマナ識が文字通りものを言う。
魔境と同じく成道についても、その意味はほとんど知られていない。 成道の意味は、涅槃(ニルヴァーナ)と、この地上を比較するところにある。 涅槃より、この地上を選択するから生き返る。マナ識の声は、 どんなに苦労しても、それでも地上を選択しようという意志表明である。 涅槃より地上を選ぶ〜これが菩薩道の源流である。
空海『三教指帰』序文 「谷響きを惜しまず、明星来影す。」 空海はわずかな言葉で自身の成道を伝えている。 自分の霊魂が空中に浮かび、それが自分に向かって飛び込んで来る。
自分とは何か〜自分とは霊魂である。
以上(
>>438-450 )をまとめると、次のような流れになる。
意識→マナ識→アラヤ識→根本識(霊魂)→マナ識→意識
非想非非想処→魔境→滅尽定→涅槃定(神界と霊魂)→成道・・・境地
仏教の目的は解脱にある。その解脱は瞑想によってもたらされる。 それならば、瞑想の流れは仏教そのものだとも言えよう。 未知の果物(X)があったとしよう。その(X)そのものは瞑想体験だろう。 (X)を言葉で表現したものが、経典であり戒律であり論書である。 しかし言葉をいくら学んでも(X)にはならない。
やみくもに、ぼう大な仏典に挑戦するのは愚の骨頂。 瞑想の流れがわかれば、何を学んだらよいかがある程度推測できる。 空海「百歳八万の法蔵を談論すとも、三毒の賊いずくんぞ調伏せんや。」
瞑想の流れから、何を学ぶべきかを整理してみよう。 A 縁起・・・縁起は心の世界へ入って行く道具である。 B 心理学・・・心の世界へ入って行くのだから心理学も欠かせない。 C 信仰・・・魔境を渡り、無事に成道するためには信仰が欠かせない。
A 縁起〜「此れがあるから彼があり、此れがなければ彼がない。」 @ 視覚化すれば、銀河の渦、陰陽の太極図である。 A 動きとしてみれば、正反合の唯物弁証法になる。ここで学ぶのがよい。 努力に見合った成果があり、縁起に慣れ、それを自分のものにできる。 B 龍樹の『中論』は難解であり、敬遠した方が賢明だろう。
『中論』は、24章18詩「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。 それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。」を論証 する構成になっている。だから、これを読んでも、一切皆空という結論しか 残らない。つまり縁起に慣れることにはならないのだ。しかし、実際に必要 なのは、縁起に慣れ、縁起を使いこなす能力なのである。
『中論』の縁起・・・善悪は縁起しているから空であると見なす。 「唯物弁証法」の正反合・・・ひとつのコインの表裏という見方をする。 たとえば経済は、表が生産活動なら、その裏に消費活動が存在する。 そして常に、外見に隠されている裏側は何であるかと考える。 この訓練によって縁起に慣れ、縁起は心の世界に入って行く道具になる。
B 心理学〜「人間とは何か」をテーマにしたもの @ 自分や周囲の人間が教材になる。 A フロイト著作集を勧めたい。症例中心で読みやすい。 B 世親の『唯識三十頌』は、マナ識アラヤ識が理解できれば十分。
459 :
神も仏も名無しさん :2012/11/04(日) 07:37:12.40 ID:Xlkxxo3a
意識・マナ識・アラヤ識・根本識(霊魂) 意識が感覚と身体を持つように、それぞれの識はそれぞれの身体を持つ。 マナ識は夢・魔境の中に登場する自分である。 アラヤ識は魔境に姿を見せる。アラヤ識は霊魂を覆っている汚れ。 根本識(霊魂)の身体は球形である。
マナ識が魔境でアラヤ識を捨てると滅尽定に入る。 このとき、捨てられたアラヤ識の中に、根本識(霊魂)が隠れている。 根本識こそは本当の自分だから、アラヤ識を捨てることは 本当の自分を捨てることとイコールである。その結果、 アラヤ識を捨てると同時に、自己意識が消滅して滅尽定に入る。
マナ識は、夢や魔境の中でも、善悪を判断することができる。 これがわかれば、謎めいた次の言葉もわかるだろう。 目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主人が帰って来られるのか あなたがたには分からないからである。〜マタイ福音書24.42
世親の唯識は、感覚、意識、マナ識、アラヤ識の八識を立てる。 わたしは自分の体験から、これに根本識(霊魂)を加えて九識を立てている。 世親のマナ識、アラヤ識には啓発されたが、自分の体験から理解し 話しているので、世親の話とは相当違っていると思う。 どこがどう違うかは、今後の課題ということで今回は省略したい。
C 信仰〜空を説く仏教では置き去りにされている @ 信仰が慈悲の原点ではないだろうか。 A 聖霊(甘露)体験を準備するもの・・・十二支縁起(逆観)、四諦八正道 B 坐禅の教科書『天台小止観』を検証する。
仏教は「善悪は縁起しているから空である」と説く。 ということは、善も悪もない、と主張していることに他ならない。 これが仏教なら、道徳や人倫を破壊する反社会的思想ではないだろうか。 空では人殺しも自殺も否定できない。空の中には信仰も慈悲もない。 それなのに信者に対し、慈悲や善悪を説くのはなぜなのか。
僧侶は「空」を信じ、慈悲や善悪を認めない。 しかし信者に対しては慈悲や善悪を説く。このダブルスタンダードは、 信者をだますための見せかけとして役立つだけでなく、 仏教を内部崩壊させる強力なクサビとしても役立っている。 なぜこんな結果になるのか。その原因は「空」にある。
人間以外の畜生でさえ、親子の情、夫婦の情、仲間の情があるのに、 これらを全部「空」で片づけてしまう話には簡単に同意できるわけがない。 そんな切り捨て方をすれば畜生にも劣るのではないか。 空を説く仏教への不信感は、人間が持っている自然な感情をまるごと否定 するところにある。ちょっと待ってくれよと。
「空」と慈愛や善悪を両立させる論理が仏教にはないのか、 といえばそうでもない。それは仏教(アビダルマ)の宇宙論の中に見られる。 宇宙の根源は虚空にあり、虚空の上に風輪、水輪、金輪が形成され、 金輪の上に大地と海が形成されるという。この虚空こそが「空」であり、 そこに形成された大地と海に、慈愛や善悪が存在すると考えれば両立する。
空と慈愛や善悪とは、その相が異なるから両立するという話である。 この考え方は、ある時、虚無(空)が爆発し、神と宇宙が誕生したという、 ビッグバン仮説とほとんど同じである。だから仏教には、 空と慈愛や善悪を同時に説いても、矛盾しない土壌がないわけではない。 この世の真理を語りたいなら、神仏の問題を避けては通れない。
釈迦は瞑想によって成道する。瞑想は心の世界に潜行する作業である。 深い瞑想には神への信仰が欠かせない。だから、瞑想を成功させるために、 瞑想する以前に神の問題を解決しておかなければならない。 釈迦はどうなのか。釈迦の教えの中に、神に関するものがあるのかどうか。 これがあるのですね。それが十二支縁起、四諦八正道である。
釈迦は29歳で出家して35歳で成道する。成道した時は、 どうしたら成道できるか、そのノウハウを全部体験していたはずである。 また35歳という年齢、書物を捨てて乞食修行していたことを思えば、 釈迦の教えは実践中心の素朴なものだったろうと想像できる。 縁起の理法、十二支縁起(逆観)、四諦八正道にもっと注目した方がいい。
★ 坐禅の教科書『天台小止観』を検証する わたしが実際に利用したのはごく簡単な流布本だった。 残念なことにそれを捨ててしまい、その後本屋で探したが見当たらず、 やむを得ず大東出版、関口真大訳にした。←これの話です。
その序に「七仏通戒偈」がある。 諸悪獏作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教 諸の悪いことは作すことなかれ 諸の善いことは奉行せよ 自からその意を浄うする これが諸仏の教である
作者は中国の天台宗、智(538〜597)である。 智は法華経や龍樹の空を信奉する大乗教徒であったと言えば、 『天台小止観』の内容はおよそ見当がつく。序に「七仏通戒偈」を掲げ、 さも善悪を重視しているかのように思わせている。しかし実際には、 坐禅(止観)によって「空」を悟ることが内容になっている。
全十章だが、その第八章「魔事を覚知せよ」に、魔境らしき記述がある。 しかし智は、魔境を否定し、空論者ならではの主張をしている。 これから察するに、智の坐禅レベルは非想非非想処であろう。 この人は仏教の研究者だったのだろうが、残念なことに悟っていない。 悟ってない人に師事しても悟れない〜これが道理だろうと思う。
日本で坐禅の教科書と言えば、智の『天台小止観』である。 その智が悟りを開いてないなら、日本の大乗は全滅してしまうね(^^) 細々とした記述が多く、最終章では従仮入空、従空出仮、中道の正観なる 哲学的思弁まで開陳されている。→それを嫌って簡略本が出た?
この本の最大の欠点は、神を知らずに、坐禅修行に入ることにある。 空を信奉しているから当然の成り行きだが、神を否定し、善悪の区別を 無視したら悟れない。そのことはいみじくも、冒頭の序「七仏通戒偈」に 示されているのに、なぜかまったく忘れてしまう。
477 :
神も仏も名無しさん :2012/11/07(水) 11:03:57.30 ID:ECTafwVz
智は、仏法への信仰や、仏法成就の重い誓願などを語っている。 しかしこれでは絶対に悟れない。坐禅以前に、神を知ってないと悟れない。 神をどうやって知る? 縁起の理法、十二支縁起(逆観)、四諦八正道。 釈迦が成道前に実践していた方法をやればいい。
478 :
神も仏も名無しさん :2012/11/19(月) 16:50:36.52 ID:eNBU/AeV
保守
479 :
? :2012/11/19(月) 20:09:49.74 ID:ndcyDiKl
480 :
? :2012/11/19(月) 20:36:02.26 ID:ndcyDiKl
481 :
? :2012/11/19(月) 20:42:33.46 ID:ndcyDiKl
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm 四禅を超えて想受滅(滅尽定)
原始仏教では「四禅三明」の教説、あるいは、単に「四禅」の教説が広く説かれている
「四禅」の後に、さらに、無色界の四処定(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)を説明することが多い
想受滅(滅尽定)は、それをも超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に「解脱」するとされる
「想受滅(滅尽定)」を出た直後に解脱するとするが、経典によりその効果の説明が多少異なる
(A)四禅、四処定、想受滅(滅尽定)の後、「彼の智によりて見て、漏は滅尽されたりと知る」
(B)四禅、四処定、想受滅(滅尽定)の後、「彼の智によりて見て、漏は滅尽されたりと知る」が、さらに「是、知見より一層上妙なる法なり。」
(C)生物的な意味の死者と、想受滅(滅尽定)を経験している覚者との相異
死者には、身行、口行、心行が滅し消える、壽と煖がやみ、諸根が敗壊す
しかし、覚者は、身行、口行、心行が滅し消えるが、壽と煖はやまず、諸根は浄静である
(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅(滅尽定)を成就する
(A)は、漏、すなわち、煩悩の滅盡している自己の根源を見る体験をする
漏の滅尽ということから、「滅尽定」とも言う
解脱は、漏の滅尽をもって完成とされた
(B)は、解脱が、教説などを論理的に思惟・理解するものではなくて、一種の直覚体験によるものであることを言う
原始仏教は、知見よりも、それを上であるとしていた。この想受滅による智慧の獲得を「心材」とし、「不動の心解脱」としている
(C)は、想受滅においては、その呼称のごとく「想」と「受」が滅するのであるが、覚者と死者の違いをいう
覚者は死者と違って、いのち、あたたかさがあり、諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している
(D)は、ほとんど念がおこらないような澄み切った禅定の境地もまた、解脱ではないので、そこに執著することを捨てよという
そこにも執著せずに、坐禅工夫をしていると想受滅(滅尽定)に達する
482 :
神も仏も名無しさん :2012/12/01(土) 22:38:04.13 ID:QECbsk6I
保守
このスレを良く言えば、普段耳にしない語句や目にしない文字が並び、さもレベルが高い内容だと感じさせる また、悪く言えば、素人やビギナーには近寄り難く、スレのテーマが一人浮き上がった印象をうける このスレのテーマな内容からすれば、裾野を広け一人でも多くの人達と共に考え、共に学んでいける雰囲気がほしいところ 個人的には、テーマに対しての視点・角度は申し分ないと思います
>>479 瑜伽行唯識の実践については知りません。
わたしの書き込みは、自分の体験や、体験に基づいた自分の考えです。
あなたは瑜伽行唯識を学んでいるようなので、自分で比較してみてください。
>>438-453 は瞑想体験の整理、
>>454-470 は瞑想(坐禅)前の準備、
>>471-477 は以上に基づく『天台小止観』批判です。
>>480 世親のアラヤ識には、汚れた種子と清浄な霊魂が混在している。
そこでアラヤ識を汚れた種子とし、清浄な霊魂を根本識として区別する。
種子であるアラヤ識は【魔境】において捨てられる。
それが捨てられる結果として滅尽定に入る。執着する対象がなくなるから、
マナ識の自我心も徐々に弱くなっていく。
>>481 アラヤ識を捨てることには二つの意味がある。
@ アラヤ識は業の正体だから、これを捨てることで解脱する。
A しかし、アラヤ識の中に根本識が存在している。
そのため、アラヤ識を捨てれば、自動的に根本識も捨ててしまう。
身体から根本識(霊魂)が抜けるから滅尽定に入る。脱魂現象でもある。
身体にはまだマナ識が残っているので死んだわけではない。
>>481 滅尽定のままでは死んでしまう。涅槃定(神界とアートマン=霊魂)を経て、
身体に霊魂が戻って来ないと成道したことにならない。
解脱や成道の値打ちは、実際に体験しないとわからないだろう。
滅尽定へは、非想非非想処の状態を維持し、自然に魔境に入るのを待ち、
魔境を無事に渡れば入ることができる。滅尽定に入れば意識が消えるから、
その定から出ることはもはや自由にならない。死ぬか成道するか。
485の補足 〜 解脱し成道すれば、マナ識の執着する対象が アラヤ識から根本識(霊魂)に変わる。根本識は清浄だから執着して当然、 この執着は転倒妄想が消滅したことを意味するからかまわない。 しかし問題は、アラヤ識に執着していた時期のクセがマナ識に残っていて、 これを清算するのに相当の時間を必要とする。 アラヤ識に執着している時期 → 霊的に見て、魂が死んだ状態にある。 解脱して根本識に執着する → ようやく生きた人間になる。
チャクラの話 サハスラーラとはアラヤ識のこと。解脱すればサハスラーラが開く。 アラヤ識が消滅すれば、神界とマナ識がつながる。これが神通ですね。 ヨガでサハスラーラを開こうと考えるのはやめた方がいい。 あまりにも無謀。準備不足で頭が変になるよ。
神通力とは何か マナ識が霊界とつながることをいう。 解脱も難しいが、神通力も至難の技。霊能者、それもホンモノは この神秘的な能力を備えている。たとえばスエデンボルグ。 しかしその多くは、見せかけだけのウソや詐欺である。 キツネやタヌキに憑かれたようなのも多い。
世親がアラヤ識に、前世の種子(業)すなわち汚れたものと、 究極の識すなわち根本識(霊魂)を混在させた理由 アラヤ識は人間の形で現れるが、アラヤ識に根本識(霊魂)が内在している、 とは思わなかったからである。それは体験を読みそこなっただけであり、 世親の解脱を否定することにはならない。
492 :
神も仏も名無しさん :2012/12/04(火) 13:09:41.38 ID:AIaKpoKN
その人が解脱しているかどうかは、 その人の話に「秘密の暴露」があるかどうかでおおよそ見当がつく。 だから当然、判断者は解脱してなければならない。 自分が自分を判断する場合はそんなに簡単ではない。 何年も、それこそ何十年もかけて似たような体験を探すことになる。 似たような話が見つかれば解脱したのかもしれない。
493 :
神も仏も名無しさん :2012/12/06(木) 19:48:01.96 ID:4rt4BOQe
とても勉強になります。 あなたと似たような体験をされている方に鬼和尚さんがいらっしゃいますが、 彼の体験は霊魂体験なのでしょうか? 彼の体験に対する意見をおきかせいただけるととても参考になります。 onioshyou.blog122.fc2.com/blog-category-11.html
>>493 紹介部分を読んだが、特に「秘密の暴露」があるとは思えない。
仏教的な常識に近いものであり、個人的で具体的な体験が書かれてない。
これだけでは解脱しているかどうか判断できない。
非想非非想処だったのか、想受滅(滅尽定)だったのか、 釈迦の体験自体もはっきりしない。状況証拠から想受滅にするだけである。 過去の有名人であっても、解脱しているかどうかの判断は、それなりの 責任が生じる以上、慎重にならざるをえないし、勇気がいる。 肯定するならともかく、解脱していないと否定するならなおさらである。 その人を切り捨てることになりかねないからである。
496 :
神も仏も名無しさん :2012/12/08(土) 08:34:58.50 ID:9XalkMAo
解脱したかどうかは結局、その人自身の問題なのではないだろうか。 当人以外にとっては、自分の解脱に参考になるかどうかである。 難解だったり、資料が乏しくて内容が曖昧だったりしたら無用である。 もちろん、これから学ぼうとする相手が解脱しているに越したことはない。 しかし参考になるなら、フロイトでもマルクスでもかまわない。
>解脱したかどうかは結局、その人自身の問題なのではないだろうか。 >当人以外にとっては、自分の解脱に参考になるかどうかである。 まったくそのとおりだと思います。 あなたの仰る方法で解脱を目指す場合、まず聖霊体験のためにフロイト、マルクスを勉強し、 ひたすら心が砕けるほどの絶望を待つということになるのでしょうか? それではかなり運任せのようなきがするのですが、心を砕くためのメソッド というのはないのでしょうか?
心を砕く。これが人生の分水嶺ですね。 心が砕けた瞬間に、目を開けたまま幻覚を見る。 そして幻覚と同時に聖霊体験をする。 聖霊体験があれば、後は瞑想(坐禅)によって短期間で成道できる。 ではそれを体験するためにどんな準備ができるのか。
人間は常に楽をしたいと思っている。 だから、幸運に恵まれている間は、幸運を喜び、心が砕けることはない。 心が砕けるとしたら、不運に繰り返し打ちのめされ、心が弱り、 それに抵抗する気力を失いつつある時である。 それでも自分に固執すれば、精神がおかしくなる。 幻覚を見るほどに、自分の根源的な誤りに気づけば、心が砕ける。 心を砕くには不幸や苦労が欠かせない。
精神の健康を保つために、フロイトの精神分析が役に立つ。 仏教であれば、善悪・苦楽は縁起していて「空」である、で解決する。 もともとの「空」は、この程度の役割だったのではないだろうか。 龍樹の『中論』は縁起を拡大解釈し、世の中すべてを「空」にしてしまう。 しかしこれは、理論的にも誤り、本来の目的から見ても誤りである。 〜『中論』については後述したいが、これは敬遠した方が賢い。
501 :
神も仏も名無しさん :2012/12/08(土) 21:49:41.42 ID:X+NFzTEN
精神の健康を保っていては逆に心が砕けないのではないでしょうか? 私は最近死んだほうがまだましという状況になったのですが、仏教の「空」の知識などが あったためになまじ助かってしまったというところがあります。 「空」の知識などによって中途半端に自我を弱めるより自我を極大まで大きくしたほうが絶望しやすくなるような気がしますが
>>501 確かに、自我が膨らんで破裂する、という経過をたどります。
この自我は、個体の危機から生じる防衛、自己愛ではないかと思います。
では「空」の役割は何か。「心の殻」を薄くする所にあると思う。
もはや自分への下手な自己弁護が通用しなくなる。なぜなら「空」だから。
それなのになぜ動揺している? なぜだ、なぜだ、・・・
ああ、そうか。自分は・・・・だった。という気づき方をする。
たとえると「空」は、陰陽の太極図、円で表せると思う。 時間の経過を考慮すれば、この世は中身のない丸い筒のようなものである。 この円、丸い筒は、自分という個体でもある。 しかし、自分が残っていたら、「空」になってないではないか。 心を砕くとは、打ちのめされた状態の中、さらに自分の誤りに気づき、 自分で自分自身に追い打ちをかけることである。 それは、太極図の円を壊し、陰陽を分離させ、個体を消滅させる。
504 :
神も仏も名無しさん :2012/12/09(日) 00:00:50.28 ID:xYBWgTAJ
個体の消滅と同時に、神の雫が斜め上方からほんの一滴流れ込んでくる。 これが聖書にある聖霊体験であり、陰陽(善悪)の分離である。 わたしの場合はかなり特殊であり、 幼いころから、そのために生まれたような人生を歩んでいる。 いつも発狂すれすれであり、その可能性を自覚しながら生きていた。 フロイトの精神分析や、弁証法から善悪の「空」を学び、たまに息抜きし、 精神の健康にはくれぐれも注意してほしい。
505 :
神も仏も名無しさん :2012/12/09(日) 01:32:11.68 ID:Vq/VWckT
個体の消滅 → 古い自分が死に、新しい自分が誕生する。 このあたりは、ヨハネ福音書第3章(イエスとニコデモ)に似ている。 心が砕けるのは生涯に一度だけ。何度も体験できない。 空を知ることなく、世間の常識にどっぷり漬かっている人々は、 やり直しが難しい年齢で不幸に襲われたら、心が砕けるのではなく、 そのままポッキリ折れてしまいそう。これはこれで怖い。
507 :
? :2012/12/09(日) 23:08:36.63 ID:1WnRSySE
> 『中論』については後述したいが、これは敬遠した方が賢い 例えば『中論』を勉強して、そして 「瞑想をおこなう必要がないっ!」と勘違いするのであれば 中論の勉強をしない方が良いと思います 「百害あって一利なし、有害無益」と言う事になります _ _ _ ただし ↓ ここには『八正道の修習によって』と記述されているようです //www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm 中論觀法品第十八 八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
508 :
? :2012/12/09(日) 23:15:43.67 ID:1WnRSySE
//home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama17.pdf 捨てること(断)によっては、それは捨てられない 放棄は瞑想(修道)によって見いだされる(中論17-15) _ _ _ カルマを捨てようと努力しても、そのことによってはカルマを無効にすることはできない カルマの放棄というものは瞑想によってのみ見出せるものなのである _ _ _ //home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf 無知(無明)が止まると 行為(諸行)は生じなくなるだろう 無知の停止は 瞑想と智慧を通して生じるのである(中論26-11)
509 :
? :2012/12/09(日) 23:25:56.49 ID:1WnRSySE
//ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 入滅 身体について…感覚について…心について…諸法について… (それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた これが「自灯明・法灯明」の教えである
510 :
? :2012/12/10(月) 00:16:19.06 ID:sRMncAno
般若経の解説 //www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 世尊の時代、人々は(バラモンなどの)輪廻を信じていた だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として 輪廻からの解脱を説かれた これまであなたたちは、(バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない 無我を、縁起を、空を見ることがうまくない あなたたちは、練習が必要だ 禅定に入ろうとする人は… …この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
511 :
? :2012/12/10(月) 00:24:03.36 ID:sRMncAno
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳> //homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1119 つねによく気をつけ 自我に固執する見解をうち破って − 世界が空なりと観ぜよ − そうすれば死を乗り越えることができるであろう このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない
>>507-511 テーマがダブると錯綜するので、『中論』の話は少し待ってください。
いま、「心を砕く」メソッドはないのか、というテーマで話をしている。
悟りの核心を突いた問いであり、わたしもどう答えたらいいのか、
とまどいながら、迷いながら書いている。個人的経過なので答えにくい。
しかし、答えられる範囲で、もう少しだけ書いてみたい。
いままでの話を要約すれば、心を砕くには不幸と苦労が欠かせない、 不幸と苦労が心を砕く土壌である、ということである。 神は不幸と苦労の先に隠れている。マタイ福音書第5章1〜12節 (山上の説教)を読めばわかる。不幸や苦労をした人たちか、 これからそういう運命をたどるような人たちをイエスが祝福している。 仏教にある「一切皆苦」も同じような意味で理解すべきだろう。
自分から不幸や苦労を求める人間はいない。 だれもが幸福になりたい、楽をしたいと願いながら生きている。 だから不幸や苦労は、「心を砕く」メソッドにならない。 不幸や苦労はいつも、願わざるもの、予期せざるものとしてやって来る。 (山上の説教)の逆をやれば、不幸や苦労から遠ざかる。 豊かさを追いかけ、快楽を求め、他人に厳しく、平気で不義理を働き、 無慈悲であり、道理に反したことをやり、好戦的であり、義人を迫害する。 〜 しかしかれらは、神に呪われ、神に遠ざけられる。
515 :
? :2012/12/10(月) 16:15:50.29 ID:sRMncAno
>>503 > 心を砕くとは … 個体を消滅させる
心を砕くとは
『我(自我)を滅する!』
と言う意味合いで良いんですか?
>>515 たぶん、それでいいのではないかと思う。
心が砕けたら聖霊体験が起こる。煩悩が消滅し、神との出会いがあるから、
瞬間的に人格が一変する。強烈な癒しがあり、大地のオーラが見える。
しかし、幻覚時でさえ、自分という意識は持続している。
聖霊体験は澄み切った歓喜であり、霊魂体験は冴え切った清浄さだろうか。
わたしは、25で空を知り、30で聖霊体験、霊魂体験をしている。 聖霊体験をするまで、宗教書の類は読んだことがない。 信仰者に対し、まぶしいような、うらやましいような気持ちがあったが、 見たことがないのに信じられるか、みたいな考えの持ち主だった。 否定はしないが、さわらぬ神にたたりなしで、近づくことをしなかった。 それが一瞬にしてガチガチの信仰者に変身する。奇跡ですね。
518 :
? :2012/12/10(月) 22:27:34.18 ID:sRMncAno
私の場合は、小学四年生の頃に 落武者の霊を、ハッキリ、クッキリ、目撃して、それ以来 「肉体から離れた魂(幽霊)は存在する」と言う事を前提として オカルト → 密教 → (瑜伽行)唯識 → 根本仏典 → 中論 → 般若経など を勉強している所です _ _ _ 瑜伽師地論(ゆがしじろん)の中有について //reigaku.jugem.jp/?eid=424
体験的に言えば、空を知り、それを土台に聖霊体験、霊魂体験をする。 だから、空こそが「心を砕く」メソッドだと言っていいだろう。 空(縁起)を知る前に何をやっていたか → 空(縁起)の「訓練」 @ 唯物弁証法を学んでいた。〜 その極意は「ひとつのコインの裏表」 A 複式簿記を学んでいた。〜ひとつの取引を二つの勘定科目で記録する。 B 囲碁が趣味だった。〜 見合いの戦法を心がけていた。 (交互に打つから、一手に二つの有力な選択肢があれば、どちらか打てる)
>>518 落ち武者の霊ですか。それは誰だったのでしょうね(^^)
わたしも幼いころ夢を見、部屋に切られた武将の首が落ちていた。
あまりに恐ろしかったので、親に話したことがある。
でもたいした返事はもらえなかった(^^)
521 :
神も仏も名無しさん :2012/12/10(月) 23:15:06.07 ID:rtc/tqeC
この板でも。空を学んでいる人は多い。 しかし、空を実際に「訓練」している人は少ないのではないかと思う。 何でも実際に「訓練」しないと役に立たない。 本だけで空を学んでいるのは、 畳の上で水泳の「訓練」をしているようなものじゃないかな。 途中で溺れ、彼岸には渡れない。
空の「訓練」をもう少し具体的にしておこう。 たとえば経済であれば、生産と消費が裏表の関係にある。 しかし経済を知らなくても、(作り手)と言われたら(買い手)が浮かび、 (買い手)と言われたら(作り手)が浮かぶ、ようにする。 当意即妙に答えることではない。そうではなく、同じテーマを考え続け、 こんこんと考え、目を開けたまま瞑想状態(観照)に入ってしまう。 そうすると自然に物事の裏側が見えてくる。これを日頃から「訓練」する。 ひとつのコインの裏表、これを思考パターンとして刻み込む。
世間的な価値観(善悪・苦楽)は縁起していて空である。 この見方ができれば、世間的な不幸や苦労からずいぶん解放される。 しかし、善悪・苦楽などは縁起していて空、で終わってしまう。 これとは視点を逆にし、「ひとつコインの裏表」という見方ができれば、 いろいろな気づきが可能になる。洞察力がついてくる。 これが「心を砕く」メソッドの中心になったのではないかと思う。
若いならともかく、いまさら弁証法、複式簿記などやってられないよ。、 と言う人がほとんどだろうと思う。 五年もあれば働きながら可能なのに、その五年を惜しむから、 いまのままを続け、結局五年後も同じ精神レベルで少しも進歩しない。 もちろん、弁証法などを学んでも効果があるかどうかは保証できない。 こういったことは、結局のところ、その人の運命なのかな。
525 :
? :2012/12/11(火) 10:31:49.38 ID:QwHXlUnN
この世に生まれ、そして滅しても 渇愛(タンハー)によって 又、次の、この世の生に戻り来て、そして又、滅して この輪廻を繰り返す _ _ _ 渇愛(タンハー)を滅して 縁起したものを離れることが出来れば 次の、この世の生に戻り来る事もなく、そして又、滅もない _ _ _ これは教学としての空であり 実践としての空の観察は 実際には、おこなった事がないから、わからないけども … ?
526 :
? :2012/12/11(火) 10:50:47.37 ID:QwHXlUnN
般若経の解説 //www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html これまであなたたちは (永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンなどの)輪廻を信じてきた (バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない 無我を、縁起を、空を見ることがうまくない あなたたちは、(無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の)練習が必要だ _ _ _ 「渇愛(タンハー)を滅する為の訓練以外の『何か』に拘るなっ!」 と言う事なのかもしれない
527 :
? :2012/12/11(火) 11:22:55.05 ID:QwHXlUnN
チベット仏教ゲルク派 //rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです
528 :
? :2012/12/11(火) 12:26:19.45 ID:QwHXlUnN
>>527 の続き
自立論証派と帰謬派の本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です
自立論証派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を
世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します
自相とは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで執着している心の働きです
529 :
神も仏も名無しさん :2012/12/12(水) 13:33:01.78 ID:4nEDdBJB
>524 心を砕くメソッドとして伝統的には、禅における考案があると思います。 意味のない考案を考え続ける状況を強いることで、論理的思考が崩壊し 心が砕けるという過程をたどるようですが、この手法の有効性については どう考えられますか? 今のように不条理な世の中では、寺にこもって座禅に没頭するより、 現実世界の荒波の方が心を砕くのに適しているということでしょうか。
>>529 今のような不条理な世界で
心を砕くぐらいなら
悟りなど要らない。
仏を求めず、法を求めず、僧を求めず、
かくして仏法を求める。
迷悟二境に捕らわれず、
声聞、縁覚、外道の二乗地に堕せずして、
心をば法界に遊ばしむる。
ありのまま、あるがままの……
大心の凡夫。これである
この大心の凡夫こそ、菩薩となる可能性を秘めている。
仏はこれらの人々をこそ教化する。
冬の枯木に仏の姿を見、
春の桜木に仏を見抜いていく……
これ、仏法の端的なり。
必要なのは己が菩薩性に気づく事
>>529 公案禅はやったことがないのでよくわかりません。
ただ、ひとつテーマを四六時中追いかけると、生活しながら瞑想状態に
入って行く経験もします。その意味では公案禅もあると思います。
問題は何をどう考えるかでしょう。父母未生以前・・・、隻手の音声・・・
犬に仏性は・・・などは、少しベクトルが違うような気がします。
心を砕く、心を砕かれるとは、心の底から悔いることです。
空を知りたければ、弁証法を学んだ方が簡単で早いかもしれない。 善と悪は相関関係にあり、善があるから悪があり、善がなければ悪もない。 (善悪 → 空)というベクトルになっている。 心を砕く、心を砕かれるということにおいては、 俗世間で苦労した方がいいと思う。空はもともと、その苦労を解消する ために開発されている。俗世間を避けるなら空などいらない。 早い話、無人島で暮らせば、世間的な価値観は全部消えてしまう。
533 :
神も仏も名無しさん :2012/12/12(水) 23:42:52.24 ID:UrXQ+TNI
心が砕けると何が起こるのか。心が善と悪とに割れる。 (善悪→空)のベクトルではなく、(心→善と悪)のベクトルである。 このベクトルは「ひとつコインの裏表」であり、弁証法や複式簿記により 心の分割を「訓練」していたことになる。この「訓練」で自分の誤りに 気づくばかりでなく、その後の準備もしていたことになる。 聖書には「心を砕く」とか「心の割礼」という言葉が何度も出てくる。 この本は読者に聖霊体験をさせるように工夫されている。 弁証法や複式簿記を学ぶのではなく、聖書を学ぶのもあるかなと思う。
とりあえず「空性」でググれ。
535 :
? :2012/12/13(木) 13:47:23.63 ID:A+mFW2XF
チベット仏教ゲルク派 宗学研究室 //rdor-sems.jp/index.php?%E4%BD%95%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E7%A9%BA%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B 【道諦】 理想の境地を実現するための手段が、修行の道として設定されます 今までの流れから分かるように、道の主たる内容は、諸煩悩を種子から断じることです そのためには、諸煩悩の大もとにある無明を種子から断じなければなりません 無明とは何かといえば、私たち輪廻の衆生に生まれつき具わっている実体視の習性です それを種子から断じるためには、空を直観的に体得している智慧が必要になります
536 :
sage :2012/12/13(木) 14:05:45.65 ID:IWmuz8qj
個人的にはただスートラの内容をここに書くことにはあまり意味がないと思います。 このスレのいいところは、あくまで個人の経験に基づいた自分自身の言葉で 語っているという点だと思うのです。
537 :
? :2012/12/13(木) 15:19:13.98 ID:A+mFW2XF
私の場合は初心者向けの瞑想を これから始めようとしている段階なので 根本仏典からもチベット系からも どのような方法があるのか経典を観察している段階なので 『落武者の霊を目撃した!』と言う体験以外は特にありません 教学として勉強している段階と言う事です
538 :
? :2012/12/13(木) 15:31:40.56 ID:A+mFW2XF
新アジア仏教史 09 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ チャンダーリーの火とは 臍(へそ)のチャクラに宿る熱である この熱の力で「風(ルン)」を中央脈管の中に導き入れ それが脈管に入り、留まり、溶け込む事に習熟した時 菩提心である精液が溶け出し それが中央脈管の中を上下に移動しながら 四つのチャクラを通過する時に 四段階の歓喜が生じ、最終的には 源初から存在する(倶生)大楽を元に 楽空無別の智恵を獲得する _ _ _ 例えば ↑ これなども教学(智識)として勉強している段階です
★ 難解な『中論』をどう理解するか まず『中論』で多用されている「四句分別」を知らなければならない。 これは言葉より、ベン図でイメージした方がわかりやすい。 善、悪、善かつ悪、善でもなく悪でもない、という善悪についての 四つの論議領域がベン図によって図示できる。 三時門破、一異門破、五求門破(中村訳『中論』122、136頁)なども この図から理解できるだろう。
善と悪とは縁起している。この善悪を四句分別で見れば、 善悪は相互依存だから、「善」そのもの、「悪」そのものは存在しない。 「善かつ悪」は矛盾であり、ありえない設定であり、存在しない。 「善でもなく悪でもない」は善悪の領域外であり、無であり、存在しない。 『中論』24章18詩から、縁起ば「空」である。 この「空」は、四句分別の「善でもなく悪でもない」ではないのか。 かりにそうなら、「空」は善悪の領域外であり、「無」ということになる。 それとも「空」の論議領域がどこか別にあるのだろうか。 四句分別はそれ自身のなかに、善悪の領域外を設定しているのに。
541 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 00:00:04.22 ID:Amb18FzY
龍樹は「有」と「無」とを縁起させている。 そして「非有非無の中道」を説く。〜 前著258頁、(2)中道の意義 空(=非有非無=中道=縁起) 〜 前著266頁 中村先生は、四句分別の「善でもなく悪でもない」領域が空である、 と解釈していたように思う。ならば「空」とは「無」である。
このことは善悪と有無の四句分別を並べるとはっきりする。 善 → 有 悪 → 無 善かつ悪 → 有かつ無(矛盾、ありえない) 善でもなく悪でもない → 有でもなく無でもない(空=非有非無=中道) 非有非無は「空」だから、「善でもなく悪でもない」領域が「空」である。 したがって「空」は、四句分別を超えたものではなく、 四句分別で示すことができるわけだ。
問題は、有無を相関関係と見なし、有無に縁起を見たことにある。 しかし、いかなる有も、何もない無と、相関関係を持つことはできない。 相手のいない関係は関係ではなく、縁起に該当しない。 結局、有無の四句分別は、有のみを無意味に論じているに過ぎない。 これが龍樹の誤りである。<非有非無の思想>は5章8詩、9章12詩、 15章全体などあちこちにみられる。前著262頁 つまり龍樹は、そう思い込んで『中論』を書き上げたわけである。 その誤りによって、空や中道や涅槃などをかき混ぜる。 ヤーイ龍樹菩薩が間違ってる(^^)
空論者は、空を「有でもなく無でもない」と主張する。 そのうえ、本来はそれが無なのに、有無の縁起で無はすでに使われている からか、空は「夢、幻、蜃気楼の如し」などと主張する。 有無の縁起が、自分たちが虚無論者だと非難されない用心になっている。 しかし裸の王様であることはバレバレ。 空論者の本質は虚無主義である。かれらはアートマン(霊魂)を否定し、如来、 輪廻、ニルヴァーナなどを世間そのものだと考えている。 かれらにとっては、どれもこれも空を理解させるための方便に過ぎない。 悲しいかな、これが日本仏教(大乗)の現実である(TT)
545 :
? :2012/12/15(土) 11:24:23.10 ID:pfPNuKM3
//www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm 中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二 空は則ち説けない空でなくても説けない 但だ仮名を以って説くのみだ 諸法の実相は性空であるが故に如来の滅後をこう思惟してはならない 有るか? 無いか? 有であり、無であるのか? と 如来は本より畢竟じて空なのだ 如来は戯論を過ぎるが 而し人は戯論を生ずる
546 :
? :2012/12/15(土) 11:30:47.65 ID:pfPNuKM3
//www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm 中論觀四諦品第二十四 世俗諦とは一切の法は性空だが而し 世間は顛倒の故に虚妄の法を生じ 世間には是れが実である 衆因縁より生ずる法を、わたしは即ち是れは空だ、と説いた 何故ならば衆縁が具足、和合して而も物が生ずる 是の物は衆因縁に属するが故に自性が無い 自性が無いが故に空である、但だ 衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた
547 :
? :2012/12/15(土) 11:38:19.58 ID:pfPNuKM3
//ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91 我は、常住であり 他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え それは働きのうえで自由自在の力をもつとした この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである 釈迦はこのような実我観念を批判し 「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた これを色受想行識の五蘊について説き 人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた ( ↑ 五蘊仮和合)
548 :
? :2012/12/15(土) 11:57:31.52 ID:pfPNuKM3
//www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm 中論觀法品第十八 諸の禅定の中で何故に滅尽定を以って第一と為し又、終に無余涅槃に帰するのか? 是の故に、こう知るはずだ 『一切の心行は皆、是れは虚妄であり虚妄の故に滅するはずだ 諸法の実相は諸の心数法を出て無生、無滅であり涅槃のように寂滅の相だ!』と
549 :
? :2012/12/15(土) 12:07:00.24 ID:pfPNuKM3
滅尽定(想受滅)によって 渇愛(タンハー)を滅して 縁起したものを離れることが出来れば 次の、この世の生に戻り来る事もなく、そして滅する事もない これが『無生、無滅』の意味だと思います
ハッキリ言って、龍樹菩薩は悟ってない。 アートマンは存在しない、この世間が輪廻であり、涅槃であり、如来に 他ならない、などと言っている人が、悟っているわけがない。 菩薩どころが、凡夫のひとりに過ぎない。 龍樹の話は、運動と時間を否定することでやっと成立している。 『中論』〜 2章(運動の考察) 19章(時の考察)
運動と時間の否定 〜 ここで複式簿記と比較してみよう。 企業活動は複式簿記によって記録される。複式簿記は、ひとつの経済取引を ふたつの勘定科目によって二重に把握する。→ <縁起、弁証法と相似> この記録をある時点で集計したものが、貸借対照法(B/S)である。 たとえば毎年一回、3月31日に、企業の資産・負債及び資本を調べ上げ、 企業実体を明らかにしようとする。→ <かりに運動と時間を止める> つまり、縁起・空・中道は、B/Sを語っているのに等しい。
552 :
神も仏も名無しさん :2012/12/16(日) 09:13:11.29 ID:MvHd+YWD
B/Sは、ある時点の、企業実体を明らかにしている。 その内容をみれば、資産(借方)と、負債及び資本(貸方)はバランスし、 差し引きすれば常にゼロである。→ <縁起・空・中道である> B/Sを眺め、複式簿記の不思議に驚いても、その技術を尊いとか、 有り難いとか思って拝む人はいない。学べば誰にでもできる。 → <大乗仏教は「空」=「虚無」を「信仰の対象」にしてしまう> そのうえB/Sは、ある時点の企業実体に過ぎず、企業活動の全体ではない。 → <縁起・空・中道などは、人間活動の全体を示していない>
553 :
? :2012/12/16(日) 11:44:18.26 ID:T9tHkI5u
世俗も第一義(勝義)も自性ではない 『この自性ではない』、と言う事については、分別はない 世俗も第一義(勝義)も、分別はない それ故に 滅尽定(想受滅)によって 渇愛(タンハー)を滅して 縁起したものを離れることが出来れば 次の、この世の生に戻り来る事もなく、そして滅する事もない と言う意味だと思いますよ
554 :
? :2012/12/16(日) 12:16:48.40 ID:T9tHkI5u
般若経の解説 //www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html あなたたちは、無我を恐れ自分がいつまでも存在しつづけると思いたいのだ そのために(バラモンなどが)前世と来世(と言う概念)を創り出した 輪廻もまた、あなたたちの創った幻だ。あなたたちの我執の産物だ あなたたちは、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない 無我を、縁起を、空を見ることがうまくない。あなたたちは、練習が必要だ 禅定に入ろうとする人は… …この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
複式簿記から作成される損益計算書(P/L)は、 (売上ー費用=利益)によって、企業活動の期間損益を明らかにする。 企業は利益を追求している。経営者にとっては、ある時点の企業実体より、 ある期間にいくら利益をあげたかの方がより重要かもしれない。 P/Lは期間損益であり、ここでは運動や時間を否定するのではなく、 逆にそれらを前提にして企業活動を把握しようとする。 損益の二項対立を軸にしたP/Lは、西欧的な考え方に近いかもしれない。 逆にB/Sは、自然に依存したアジア的営みを思わせる。
556 :
神も仏も名無しさん :2012/12/16(日) 17:36:49.70 ID:PIVP3Pzl
B/S、P/Lの勘定科目 → たとえば仏教における「法」だとすれば、 「小乗」の説一切有部はこれらの勘定科目には実体があると考える。 B/S、P/Lの両方を視野に入れている点は評価できるが、 まだまだ未整理であり、勘定科目を統合する原理が決定的に欠けている。 無為法、有為法に区別するなら、無為法は資本勘定だろうか。 これに対して「大乗」は、運動と時間を否定するからP/Lがない。 B/Sの中に「空」を見たのは「大乗」の功績だが、 P/Lを切り捨てたので、「小乗」以上に企業活動が見えなくなった。 この部分では、「大乗」は「小乗」に劣る。
企業は自分の利益しか考えていない。P/Lを見ればすぐにわかる。 P/Lは企業活動の動機を説明するばかりでなく、人間は最初の最初から 自分の利益しか考えていない動物なんだと教えてくれる。 自分の利益をひたすら追求する、それが「原罪」ではないのか。 P/Lは聖書やキリスト教に関係していると思う。
B/Sでも、期首と期末を比較すれば、期間損益の計算ができる。 その意味では、B/SとP/Lは期間損益でつながり、裏表の関係にある。 たぶんキリスト教と大乗仏教は、裏表の関係にあるのではないだろうか。 たとえば聖霊体験と霊魂体験。体験の外見はかなり違うが、 その内的な意味はきわめてよく似ている。それゆえに聖霊体験ができれば、 霊魂体験が短期間で達成できるのかもしれない。
大乗の「空」で注意すべきは、現実を直接語っているのではなく、 仏教上の法を問題にしている。複式簿記のB/Sを語っているようなもの、 ということだろうか。諸法無我とはそういうことである。 これを頭に入れて置かないと混乱する。 実際には、資本家や経営者がアートマンの如く企業を支配している。 浮き沈みもあり、場合によっては倒産することもある。 〜 諸行無常 幸い倒産すれば涅槃寂静(^^)
560 :
神も仏も名無しさん :2012/12/18(火) 22:16:10.60 ID:v2JZ4C9i
運動の否定は成立するか 〜 第2章(運動の考察) 運動を瞬間で切断すれば、すでに去ったものと、未だ去られないものの どちらかになり、いま現に去りつつあるものは存在しない。 しかしこの論法には無理がある。どんな瞬間でも運動は継続している。 かりに切断できたとしたら、原子が潰れて、世界はブラックホールになる。 原子はスカスカの空間であり、電子が停止すれば原子核に落ちる。 どちらにしても運動の否定は成立しない。龍樹菩薩の負け(^^) 時間の否定は成立するか 〜 第19章(時の考察) 運動が時間であり、時間の否定も同様に成立しない。龍樹菩薩の負け(^^)
561 :
神も仏も名無しさん :2012/12/20(木) 18:50:42.14 ID:4Jal8css
ゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」は、 龍樹菩薩の「去る者は去らず」という詭弁に似ているかもしれない。 同じゼノンでも「アキレスと亀」の方がより難問だね。 オリンピックの100m、ゴール直前のコマ送り画像と似ている。 このパラドックスは、ゴール直前を無限に細分化することで成立している。 等間隔でコマ取りしないから、アキレスは亀を永遠に追い抜けない。
『中論』第2章 運動(去ることと来ること)の考察 ここで龍樹は次のように運動を否定する。 @ すでに去ったものは去らない 〜 過去を去ることはできない A 未だ去らないものも去らない 〜 未来を去ることもできない B 現在去りつつあるものも去らない → これが問題である! 龍樹の論証 ・・・ 去る主体には最初から去るはたらきがある。 その去る主体が去るのであれば、去るはたらきが二つになり、去る主体が 二つなければ理屈が合わない。ゆえに去る主体が去ることはない。
龍樹への反論 ・・・ 運動しているものを瞬間的に切り取れば、 過去か未来かのどちらかになるから、運動しつつあるものは存在しない、 ように思えるかもしれない。しかしどの瞬間も運動が停止しているならば、 時間が経過しても運動の停止が続くことだろう。運動の話だったのに、 これでは理屈に合わない。ゆえに龍樹の論証は間違っている。 原子レベルで運動が停止すれば、宇宙はブラックホール(虚無?)と化す。
564 :
神も仏も名無しさん :2012/12/22(土) 12:28:31.03 ID:txAUCpRA
同章21詩では、「一体であるとしても別体によっても成立することのない この(<去るはたらき>と<去る主体>との)二つはどうして成立するだろう か。」と述べ、主体と作用が縁起していることを主張している。 「去る」という限定から、<去る主体>と<去るはたらき>とは、 個別的な対応関係にあり、両者が縁起しているように見えるかもしれない。 しかし、<去るはたらき>は主体の潜在的能力のひとつであり、 それが主体の意志で現実化するに過ぎず、主体と作用は縁起していない。 この縁起(?)は繰り返されているので、その折にまた触れたい。 以上、八不のうち不去不来と不一不異
結局空とか中論は方便なのだから、論理の厳密性を追求しても意味が無いのでは? それより、具体的にどのように心が砕けたか、詳しい話が聞きたいです。 子供のときからどういう性格で、具体的にどのようなことが起こり、どのように苦しんでいったのか。
第三章 認識能力の考察 ここでは<見る主体>と<見るはたらき>を主要テーマにしている。 龍樹はここで、主体と作用は縁起しており、<見るはたらき>だけでなく、 <聞くはたらき><嗅ぐはたらき>なども同様であると主張する。 これに対する反論は、第二章と同じなので省略する。
注目すべきは2詩、「実に見るはたらきは、自らの自己を見ない。 自己を見ないものが、どうして他のものを見るであろうか。」 龍樹はこれを、見る主体が存在せず、見るはたらきが成立せず、 見る対象が成立しない根拠にしたいようである。 しかしそうではないだろう。<見るはたらき>などの認識能力は、 自他を区別して認識するために用意されたものである。 区別なしに自他を認識したら、個体の維持を危うくしてしまう。 個体の維持 〜 これが自己を対象としない理由である。
第9章 過去の存在の考察 3詩「見るはたらき・聞くはたらきなどよりも、また感受作用よりも、 先に定住しているものは、では何によって知られるのであろうか。」 感覚器官の対象にもならず、また感覚器官が存在しないのであれば、 いったいどうやってアートマンを知ることができるのか。 さすが龍樹、アートマン肯定派はそう聞かれて答えに窮するだろう。 感覚器官が機能しないなら、アートマンを確認できない!
手がかりがないわけではない。〜 全身麻酔のケース 麻酔中は感覚器官がはたらかず、その間の時間(記憶)が飛ぶ。 死んだわけでもないのに、自分の中のいったい何が持続したのだろう? 自分はどこに消えたのだろう? じれったいがわからない。 〜 瞑想における滅尽定のケース この場合も時間(記憶)が飛ぶ。呼吸をしていた記憶もない。 しかし、涅槃定を経て地上に戻れたら、自分の霊魂(アートマン)を見る。
作用はどれでもよく単独でも複数でも成立するが、 これに対応する主体(わたし)は常に単独である。相手変われど主変わらず。 つまり主体と作用は1対1の関係でなくても成立する。 1対1の関係でなければ縁起ではない。 縁起の定義、此縁性から言えば縁起ではない。作用があれば主体がある。 しかし、作用がなければ主体がない、とは言い切れない。 主体が存在する可能性を排除しきれないのだ。 ベン図で言えば、(主体かつ作用)の領域に属し、主体の範囲内に 複数の作用が潜在している、可能性がある。
570の訂正 → ○ 縁起の定義、此縁性から言っても縁起ではない。 もうひとつのチェックポイント〜5詩「ある物によってある者が表示され、 ある者によってある物が表示される。ある物がないのに、どうしてある者が あろうか。ある者がいないのに、どうしてある物があるだろうか。」
さすが龍樹、これも難問だね。この詩の「ある物がないのに、どうして ある者があろうか。」をクリアしなければならない。 たとえば、感覚の対象がまったくなければ、主体(アートマン)があっても、 感覚がはたらかない。主体も主体が存在することに気づかない。 でもでも主体は厳然と存在する! クリアしたね(^^)
第7章 つくられたもの(有為)の考察 ここでは生・住・滅を論じ、ものごとが変化しないことを主張する。 運動や時間を否定するわけだから、当然と言えば当然。 しかし現実遊離もはなはだしい。『中論』は本当に空理空論ですね。
574 :
神も仏も名無しさん :2012/12/24(月) 20:39:40.66 ID:vAen8qD/
心を砕かなくても軽くした先に目が覚める事もあるだろうよ 自分(自我)がどうしてもと思ってるような願いやアイデンティティを あってもなくてもいいやと放り投げればものすごい開かれた場所に居た事に気付く
第18章 アートマンの考察 1詩「もしも我(アートマン)が(五つの)構成要素(五蘊)であるならば、我は 生と滅とを有するであろう。」 → 生まれたり滅びたりするものは、 我(アートマン)ではない。ゆえに我など存在しない。 1詩「もしも我が蘊と異なるならば、我は蘊の相を持たぬであろう。」 → かりにそうであるなら、われわれとは無関係である。 つまり龍樹は、人間には我(アートマン〜主体)が存在しないことを前提し、 その前提の下に2詩から11詩を書いている。 しかし前提が崩れたら、龍樹の言っていることは成り立たない。
五蘊は色受想行識のことであり、人間を肉体と精神の五つの集まりに分けて 示したものである。色は肉体(後に物質)のことであり、受は感受作用、 想は表象作用、行は意志作用、識は認識作用のことである。 龍樹は、主体(我)と作用は縁起し、主体は存在しないと考えている。 しかしこれが誤りであることはすでに指摘した。 18章の前提自体が成立していないのだ。だから次の詩も誤りである。 2詩「我が無いときに、どうして<わがもの>があるだろうか。 我と<わがもの>とが静まるが故に、<わがもの>という観念を離れ、 自我意識を離れることになる。」
我(アートマン)と五蘊(肉体と精神)の関係は、 我によって、人間という五蘊が成立し、自分という五蘊が支配されている。 我がないなら、人間は単なる物質に他ならない。 主体 = 我 = アートマン = 霊魂 =「わたし」= 自己意識
★ いかに解脱するか 〜 龍樹菩薩のケース 自分という本質的なものは存在しない。自分の思いは妄想のようなもの。 自分、自分のものという思いから離れることで解脱が可能になる。 北風吹きぬく〜♪ 寒い朝も〜♪ 心ひとつで暖かくなる〜♪ ・・・ んなわけねえだろ(*^_^*)
579 :
神も仏も名無しさん :2012/12/26(水) 18:55:02.92 ID:ezWo+6g/
だいたいだねえキミ 自分がなければ、自分の思いも生じないではないか(ー_ー)!! 龍樹は、天台・真言・浄土・浄土真宗・臨済・草堂・日蓮など 八宗の祖として尊敬されている。しかし龍樹にだまされていたとなれば、 日本仏教は全滅だね。日本の癌じゃないか。 大乗は「邪教だなあ」とつくづく思う。
★ 不断不常 八不のうち、不来不去・不一不異をやり、不生不滅をやり過ごし、 残るは不断不常だけになった。これは他のものと少しニュアンスが違う。 大乗も部派仏教も不断不常を基本教義にしているからである。 部派仏教のうち、説一切有部は法(概念など)には実体があると説いた。 龍樹や経部はこれを常住に偏するものとして批判する。 龍樹は逆に、法は空、法には実体がないことを主張する。 しかしどうなのだろう? 龍樹の説も不断不常ではなく、今度は断滅に 偏しているように思える。人間は空であり実体がないから、 死ねば煙と灰になるばかり。これでは死んで終わりの断滅である。
なぜ大乗でも部派でも「不断不常」を重視したのか。 これは解脱に関係していると思われる。人間が断滅だけの存在であれば、 涅槃を体験して解脱することは不可能だろう。逆に常住でも、 そのままで変わりようがないから解脱できない。あるいは解脱不要である。 だから、人間存在は「不断不常」でなければならない。 仏教上の法など考えない方がいい。結局、人間のことがわかればいいのだ。 よく読めば、龍樹も『中論』で「人間とは何か」を追求している。 しかし龍樹の場合は、人間存在を空にし、実体がないものにしたから、 まるっきり見当はずれの空理空論を展開してしまっただけ。
582 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 22:10:11.21 ID:YsYX26Cb
第27章 誤った見解の考察 17詩「もしも一部分は神的であり、一部分は人間的であるならば、 無常でもあり、常住でもあることになるであろう。しかしそういうことは 理に合わない。」 命かつ物質である人間は、命と物質の矛盾を生きている。 命は神、物質は宇宙であり、人間(生き物)は神と宇宙によって誕生する。 もともとは虚無、そこから神と宇宙が登場したのである。 龍樹は虚無の方向に人間を見ている。しかし何度も何度も確かめながら 論理的だが抽象的で難解な独特の主張を展開している。 ちょうど正反対だが、神の存在まで考慮したからにはよしとしようか。
★ 日本仏教の成立 ・・・ 中論をベース 平安時代、天台宗と真言宗によって日本の仏教が成立した。 天台宗は、諸法実相〜この現象世界が真実であると説く。 真言宗は、この世界はマンダラ〜如来の体であると説く。 中論は、現象も本質も空である、と言っている。 日本仏教は、本質は空だが、現象は真実だと主張している。 日本仏教は中論そのものではないが、中論の精神を継承している。
鎌倉仏教 〜 戦乱と末法思想 禅宗系 ・・・ 末法思想に距離を置く。布教対象は武士。 武士たちは戦場での心構えを禅宗系に求めた。 浄土系 ・・・ なぜ浄土三部経なのか。 布教対象として農業、漁業、狩猟関係者を視野に入れる。 法華経にはこれらの人々への差別が書かれていた。 日蓮系 ・・・ なぜ法華経なのか。 すでに浄土系、禅宗系が先行していた。 布教対象は、必然的に商工業関係者が中心になる。
江戸仏教 〜 葬式仏教の成立 檀家制度により、権力の末端組織に組み込まれる。 寺院経営が安定するとともに、住職の世襲化により僧侶の質が低下。 庶民の側にすれば、仏教が差別の最前線にあった。 その実像を目にし、偉そうにしている僧侶への不信感がつのる。
明治から戦前の仏教 〜 廃仏毀釈と新興勢力 廃仏毀釈によって仏教と神道が切り離され、 さらに僧侶の肉食妻帯が一般化し、 これらによって仏教への信頼がうすれ、葬式仏教が完成する。 既成仏教が衰退する中、霊友会や立正佼成会や創価学会などの 日蓮系宗教団体が登場する。 かれらは病気癒しを中心とする現世利益で信者を増やしていく。 ウソを方便として認める法華経は布教に便利だった。
戦後の仏教 〜 宗教法人優遇税制、宗教を騙る詐欺集団 既成仏教は、葬式収入と宗教法人優遇税制で生き延びている。 オウム事件は、その教義もいかがわしいことを世間にさらした。 もはや仏教は過去の遺物である。 他方、日蓮系の宗教団体は、現世利益を中心に勢力を拡大した。 篤い信仰心ではなく、信者同士の助け合いや、 政治力を利用した便益の提供が人々の目をひきつけている。 いまや廃墟、金儲けをたくらむ悪徳宗教ばかりである。
589 :
神も仏も名無しさん :2013/03/10(日) 00:05:58.80 ID:lTQwBW2t
捕手
590 :
神も仏も名無しさん :2013/03/25(月) 07:26:02.93 ID:Uyq20K1K
梵天勧請で悟りが完成する
591 :
神も仏も名無しさん :2013/03/25(月) 18:59:48.70 ID:uZm5uPC6
大事なことは、その沢山の引用した事は、貴方が 自分の精神を浪費した事実だけ。 貴方に都合のいい答えなり、覚りなど 存在しません。誰かが反論し、精神を 浪費するだけです。それで良いなら、人生にヒマな 人と呼びましょう。
592 :
神も仏も名無しさん :2013/03/27(水) 17:50:50.52 ID:RTWcK0tg
>>591 抽象的で何を言いたいのかさっぱり理解できません。
具体的に誤りを指摘してください。
だいたいこのスレをきちんと読んでないでしょう?
まずきちんと読んでください。
仏教は無や空を論じるが、無や空は決して体験できない。 無や空は何もないことだから、何も体験できない。 何年考えても何も見つからない。 リンゴを知らない人はいくら言葉で説明されてもわからない。 実際に見て食べないとわからない。ところが、無や空は見ることも 食べることもできない。だからいくら論じてもわからない。 ではどうしたらいい? 無や空を信じるなら、無や空を生きればいい。そうすればじきにわかる。 人生が本当に無や空なのか、そうでないのか。
中村訳『悪魔との対話』第Y梵天に関する集成 梵天勧請に答え、釈迦は梵天に次のように答えている。 耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。 おのが信仰を捨てよ。 梵天よ。人々を害するであろうかと思って、 わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。
「信仰を捨てよ」とは、リンゴは赤い、リンゴは丸いなどの話を いっさい鵜呑みにするなということだろう。 実際に自分が体験したことだけを「たより」にしなさい、と言っている。 これは『ブッダ最後の旅』第二章26にある「自灯明法灯明」の自灯明。 自灯明だけが語られていることに注目しよう。 この世で自らを島とし、自らをたよりとして、 他人をたよりとせず、 法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ
無や空を生きると言っても、漫然と生きればいいのではない。 釈迦は周囲への慈悲心を説いている。→ 菩薩道だね。 世の中は利己主義であり、慈悲心を持っていたら潰されるのは必定。 どんどん追いつめられて精神的にも経済的にも破綻寸前になる。 破綻寸前でも死を覚悟、慈悲心を貫き、自分から破綻する選択がある。 これってアガペーなんだけど、これによって甘露(不死)の門が開く。 心の底が試されており、心の底からの慈悲心でないと開かない。 精神的、経済的に余裕があるうちは開かない。
悟り体験は破綻の先にあるから、 若いうちに苦労して体験しておかないと困難になるだろう。 若ければ倒れても再び立ち上がれる。 また、悟りを進化論的に考えている人もいるようだが、 いくら学んでも言葉は方向を示すだけであり、 知識の蓄積によって悟り体験に到達することはない。
>>593 空も無も頭の上にあるけどなw
空と宇宙という意味合いでだが
それを目じゃなく感覚で繋がればいいんじゃないかと
保守
悟り体験したことあるけど凄い自己流だったから 釈迦の本みたいに高尚な方法とは違ったね 小悟っていうのかな そこまでなら色んな道がありそうだが 釈迦の教えってのは大悟だから かなりの高みから釈迦は真理を説いてるってことになるね
601 :
神も仏も名無しさん :2013/06/22(土) 17:16:37.46 ID:VZ70hneb
>>600 興味ありますね。どんな悟り体験でしたか。
602 :
神も仏も名無しさん :2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:xIq/sGPz
保守
603 :
神も仏も名無しさん :2013/09/20(金) 17:20:37.53 ID:X17bPdNj
道半ばの悟りというのはある。 上座部仏教でいう四向四果と言う奴だ。 宗教板では預流果や一来果の人間が物申したり、 自らスレを立てる事がある。 人が多いし、手軽だし、最後は洒落で済むから、 ネットでびぅには丁度良いのだろう。 初歩の悟りでは、自我は消えない。 消えるのは、ある種の迷妄だけだ。 こういう中途半端な悟りも存在する訳だが、 何事も最初の一歩があっての事。 迷妄が消えれば、それに付随して起きる怒りも消える。 心が穏やかになるというより、怒る理由がなくなるという感じ。 本来、心は、明鏡止水の如し。 大悟が自我の死をいうなら、 初歩の悟りは「有る」という大妄の死だ。 迷いの根本が死んでゆく事で、 少しづつ真理に近づいていき、 最後に迷いの根本である自我が死ぬ。 気付いてみれば、悟りなど無く、 迷妄以外は何もなかったという事になる。 悟り終わって悟りなし。これにて一件落着。
605 :
? :2013/10/11(金) 03:22:55.59 ID:NL+3efIG
四向四果 (しこうしか) 預流向(よるこう) 預流果(よるか) − 須陀洹(しゅだおん) 一来向(いちらいこう) 一来果(いちらいか) − 斯陀含(しだごん) 不還向(ふげんこう) 不還果(ふげんか) − 阿那含(あなごん) 応供向(おうぐこう) 応供果(おうぐか) − 阿羅漢(あらかん) 屮(_ ._)屮
606 :
? :2013/10/11(金) 03:35:06.28 ID:NL+3efIG
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為に
(それ自体の自性と言う妄執の念に、とらわれて)
善行に励み、永遠ばかりを探して、凝り固まり
ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を
観察することがうまくない人達の為に練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え
何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
一切の有情には仏性があるといわれる
なぜなら、縁起によって空から生まれた無我なる現象
それこそが仏なのだ。解脱すれば仏だという
しかし 『 解脱すれば仏だ 』 という事に
気づくまでは、気づくことは難しい
607 :
? :2013/10/11(金) 03:47:38.27 ID:NL+3efIG
>>606 の続き
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 一切の有情には仏性があるといわれる
なぜなら、縁起によって空から生まれた無我なる現象であるから
解脱すれば仏だという
解脱してみたら仏だった
解脱してあなたたちは思う
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし 『 解脱すれば仏だ 』 という事に、気づくまでは、気づくことは難しい
悩み怒り悲しむことのできるもの、迷うものだけが、気づくことができる
悩み怒り悲しむ心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを理解することができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、慈悲の心を持つことができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを解脱に導くことができる
唯心論以外に悟りとか無いと思うわ 瑜伽行唯識学派とか中観派は間違ってるね説一切有部をダルマと見なした 上座仏教並みに可笑しい
609 :
? :2013/10/11(金) 18:30:11.86 ID:NL+3efIG
唯心論(ゆいしんろん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%BF%83%E8%AB%96 人間・社会において、心
もしくはその働きこそは至上の要因であるとする存在論における立場の一つ
仏教の唯識論と似ているが最終的な点で異なる
心やその働きはあくまでも物質に還元されない独特な性質を持っているとして
物質的存在がその存在を容認されるのは意識によるものである
したがって意識が存在を決定づける。これが唯心論である
仏教にも華厳経に唯心(三界唯一心)が説かれたことから、唯識論が生れている
しかし仏教ではその識(心の作用)も仮のもので夢幻の存在であるとして否定する
ここにおいて唯心論と唯識論は最終的に異なる
関連項目
認識論(観念論・実在論)
唯識
610 :
? :2013/10/11(金) 18:45:56.32 ID:NL+3efIG
中観派(ちゅうがんは)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE インド大乗仏教哲学において
瑜伽行派(唯識派)と並ぶ2大潮流であり
龍樹(りゅうじゅ)『中論』の著作によって創始された
般若経の影響を受けたものであり、その根幹は、「縁起」「無自性(空)」である
(ちなみに、こうした関係主義的発想は、当人達も強調しているように
(「これがあるとき、かれがある」といった発想として)
釈迦の時代の初期仏教から説かれているものであり、これらが特段
彼らの独創というわけではないという点は、誤解の無いように注意してもらいたい)
ナーガールジュナの『中論』に始まる中観派が専ら主張している「縁起」は
初期仏教の「十二支縁起」(十二因縁)や
「全ての事物(有為)は因(原因)と縁(条件)によって生起する」
といった時間的生起関係(無常)を表す一般的な意味での縁起(因果関係)等とは
いくらかニュアンス・切り口が異なり
「長があるとき、短がある」といった表現に象徴されるような
事象・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」を指しているという点である
目で見たものを心が評価し、それを現実として受け入れる。 我々が見ている世界は心の現れに過ぎない。 人間はあるがままの世界を観る事は出来ない。 それが出来るのは悟った奴だけだ。 悟った奴は心の働きを無視して、世界をあるがままに観る。 それは悟った奴にとって、決して難しい事ではない。 自我の手垢がついていない無垢な世界を、 無垢なままに見ているだけだ。 人間にとっては「世界=心」であり、それが全てである。 だが、悟った奴に言わせれば「世界=意識」であり、 それは言語で表現する事の出来ないものであり、 実体と呼べるものも無いという事になる。
612 :
? :2013/10/12(土) 10:56:55.28 ID:ivEU+cre
人間は万物に自性があると見なしている。 それ自体が大変な誤りであり、迷いなのだが、 全員が全員、同じ間違いをしているので、 その間違いに気づく事は無い。 自性が有るという間違った視点から、 いくら推論を重ねた所で、決して真実に到達する事は無い。 龍樹菩薩は、これを戯論と断じているのだ。 悟った奴は自性など無い事を知っている。 だから無自性なる言葉を作り出し、 一人でも多くの者が真実に気づく様に計らう。 だが、空性と言う真理がある訳ではない。 ここを間違えると仏教は戯論に成り下がる。 人に自性があると見なす邪見があるから、 そんなものは無いという言葉が真理になってしまうだけである。 此あれば彼あり、此なくば彼なし、此生ずれば彼生じ、此が滅すれば彼滅す。 仏法もまた因縁によって生じるものであり、その実体は空である。
あるがままに観る=無自性と観る。 迷い無くば、悟りも無し。 悟り終わって悟りなし。 悟り無き悟り=涅槃寂静
615 :
? :2013/10/13(日) 03:01:54.83 ID:59BRvWxV
リンク先、読みました。 >「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。 ここまでは良いんだけど、例えとして出した火の話は、ちょっと違くないかな、これ。 仏教を理で追求していくと、物理学の話みたいになる事がありますよね? つまり、目の前にある物体は分子原子の集まりに過ぎず実際には存在していないとか、そんな感じの話になっていく事がある訳です。 確かにそうなんだけど、その意見に反論するのは難しいんだけど、仏教は抜苦与楽が目的であって、知の極限に挑戦するとかの話じゃないんですよ。 大体、そんなややこしい話を、お釈迦様がする訳ないし、する意味もないでしょ。 このサイトの主は、話を態々大きくして、仏教を知の怪物にしてしまっています。 私には、方向性そのものが違うとしか言い様がないです。 理屈としては筋が通っているだけに、こういうのは厄介なんだよな・・・。
617 :
? :2013/10/13(日) 10:55:30.85 ID:59BRvWxV
618 :
? :2013/10/13(日) 11:18:43.59 ID:59BRvWxV
>>617 の続き
それ自体の自性ではなく
因だけではなく
縁だけでもなく
因と縁の依存によって現れたり
因と縁の依存によって滅したりしている
仮設としての
輪廻を、土台とし前提として
その輪廻から解脱する為に
中阿含経などに説かれた、仏教で
悟りに至るための三十七菩提分法によって
輪廻から解脱する
と衆生を引導する為に、仮名の空を以って説いた
と言う意味だと思います
>無明と渇愛を消していきましょう >というのがお釈迦さまの教えなのです でもそれは楽になる為でしょ?
620 :
? :2013/10/13(日) 12:05:49.28 ID:59BRvWxV
621 :
? :2013/10/13(日) 12:22:14.51 ID:59BRvWxV
>>620 の続き
実践した事がないので、断定する事は出来ないけど
教学としては
「 煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である 」
と言う意味であるらしい
涅槃 (ねはん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83 漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅などと訳した
南伝のパーリ語教典を訳した
中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において
「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃)声を荒らげないだけで
ニルヴァーナに達しえるのであるから
ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて
心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう」
としている
釈迦が入滅(死去)してからは、涅槃の語にさまざまな意味づけがおこなわれた
有余涅槃・無余涅槃とわけるもの
622 :
? :2013/10/13(日) 12:45:29.38 ID:59BRvWxV
ゴメン、何が言いたいのかサッパリわからん。
624 :
? :2013/10/14(月) 02:18:25.21 ID:uUg0imlc
何処まで行った? 俺は自分が球体に過ぎないというところまで行った 現代の人間は非常に現実を捉える事がたやすくなったと思う 例えば中世の人にオンラインゲームを見せてもこのオンラインゲームの世界を 上手く説明することは不可能であろう オンラインゲームのプレイアは私であるが現実の私ではない オンラインゲームは自由はあるがプログラムの縛りはあるし決まった物語も あるだろう これは言わば今の現実世界である 私は存在するが真の意味で私ではない今存在している私は空に過ぎない 現実社会は科学的に言えば決定論しかあり得ない 過去も未来も変わりはない決定事項なのだプログラムされた世界である 輪廻からの解脱があるとすればゲーム世界から現実世界へ戻る様な事であろう シャンカラの不二一元論こそがこの世の真理である
626 :
? :2013/10/18(金) 12:30:36.67 ID:nJAknhm7
> オンラインゲームのプレイアは私であるが現実の私ではない
チベット ゲルク派 幻の如き
http://rdor-sems.jp/index.php?%E6%95%99%E7%90%86%E3%81%AE%E8%80%83%E5%AF%9F 幻の如き空性
縁起の第三層の意味
世俗の自相さえ否定し
相互縁起の連鎖と世間極成のみを存在の根拠とする
単なる言説有…
これらの意味を学び、分別で多少理解できれば
慈悲や世俗菩提心の行境がいかなるものか
その本当の在り方に光が射し込む
虚空の如き空性から
有辺の壁と無辺の崖の挟間に
幻の如く甦る器世間と有情世間
これをおいて他に
慈しみ愍むべきものを
一体どこに求めようというのか?
帰謬派の空性理解の片鱗に触れたとき
執着から離れた純粋な慈悲の何たるか
その輪郭が初めて見えてきた
この教えを知らずに抱いていた慈しみや愍れみの心は
確かに善きものであったかもしれないけれど
今となっては何と色褪せて見えることか
627 :
? :2013/10/18(金) 12:52:19.46 ID:nJAknhm7
唯識の間違いは >究極的にはその実在性も否定されるからである(境識倶泯) にあると思う 詰まり数字の零の解釈が違う、或いは0次元についての解釈が違う 点についての解釈が違うのだ 我々が三次元とすれば生まれる前には0次元に居り、一次元で思考(心… 神経…粒子…)し、夢で二次元を見て、現実で三次元を体験する 感覚は次元が高まる事によってより現実に成り今と時間を受け止める そして恐らくリサ・ランドール博士等が言う余剰次元があり 物質で無く成り(同時に時空を失う)特異点となった我は次なる次元への 扉を開く、ゲーム世界から目覚めるようにその実感は今の次元の比では無 かろう ただこの我は言わば魂、言わば磁場、言わば粒子を動かす力であるから 輪廻(この次元に留まる)があるとも思われる この世界に思念を残すのは次なる次元への足かせになる よってこの世に生まれている間に一切の思念を滅する必要がある その方法は今を生き抜く以外にはない「今死んでも後悔なし」 という状況を造られば成らない
>現実に成り今と時間を受け止める× >「現実と言う時空を受け止める」○ で良いな我が現実と思っているのは時空に過ぎない 思考が一次元ってのは解るよな神経の伝達等だけではなく「決して重ならない線」だ 我の本体と言えるモノは一次元に居るので決して交わらない 夢の世界に時空はないが個は居る、個とは一次元の我だ沢山の他我が居る 夢の世界の他我と現実世界(三次元)の世界の他我は同じだろう? 他我って言うのは他人も草も木も動物も悪魔も全ての自分の線以外全てのモノだ
まあ死んだ時また0次元に戻るか更なる高次元に行けるか これが生前の一番重要な課題だと私は思う
631 :
? :2013/10/25(金) 07:23:53.75 ID:4AeusWF/
★ 青虫はサナギへと変態する オレはここにいるよ。オレにはオレの善悪、好き嫌いがあるよ。 でもそれは周囲の人間もまったく同じ。10人いれば10の善悪がある。 だからオレは、周囲と距離を置き、周囲と親和しない。 親からの巣立ちの季節、思春期になれば、 異性への興味や恐れ、社会への興味や恐れも次第に襲いかかってくる。 しかしどうやったらいいのか、だれも何も教えてくれない。 オレは巣立ちの不安で殻に閉じこもる。サナギになる。
★ サナギのなかはドロドロ状態になる 10人いれば10の善悪があり、100人いれば100の善悪がある。 オレは周囲に翻弄され、何が本当の善悪なのかがわからなくなる。 何が善で何が悪なんだ? 何だ? 何だ? 何なんだ? こうして善悪の区別が曖昧になり、混沌がオレを占領する。 善悪が曖昧になれば、その言動もスジが通らなくなり、怪しくなる。 自分でも、何かおかしいという自覚が生じる。 これが統合失調、そううつ病のきざし。
★ サナギは蝶になれるか 青虫のままでいたり、サナギから青虫に戻ることも可能だよ。 処世術や社交術を身につけたり、医者や学者などになれば認められる。 お金も女性も名声も向こうからやってくる。 しかし、そうでない人々には悲しい運命が待ち受ける。 原因不明の病気だと診断され、薬漬けにされ、やがて廃人にされる。 当たり前の精神的成長が社会的に切り捨てられる。
★ カラを破って、蝶になれ 自分で自分を壊さないと蝶になれない。 どの宗教も、多かれ少なかれ、そのために何をしたらいいのかを教えている。 しかし残念なことに、どれもこれもあまり役に立たない。 オレは体験的に、フロイトと唯物弁証法をすすめる。 神と霊魂を知れば、どんな悩みもどんな苦しみも【即座に】消え失せる。 バカな外野が、ユングとか聖書とか経典とか言っても無視しよう。 最後の最後は、自分の意志でカラを破るしかない。自力だ!
フロイトは、どんな精神疾患の要因も性的なものに結び付ける点で偏りすぎです
637 :
? :2013/10/27(日) 22:12:52.96 ID:0G9Xx+l3
> 最後の最後は、自分の意志でカラを破るしかない。自力だ! 自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明) 身体について…感覚について…心について…諸法について… (それらを)観察し、熱心に、明確に理解し よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として 四念処(四念住)の修行を実践するように 「 自灯明・法灯明 」 の教えを説いた
638 :
? :2013/10/27(日) 22:47:34.85 ID:0G9Xx+l3
639 :
? :2013/10/27(日) 23:06:39.69 ID:0G9Xx+l3
>>632 から
>>635 までの流れは凄く良かったのに、
何で弁証法が出てくるかな。
理論の積み重ねでは、真理に到達でけんのよ。
それとも知っててワザと言ってるのかな?
ま、それ以外の所には同意するけど。
自力でとことんやらない奴の身には、
悟りなんか起きやしない。
でも、人は自力で悟る訳じゃない。
悟りは得るものではなく、
全てを捨てて帰る「我が家」であり、
到達点ではなく、立脚点だ。
本来に立ち返る。
それが、悟り。
641 :
? :2013/10/28(月) 10:49:44.97 ID:H4H1Aqlt
> 何で弁証法が出てくるかな > 理論の積み重ねでは、真理に到達でけんのよ 理論の積み重ねではなくて 弁証法的行動療法は 西洋的、東洋的な瞑想の様式と合致した 理知的な心と感情的な心に注意深くアプローチしバランスをとり 賢い心に到達する「手段」である と言う事であるらしい
642 :
? :2013/10/28(月) 12:39:10.92 ID:H4H1Aqlt
第3世代の認知行動療法である
マインドフルネスとACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)
http://monjuon.no-blog.jp/ 8.ACTによる感情の浄化法
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)は
第3世代の認知行動療法に属する新しい心理療法です
その起源は仏教など東洋の自然思想にあって …
>>636 同感ですね。ユングはこれが不満だったらしいが、フロイトはどんな夢にも
それなりの意味があることを主張したのではないだろうか。
その後、夢の多くが、前日に思ったことに由来していることに気づいた。
ネットを見たら、フロイトの患者は上流階級が多く、周囲の厳しい視線から
性的抑圧が通常以上だったのではないかという指摘もあった。
フロイト著作集を七巻まで読んだが、夢以外に超自我にも首をひねったね。 かなりの分量なので、退屈だったり疑問に感じたら読み飛ばしたよ。 後になってから理解できることも多かった。ひと通り読んだだけだけど、 いま思うと、大きな収穫があったとフロイトに感謝している。 フロイト著作集は絶版になっている。ネットで売られているが高額なので 図書館を利用するのがいい。再度読むこともないのでこれで十分。 フロイトは医者であり、唯物的、科学的に追及しているから信用できる。 牧師の家庭で育ったユングには妄想的なところがある。
>>640 心の中に入って行くことで、神や霊魂に出会います。
だからフロイトになることは当然ですね。これに対して唯物弁証法は、
簡単に言えば、仏教で言う「縁起の理法」に相当します。
夢もそうだが無意識の世界は、都合が悪い、嫌な記憶を隠し、
自分が自分の邪魔をしてその門を閉ざしている。しかし善悪は相対的であり、
相互依存の関係にあるわけだから、本当は善悪に拘ることはない。
唯物弁証法でそれを知り、その考え方に習熟するわけです。
それは無意識に潜航する武器、あるいは無意識を武装解除する道具です。
646 :
640 :2013/10/28(月) 23:02:45.89 ID:/R3yn4Dp
「唯物弁証法」でググってみたけど、難しいですね〜、これ。 ってか、宗教板でマルクスが出てくるとは思わなんだ。 私にはよく解からんけど、最終的に到達するのが、 善悪は相対的であり、 相互依存の関係にあるという考え方なら、 異論はありません。思考の方向性としては正しいんじゃないでしょうか。 ま、これを機に、もちっと勉強してみます。
647 :
? :2013/10/29(火) 14:06:06.93 ID:Be6PGwpn
648 :
? :2013/10/29(火) 14:52:02.59 ID:Be6PGwpn
悪いけど、2chの直リンには、手を出さない様にしてます。
何せ、ここは基本的にアングラサイトですからね。
弁証法と言ったらヘーゲルしか思いつかない私にとって、
弁証法的行動療法というのは未知の分野です。
ただ、この認知療法では、悟りと関係してくる様な、
人生の根本疑問を解決するのは無理じゃないかな。
人生とは何か、死とは何か、
人はどう生き、どう死ぬべきなのか。
真に善き事とは何か、真の邪悪とは何か。
愛とは、正義とは、幸福とは何なのか。
本当に正しい事や、真実とは如何なるものなのか。
こういう本質的な問いに対して、
徹底して哲学的なアプローチをする事で、
人が悟るというのはあるんですよ。
そういう意味では、
>>632 〜
>>635 の話は素晴らしかった、
という事です。
650 :
? :2013/10/30(水) 02:43:44.72 ID:J5bTNJfh
>>649 ID:2xpDatHE さんへ
> 2chの直リンには、手を出さない様にしてます
> ここは基本的にアングラサイトです
私(ID:Be6PGwpn)の場合は
一般的には、どのような説明になっているのかを調べる為に
「ウィキペディア」とか「Amazonのカスタマーレビュー」とかを、参照する場合もあります
これでやっと
アングラを基本としている
>>649 ID:2xpDatHE さんと
とりあえず一般的な説明として「ウィキペディア」とか参照している、私(ID:Be6PGwpn)と
話しが噛み合っていない理由がわかりました
私(ID:Be6PGwpn)の場合は
とりあえず一般的な説明として「ウィキペディア」とか参照しているけど
頭ごなしに、一般的な説明とかを、他の人に強要・強制するつもりはありません
今まで私が勝手に 「 他の人も、一般的な説明とかが良いであろう 」 と勘違いしていたようです
今まで興味のないかもしれない書き込みとかをして失礼致しました
これからも書き込みさせて頂きますので宜しくお願い致します スマソ 屮(_ ._)屮
651 :
? :2013/10/30(水) 03:21:45.77 ID:J5bTNJfh
>>650 の続き
私(ID:J5bTNJfh)の場合は
例えば、仮に
人は、色受想行識の五蘊の仮和合した仮りの状態なので
因と縁の依存によって
心相続(心の流れ)によって
輪廻を繰り返す
この輪廻から解脱する為に
三十七菩提分法と言う方法がある
と世俗の人の為に、仮名の空を以って説明した
と捉えているけど
他の人に強要・強制するつもりはありません
これからは
自分勝手な思い込みによる
断定口調のような書き込みを
しないように気を付けます
普礼真言−オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ 屮(_ ._)屮
何でそういう話になるの? 強制・強要とか、断定だの思い込みだの、 そんなんどうでもいい事なんだけど。 ズバリ言っちゃうとね、 引用ばかりして自分の言葉で語らない所がイヤなのさ。 それは他人の褌で相撲取ってる様なものですよ。 こんな事は言いたくなかったけど、 言わなきゃ伝わらないみたいだから仕方ない。 悟りとか仏法ってのは、知識じゃないの。 だから引用なんかしても無駄なの。 そんなもん基本的に読む価値無いの。 その場その場で、自分の言葉で語らないと意味が無いの。 釈迦や祖師や先人の陰にコソコソ隠れてちゃダメなの。 主観は大事ですよ。自分の意見が無けりゃ、何だってボヤけちまう。 無難な言い方しか出来なくなっちまう。 でも、そんな配慮?や謙虚さ?に、どれほどの価値があるの? 言いたい事は言えばいいし、観念の押し付けをしようにも、 自分の考えと合わなきゃ誰も受け止めないってだけの話でしょ。
言いたい事は言えばいいし、観念の押し付けをしようにも、 自分の考えと合わなきゃ誰も受け止めないってだけの話でしょ。 気を付けなきゃいけないのは、主観に固執し過ぎたり、 自らの主観を真実と錯覚してしまう事。 物事は様々な側面の組み合わせで成り立っていて、 そこに唯一無二の見解や、自性と呼べるものは無いって事。 これが「空」であるという事なんですよ。 別に間違った意見を主張してもいいんです。 その様に見る事も出来る、その様な考え方もあるって事だけで、 それなりに価値はあるし、間違いを認めたら認めたで、 正せば良いだけなんだから。
654 :
? :2013/10/30(水) 13:20:54.27 ID:J5bTNJfh
> 気を付けなきゃいけないのは、主観に固執し過ぎたり
> 自らの主観を真実と錯覚してしまう事
> 物事は様々な側面の組み合わせで成り立っていて
> それは自性と呼べるものでは無いって事
↑ 同意致します
これでやっと
>>653 ID:re0WWI0l さんの主張が
少しは、わかった部分もあるかも サンクス 屮(_ ._)屮
655 :
? :2013/10/30(水) 13:47:48.93 ID:J5bTNJfh
↓「私の主張に近い」と言う感じがするもの(興味があるもの)です [ DVD ] NHK スペシャル チベット死者の書 <収録内容> 『第1回 ドキュメンタリー 仏典に秘めた輪廻転生(りんねてんしょう)』(74分)1993年9月23日放送 NHKスペシャル 『第2回 ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日』(59分)1993年9月24日放送 NHKスペシャル <映像特典> 《Disc2》 ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて) 「チベット仏教の叡智を語る。―瞑想・死・輪廻転生・日本人へのメッセージ―」 (↑DVDなので立ち読みとかは出来ません)
スレの最初の方から読み返してみたんだが、
このスレのレスの殆どは、
>>632 〜
>>635 を書いた人のものなのね。
ってか、ここって鬼スレからの派生スレだったのかよ(汗)
657 :
? :2013/10/31(木) 11:54:03.61 ID:WUexoJhM
私は今でも 「 2ちゃんねる 」 の事が、わからないけど 「 鬼スレ 」 って何んですか? 「 鬼スレ 」 以外の検索キーワードも教えてもらえば 自分で検索して見ますので ヨロ 屮(_ ._)屮
658 :
? :2013/10/31(木) 12:37:05.01 ID:WUexoJhM
>>9 承狂 ◆TptLNQXPVWuJ ID:ShPrlZQ0 さんへ
>「悟り」という特別な境地がホントにあると思ってる奴は仏教素人
− これに対して −
私(ID:WUexoJhM)の場合は、自立論証派・有相唯識派の段階なので
諸仏は、二諦に依り、衆生に、説法される
一は、世俗諦、二は、第一義諦で
若し、人が、二諦を、分別することを知らなければ
則ち、深い、仏法の、真実の義を知らない
世俗諦とは、一切の法は、性空だが、而し
世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ
世間には、是れが、実である
諸の、賢聖は、真に、顛倒の性を知るが故に
一切の法は、皆、空で、無生だ!と知り
聖人には、是れが、第一義諦で、実と名づける
八正道を修習して、我、我所を滅する因縁に依存して、無我、無我所を得て、智慧を決定する
_ _ _
>>652 ID:re0WWI0l の場合は、引用は読む価値が無い
− これに対して −
私にとっては、(仏典とか)中論からの引用は外す事の出来ないものです 屮(_ ._)屮
659 :
? :2013/10/31(木) 13:03:17.02 ID:WUexoJhM
>>658 の続き
世俗諦の場合は
顛倒の故に、虚妄の法を生じ現れている
第一義諦の場合は
「 仮設として現れている 」 として
想受滅させて
賢聖は、真に、顛倒の性を知るが故に
一切の法は、皆、空で、無生だ!と知る
_ _ _
これを説明する為には
仏典とか中論からの引用を外す事は出来ない
↑ これが私の意見であり主張です 屮(_ ._)屮
鬼和尚というコテハンが居るスレの事を、鬼スレゆうのよ。
宗教板の「悟りを開いた人のスレ」の他にも、
生活板、人生相談板にも関連スレがある。
でも、個人的には、奴は偽者だと思ってる。
仏典からの引用ばかりで、自分の言葉で話さないし、
直接議論を挑んでも話をはぐらかしたりするので、
断定するのは難しいんだけどさ。
このスレの
>>493 >>494 にも、奴についての話があるね。
引用したけりゃ、すりゃあええー。 個人的には好かんが、止めはせんわい。
662 :
? :2013/10/31(木) 13:25:13.97 ID:WUexoJhM
>>658 と
>>659 の続き
>>9 承狂 ◆TptLNQXPVWuJ ID:ShPrlZQ0 さんへ
>「悟り」という特別な境地がホントにあると思ってる奴は仏教素人
− これに対して −
私(ID:WUexoJhM)の場合は、自立論証派・有相唯識派の段階なので
とりあえず、仮設としての
世俗諦と第一義諦は違うものとして現れている
と衆生を引導する為に、仮名の空を以って説明します
↑ こんな感じだと思います
>>658 のところの 652 ID:re0WWI0l さん ← 「 さん 」 が抜けました 失礼 屮(_ ._)屮
663 :
? :2013/10/31(木) 13:35:05.14 ID:WUexoJhM
> 鬼和尚 > 宗教板の「悟りを開いた人のスレ」 ↓見つけました 【仏教】悟りを開いた人のスレ【鬼和尚】 (まだ内容は読んでません)
読まんでええw
665 :
? :2013/10/31(木) 13:50:10.27 ID:WUexoJhM
例えば、仮に、偽者だったとしても、面白い人(人気者)なのかも
【仏教】悟りを開いた人のスレ【鬼和尚】
http://um.denpark.net/1186233853.html 20 名前:神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 08:40:17 ID:8CZZyEjO
瞑想してハイヤーセルフと話がしたいのですが、ここはスレチでしょうか?
(ハイヤーセルフ − 高次の自分・高次の魂)
26 名前:鬼和尚:2007/08/06(月) 20:44:09 ID:RGUOUFoC
仏教にもそのような技はある
密教経典や観無量寿経などに載っておる、仏や菩薩をイメージする方法じゃ
しかし、それらは強い集中力によって、一時的に高次の脳機能を使っておるに過ぎない
まあ集中力を養う役には立つじゃろう
観無量寿経などを研究してみるがよい
(まだ↑ここだけしか読んでませんが…)
本人が「おもろいおっさん」キャラを演じてると明言してるんだよ。 そうやって人の目を引いて、自分が練り直した「止観瞑想」を実践させようってハラなんだ。 でも、その止観瞑想には欠陥があって、特に観察の部分がかなりおかしい。 自我は無いと観察すれば自我は消えるとか訳分かんねえ事を言ってる。 スレ内で弟子に瞑想指導している所も見た事がある。 弟子が瞑想中に恐怖を感じると訴えたら、 奴は「それこそがニルヴァーナじゃ」とか言ってた。
667 :
? :2013/10/31(木) 14:11:26.16 ID:WUexoJhM
668 :
? :2013/10/31(木) 14:24:30.03 ID:WUexoJhM
そう、一応、話の筋は通ってるの。だから厄介なんだよ。 論破しようとすると色んなものを敵に回す羽目になる。 場合によっちゃ仏教そのものを否定する事にもなりかねん。 本当の所なんて、誰にも分かりゃしない。 だからカルト宗教や宗教詐欺とかが成り立つんだよ。
670 :
? :2013/10/31(木) 14:42:31.77 ID:WUexoJhM
>>668 の続き
私は実践した事がないので
本当の、ところは、どうなのか? わからないけど
とりあえず、教学としては ↓ こんな感じであるらしい
_ _ _
八正道を修習して、我・我所を滅させる為の因縁に依存して → 無我・無我所を得て、智慧を決定する
想受を滅させる為の、滅尽定を以って、第一と為し → 終に、無余涅槃に帰する
671 :
? :2013/10/31(木) 14:57:25.25 ID:WUexoJhM
> だからカルト宗教や宗教詐欺とかが成り立つんだよ 私は 寺の子供でもなく どこかの宗教団体に所属している、と言う事ではないけど 「教学として、密教に興味がある」 「教学として、止(サマタ)観(ヴィパッサナー)に興味がある」 と自分の意見を主張をすると − これに対して − 「そのような主張をするのは、オウム信者にきまっている」 と頭ごなしに叩かれる と言う事です
672 :
? :2013/10/31(木) 15:07:57.34 ID:WUexoJhM
>>671 の続き
私は実践した事がないけど
教学として
密教も含めて
八正道
想受を滅させる為の滅尽定
止(サマタ)観(ヴィパッサナー)
輪廻から解脱する為の方法がある
↑ 肯定です
673 :
神も仏も名無しさん :2013/10/31(木) 22:24:29.50 ID:Y/u4NyN4
悟りたいか? なんで?
何でかって? 楽になりたいからに決まってるっしょ。 でもさ、矛盾してるよね。 悟るには、死ぬより苦しい思いをせにゃならんのだから。
>>671 密教やヨーガは、オウムの所為で、随分とイメージダウンしたってのはある。
だからって頭ごなしに叩くのはどうかしてるが・・・。
私の実家は浄土真宗の寺なんだけど、
やっぱ昔から金の事でなんやかんや言われてきた。
読経すればウン万円、法名つければウン十万円。
坊主丸儲けとか散々陰口叩かれてきた。
で、陰口叩き過ぎて後を継ぐ人が居なくなったら、
遠戚の私のトコに来て、跡を継いでくれとか言ってきた。
他所者の坊主を受け入れるよりマシだとさ。断ったけどね。
悟りへの憧れや、知識欲から、悟りたいと願う人は居る。 熱心に信仰したり、教えを学んだり、修行等に励む人も居る。 でも、真摯に自分自身と向き合おうとする人ってのは、あまり居ない。 真実は外には無いよと言っても、誰もこういう言葉には耳を傾けない。 多分、やり甲斐が欲しいのだろうと思う。 確実に前に進んでいるという実感や保証が欲しいのだろうと思う。 だから「こうやれば誰でも確実に悟れますよ!」という様な、 安っぽい売り文句に簡単に騙される。 カルト宗教の教義というのは、一見すると辻褄が合ってる様に思える。 でも、それを実行に移すと、不幸や軋轢しか生まない。 所詮は真実に見せかけた理屈の貼り合わせ、張子の虎だ。 常に「本当にこれでいいのか」と疑問視する堅実さと、 自分で自分を追い込む生真面目さという才能が、悟るには必要だ。 時には釈迦や経典すら疑ってかからなければならない。 仏に会えば仏を殺し、祖師に会っては祖師を殺す。 真実は、外には無いんだ。
人間は幸せになる為に生きている。 普通の人にとっての幸せとは、欲望を満たす事だ。 誰もが欲求を満たし、不安を取り去り、人生を謳歌する事を望んでいる。 でも、このありきたりな幸せを得られる人は、あまり多くない。 人の心を捨てて弱者を踏みにじる側に回ると、欲望を満たしやすくなる。 そういう選択をした連中というのは、結構居る。 連中は自分達の選択を正しいと思いたがっているけど、それは堕落だ。 力任せ、運任せの人生に、未来なんかある訳がない。 欲望を満たすという形の幸福を実現する人は、ほんのひと握り。 望む形で満足を得られないと、別の形で欲求を満たそうとする。 でもそれは代償行動に過ぎないから、決して満足は得られない。 こういう人は常に飢え、渇き、不満を口にする様になる。
こういう事実に気づいて初めて、人は真の幸福とは何かと考える様になる。 逆を言うと、欲望の道が閉ざされ、苦しい思いをする様にならないと、 人は真実を求めたりはしないという事でもあるんだけどね。
真の幸福を追い求めていた人が、もの皆空なりと悟ると、楽になる。 何故なら、幸福というのは感覚に過ぎず、実体は無いと解るから。 それが解かれば、どの様に生きても幸福になれるし、 ささやかな幸福感に満足を覚える様になる。 野に咲く一輪の花や、一杯の茶が、掛け替えのないものになる。 世の中が苦しみの要因で満ち溢れているのではなく、 己の心が物事を苦と受け止めているだけだ気づくと楽になる。 仏教の本質は「抜苦与楽」であり、四苦八苦からの救済が仏教という薬の効能だ。 つまり、人を楽にしてやれない仏教は、何の役にも立っていないという事だ。
680 :
? :2013/11/01(金) 12:17:18.09 ID:q9ufCQzX
> 皆空なり … 実体は無い 輪廻を土台として 輪廻を前提として その輪廻から解脱する為には 「 人は自性として存在している 」 と捉えて 善行に励み、永遠ばかりを探して 凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない 無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達の為に 無我・縁起・空、を観察する為の練習が必要だ およそ、禅定に入ろうとする人は … … この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます 一切の有情には仏性があるといわれる、解脱すれば仏だという しかし 「 解脱すれば仏だ 」 と言う事に 気づくまでは、気づくことは難しい
681 :
神も仏も名無しさん :2013/11/01(金) 21:23:40.81 ID:qs+M5uuF
>>674 楽ってどういう状態のこと言ってんの?
「楽になりたくて死ぬより苦しい思いをする」
へーそうなんだ。
矛盾してるってより、空疎に聞こえるわ。
自我が傷つきたくないから いっそ自我を殺そうとする作業に思える
683 :
神も仏も名無しさん :2013/11/01(金) 22:36:08.12 ID:iPFLnoqH
「悟り」ってそんな堅苦しいものだったか?
>>681 楽ってな涅槃の事よ。有るも無いも無いの。
で、あなたにとって楽って何?何で悟りたいの?
>>682 つ雪山童子
>>683 昔、弟子入りする為に、片腕切り落とした人が居たそうだよ。
大乗は、竜樹の空と、説一切有部の「5位75法」で成り立っている。 世親が倶舎論にまとめた5位75法を確認しよう。 説一切有部は「法有」 大乗(竜樹)は「法空」を主張している。 無為法(1)・・・虚空・択滅(慧解脱)・非択滅(心解脱・身解脱) 有為法(4) 色法(物質)・・・五感の機能と対象 心法(心) 心所有法(心のはたらき)・・・受、想、信、勤、痴、放逸など 心不相応行法(心に伴わないもの)・・・【命根】 生住異滅 滅尽定ほか
5位75法を見ればわかるように、 生物の生命は【命根】として物質と同じ有為法に分類されている。 そして大乗は、この無為法・有為法が「空」だと主張する。 大乗は、竜樹が論争した説一切有部の裏返しだから、空だけでなく、 5位75法もそのまま大乗の背景になっている。 ここに大乗の枠組みがあり、伝統がある。 空だとか、5位75法だとかに囚われている大乗には、 仏教を学ぶ者に、あれ、生命はどこへ行ったの? と思わせるものがある。 肝心の生命がそっちのけにされている。
>説一切有部の裏返しだから、空だけでなく、 > 5位75法もそのまま大乗の背景になっている 論争の相手に合わせてるだけなのに、なんでそれが批判者の思想的背景につながると言えるの? >世親が倶舎論にまとめた5位75法を確認しよう。 世親が愚者論をまとめたとき、世親はまだ大乗に転向してなかったんじゃないの? 説一切有部の主張を中心に、まとめたものでしょ?
688 :
神も仏も名無しさん :2013/11/02(土) 20:35:36.09 ID:n/Pvl2gA
>>684 悟りたいってこともないなぁ・・・
むしろ、悟ったって人を見てみたいなぁ とか。
「楽って涅槃のことよ」
とかさぁ、もう、空疎の上にも空疎って感じじゃん。
空疎の三段重ねのお弁当ですよ〜とかさぁ。
ほんで三段ともなんにも入ってないの。
で「これが涅槃だ!!!!」とかさあ。
2、3年前?お正月のおせちの予約ものが宣伝用写真と実物が違いすぎって
問題になったことあったけど、あれはなにがしか中身を入れたからダメだったんだな。
なんにもいれてなけりゃ「こんなにお手頃な涅槃!!」って済ませられたかもなのに。
見たっておもろい事ないよ。普通の人と大して変わらん。 まあ、ホントはかなり違うんだけど、ちょっと見たくらいじゃ判らん。 どうしてもってんなら、坐禅の老師を訪ねてみるか、 YOUTUBEか何かでOSHOの動画でも見てみればいいんじゃね? ってか、君は無とか空疎とか虚無とか虚空とかに悪いイメージ持ちすぎ。 何でそーなった?知識の出処は仏教とちゃうよな? やっぱ「すぴりちゅありずむ」かい?
>>687 竜樹は「5位75法」を批判したのではなく、
説一切有部の「一切が有る」という主張の矛盾を指摘しただけ。
「5位75法」はそのまま大乗に引き継がれている。
世親が「5位75法」をまとめたのだから、大乗にもろ流れ込んでいる。
上座部と大乗の違いは法有か法空かにある。
あと、涅槃ってのは、引越しが決まって、ゴミ屋敷を大掃除して、 スッカラカンになった部屋で一服するのに似てる。
>>690 違うんじゃない?
「5位75法」ってのは、法有の立場を明らかにするために、
「法にはこういうものがありますよ、」 って説明したんでしょ。
だから、そこで言われてる75法ってのは、あくまで「有なる法」のことでしょ。
「こういう自性のある法があって、世の中成り立ってるんだ〜」 って、説明でしょ。
世親は後に兄弟に誘われて大乗に転向した時、説一切有部の教えを鵜呑みにしていたことを後悔して、
「つまらない教えを聞いた」として、耳を削ぎ落としたんでしょ。
693 :
神も仏も名無しさん :2013/11/03(日) 00:05:37.48 ID:ALBdiJCG
>>689 ……知識の出所は仏教とちゃうよなぁ????
だーーーーぁあほが!!!!
おめーの言葉がからっからの化けの皮だけだってんだよ!!!!
なあああああああにが「すぴりちゅありずむ」うううう????
くそが!!!
今まで何を勉強してきたんだ、アホが。
>>656 最初から途中まで読み返したけど、意味不明だったり、難解だったり
用語が不適切だったり、せっかくのレスを無視したりと反省しきり(汗)
テーマを設定し、考えながら書いていたから、忘れないうちに書き込もうと
焦っていたせいだろうか。余裕がなく、十分な推敲もない。
5行制限もきつかった。どう文章をカットするかに気を使っていたよ。
でも今は11行制限なのでだいぶユトリができた(^^)
696 :
神も仏も名無しさん :2013/11/03(日) 00:12:17.80 ID:ALBdiJCG
ちょっと見にはふつーだけれども わかる人にははっきりわかる やだやだ ほんっとに気味悪いわ 「すぴりちゅありずむ」とてめーとは違うと思ってるらしい 腐った脳みそにかかりゃなんだって同じだよ 気味悪いだけ
697 :
神も仏も名無しさん :2013/11/03(日) 00:14:27.39 ID:ALBdiJCG
勉強 知識 良い点を取る人が良い悟りに入れます
698 :
神も仏も名無しさん :2013/11/03(日) 00:16:33.14 ID:ALBdiJCG
自己採点でね
699 :
神も仏も名無しさん :2013/11/03(日) 00:21:17.05 ID:ALBdiJCG
自己採点でいいのに「死ぬより苦しい思いをする」なんて 臭い芝居が好きなんですね。 まあ腐ってますからね、臭いわけです。 ちょっと嗅げばすぐわかります。
700 :
神も仏も名無しさん :2013/11/03(日) 00:33:15.63 ID:ALBdiJCG
仏教の中だけでしか通用しないようなものなら世間に出てくるなと言いたい
>>692 5位75法は、原始仏教〜部派仏教までに蓄積された法の体系。
説一切有部はこの法を「有」としたのであり、「有」から5位75法を
導いたわけではない。詳しくは中村先生の「竜樹」参照されたし。
「有部の思想が大乗仏教のそれと正反対の点があり」同書110頁
世親は、瑜伽行の実践から部派の誤りを認識し、大乗へ転向した。
しかし中観の「一切皆空」にも納得できなかったのでは?
部派から転向し、今度は大乗から転向する?
年齢的にもそんなことはできない。ここに世親の苦渋があった。
耳を削ぎ落とす? 画家のゴッホを連想するよ。
702 :
? :2013/11/03(日) 02:02:37.19 ID:o27l/trW
我は、常住であり 他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え それは働きのうえで自由自在の力をもつとした この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである − これに対して − 釈迦はこのような実我観念を批判し 「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた これを色受想行識の五蘊について説き 人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた
703 :
? :2013/11/03(日) 02:06:16.95 ID:o27l/trW
>>702 の続き
自立論証派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である
それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
− これに対して −
帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します
_ _ _
_ _ _
有相唯識派
阿頼耶識は実有なるものとする
− これに対して −
無相唯識派
阿頼耶識も縁起なるものとして空とし、その実体・自性を否定する
心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり
究極的にはその実在性も否定されるからである(境識倶泯)
704 :
? :2013/11/03(日) 02:45:13.50 ID:o27l/trW
>>666 ID:Kj8OhmmP さんへ
> 自我は無いと観察すれば自我は消えるとか訳分かんねえ事を言ってる
>>702 と
>>703 の続き
例えば、仮に
我・我所を滅させる因縁に依存して → 無我・無我所を得て、智慧を決定する
と言う説明が納得できないのなら
とりあえず、自立論証派・有相唯識派と言う段階があります
仮設としての 「 心(識)の働き 」 を、とりあえず仮にあるとします
_ _ _
_ _ _
ちなみに、滅尽定は
想受を滅させる為の方法です 屮(_ ._)屮
>>701 「5位75法」は、説一切有部が、体系的にまとめたものでしょ。
原始仏教からこういう体系があったわけじゃない。
勝手に有部が作ったもの。
それも法有の観点から。
法有思想のもとに作られたものだから、ぜんぜん、仏教から外れてる。
体系的にまとめる時に、法有を前提としてるから、この「5位75法」自体、
大乗とは何の関係もない。
もともとあった法とは、自性有では無いのだから。
>>705 >この「5位75法」自体、大乗とは何の関係もない。
大乗の三法印に「諸法無我」がある。
諸法とは5位75法を言う。大乗に関係ないどころではない。
それは大乗の根っこになっている。
707 :
? :2013/11/04(月) 15:48:44.78 ID:9aDhFA9w
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D 五位とは
(因縁変化を成立させる「有為法」内の)
「物質的なもの」を意味する「色法」
「心の主体となる識」を意味する「心法」
「心のはたらき」を意味する「心所法」
「それ以外」のものを意味する「不相応行法」
(因縁変化を成立させる「有為法」以外の)
「生滅変化なく、因縁によって動かないもの」を意味する「無為法」
の5つに分類される諸法を総称したものである
各分類の法の数は、説によって異なる
説一切有部
倶舎論では、色法11・心法1・心所法46・不相応行14・無為3の75種(五位七十五法)と成す
法相宗
唯識宗では、心法8・心所法51・色法11・不相応行法24・無為法6の100種(五位百法)と成す
708 :
? :2013/11/04(月) 16:01:30.26 ID:9aDhFA9w
http://www.amrm.org/i/?p=62 末那識 我執のこころ
1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である
2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)
末那識の要点
1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる
十牛図とか一遍の絵だがその悟りを思うと頭を垂らさずには居れない 私は恐らく一生、現実や自我という世界から抜け出せないだろうが こういったものを通して世界の奥深さを感じれる事をありがたく思う
710 :
神も仏も名無しさん :2013/11/06(水) 23:06:42.47 ID:ofz0yaN0
深いというのは、浅いところがあるから深いところもあるわけで、 浅いところも深さの要素なんだけど。 なんでそう他人事なんだかね。
>>707 つまり、有為法が含まれる・・・、ってことは、自性を認める論理なんだわ。
少なくとも、龍樹の見解では、有為法と無為法が合わさった・・・・、って、
考えじゃないから。
有為法が少しでも含まれれば、それは大乗ではないし、本当の仏教でもない。
>>711 貴方が思われる大乗とは?本当の仏教とは?
713 :
? :2013/11/11(月) 00:02:51.26 ID:Iao9F9MR
> 有為法が含まれる・・・、ってことは、自性を認める論理なんだ
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/tokokyohi67.htm 「我」とは、変化せず常住にして単独で、ものを自在に支配するもののことで、言い換えれば
それは我という一物があって
自己の全体を支配しているもので、固定的な実体性をもったものといっているのである
− これに対して −
無我とは、無自性ということで
ものには固定した体(本体)や性(性質)がないということで、実体的固定性がない
もし自性あれば、永遠に他と関わりなしに独一的に存在することが可能となる
ところが、一切のものは、他と無関係には存在することは許されない
したがって、すべてのものは無自性であり、無我・空我である
諸行は無常であり、諸法は無我にして無自性であると
あるがままにものを見ると、すべてのものは何ひとつとして、単独で生起し独立した存在はない
必ず余他の力を借りて起こるものである、他のものとの関わりにおいて成立しているのが実情である
こうした現象相互の生起・存在のもちつもたれつの関係を「縁起」と呼んでいる
諸法無我印
諸行無常印から導きだされる当然の帰結であり、一言でいえば
全てのものには固定した実体我というものは一切認めないという、一切諸法実体非認の原理である
諸法無我の「諸法」は、有為法と無為法の二つの法を含む
有為法は、森羅万象全てのものを意味し、物や者にとどまらず
愛情というものや責任というもの、精神状態や事象も指し、常識的に概念化し得るもののことである
因縁所生の一切の有為現象である
714 :
? :2013/11/11(月) 00:24:01.96 ID:Iao9F9MR
715 :
? :2013/11/11(月) 00:43:26.04 ID:Iao9F9MR
716 :
? :2013/11/11(月) 00:50:39.10 ID:Iao9F9MR
717 :
神も仏も名無しさん :2013/11/24(日) 13:37:02.73 ID:2zk4uIh2
何かつまんないスレになったな。
718 :
神も仏も名無しさん :2013/11/25(月) 21:12:43.42 ID:+cfcFWGE
無自性空
719 :
神も仏も名無しさん :2013/12/01(日) 20:37:50.71 ID:JDBKyK7n
返本還源
返本還源(へんぽんげんげん) 原初の自然の美しさがあらわれてくること 悟りとはこのような自然の中にあることを表す 縁起によって空から生まれた無我なる現象であるから 輪廻から解脱すれば仏だという 解脱してあなたたちは思う 変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆 そして 止(サマタ)・観(ヴィパッサナー)によって 無我・縁起・空の観察によって 我・我所を滅させる因と縁の依存によって、無我・無我所を得て、智慧を決定する しかし 因と縁の依存によって 渇愛を滅させて 「解脱すれば仏だ」ということに 気づくまでは、気づくことは難しい
721 :
神も仏も名無しさん :2013/12/05(木) 01:36:56.28 ID:CsHaedKl
眼横鼻直
眼横鼻直
http://www2.spacelan.ne.jp/~t-kawabata/newpage32-1.html 「眼前の事実に対して、あれこれ思いをめぐらすのではなく、ありのままの状態を、ありのまま受け入れていこう」
目は横で、鼻は縦でしかないのだから、それ以外のことにこだわる必要がないということなのです
我々は、日常の中で、いろんなこだわりを持って生きています
たとえば、人に何か頼まれたとき、素直に受け入れればいいのに
自分の考えていたことと違えば、「こうしたほうがいい。」などと意見をして、自分のやり方を押し通そうとします
それは、自分のやり方が最善策だというこだわりがあるからであり、もっと言えば
自分のやり方に対する執着を捨て切れていないからなのです
だから、人の頼みを素直に受け入れられないのです
自他を選別し、自分に都合のいい方を選んだり、どちらか一方に執着することが、不要な苦しみを生み出すのです
『苦しみの原因となる「選別」や「執着」が起こらぬよう、物事をありのままに見て、当然のごとく受け容れられるようになっていこう
そうやって苦しみを和らげよう』
723 :
神も仏も名無しさん :2013/12/07(土) 14:26:54.29 ID:cBo2Ba6v
寂滅為楽
空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処 を超え 止と観によって 禅定と智慧によって 死ぬことも、生まれることも〔説か〕ない それこそが苦しみの終わりである
726 :
神も仏も名無しさん :2013/12/11(水) 04:45:06.06 ID:MXvY4dU9
滅却心頭火自涼
http://kouzenn.fc2web.com/zen/031107.html 滅却心頭火自涼(しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし)
積極的に取り組めば苦しいこと(=火)でも涼しく感じる
という意味です
「苦しいことでも捕らえ方
考え方によって感じ方が大きく変わる
真正面から向かい合おう」
という意味のようです
物事は捕らえ方一つで大きく変わります
辛いこと、苦しいことも試練であり
自分を成長させるチャンスだと思って
積極的に取り組んでいきたいものですね
728 :
神も仏も名無しさん :2013/12/15(日) 03:24:11.97 ID:StePcsOF
非思量底
729 :
おじゃる :2013/12/15(日) 04:05:53.89 ID:E7DF4y3+
道元禅師は『普勧坐禅儀』の中で「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量」
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-zen12.htm 私たちの認識は現実そのものを認識するのではなく、自分の思いを認識しているに過ぎないとも言えましょう
そのような認識の仕方は自分の都合のいいように認識し、都合のいいように展開するのを期待します
それらが裏切られると腹を立て、そして自ら苦しみます
次に、「不思量(底)」とは
人間の思いの重なっていない「現実そのもの」を言うでしょう。その現実そのものを思量(認識)せよと仰るのですが
そのときの思量は「非思量」だとも仰っています。この非思量が只管打坐の心の内実だということになりましょう
普通の認識では現実そのものの認識は不可能ですが、只管打坐の坐禅はそれを可能にしてくれます
まず、「現実そのもの」として自身の体を持ってきます
それを「正しい坐相」に設定し、一瞬もゆるがせにせず、「正しい坐相」をねらい続けます
730 :
神も仏も名無しさん :2013/12/16(月) 00:38:48.23 ID:pS7HYs8w
無自性空
731 :
おじゃる :2013/12/16(月) 02:09:53.29 ID:WpoLFiwh
存在という現象も含めて あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている この関係性を釈迦は 「 縁起 」 として説明している 相互に依存しあっていることを明らかにした。 これを空もしくは 「 空性 」 と呼んでいる。 関係性によって現象が現れているのであるから、 それ自身で存在するという 「 自性はない 」 ことを明かしている 縁起により全ての存在は無自性であり それによって空であると論証しているのである 龍樹の空は、これにより 「 無自性空 」 とも呼ばれる
732 :
おじゃる :2013/12/16(月) 09:20:07.27 ID:WpoLFiwh
諸法実相(しょほうじっそう、実相) 中村元によれば鳩摩羅什が摩訶般若波羅蜜経、妙法蓮華経などを漢訳する際に 次の6種の原語に対して当てた訳語である その6語とは 『ダルマター』、『ブータ』、『サルヴァ・ダルマ・タタター』 『ダルマ・スヴァバーヴァ』、『プラクリティ』、『タットヴァスヤ・ラクシャナ』であり いずれも同義であるとされ 悟りの立場から見る(仏知見)諸々の存在のあるがままの真実の姿かたちをいう 言い換えれば縁起する存在を表す用語である 諸法実相は大乗仏教の根本に位置づけられる概念だが 中国、日本における解釈は宗派によって異なる 例えば、三論宗では空の理法であり 天台宗では三諦(空・仮・中)からなる中道第一義諦の理法であり 禅宗では森羅万象本来の面目を表す
>>731 >縁起により全ての存在は無自性であり
>それによって空であると論証しているのである
存在=無自性ならば成り立つ理屈だが
「存在」は明らかに自性の有り無しを超えているよ
734 :
おじゃる :2013/12/16(月) 15:59:15.10 ID:WpoLFiwh
> 「存在」は明らかに自性の有り無しを超えているよ われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り 自分の心身を厭う思を起こし 心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である このように現実を厭うことは 人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが その世俗性の否定によって、結果として 真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである 煩悩障(自己に対する執着) 所知障(外界のものに対する執着)の 二種の障害を根絶することによって 阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち) これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し それを得たものは解脱身であり 仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
736 :
おじゃる :2013/12/16(月) 17:02:18.71 ID:WpoLFiwh
だから 解脱身は、汚れを離れた領域であり、思考を超越し この「存在」は明らかに自性の有り無しを超えているよ
>>736 >この「存在」は明らかに自性の有り無しを超えているよ
そうですね
そして、この「存在」は確実におじゃるさんの中にも在るのです
いや、おじゃるさんそのものと言ってもイイでしょう
738 :
おじゃる :2013/12/16(月) 18:04:20.69 ID:WpoLFiwh
>>738 仏性って名前を付けたら「仏性」が有るように見えるね
>縁起によって空から生まれた無我なる現象であるから
現象であると認識出来るなら「仏性」は「存在」では無いですね
「存在」は知覚も認識も出来ませんからね
740 :
おじゃる :2013/12/16(月) 19:44:00.05 ID:WpoLFiwh
無自性空ですね?
742 :
おじゃる :2013/12/19(木) 07:48:25.57 ID:wtmpknJg
743 :
神も仏も名無しさん :2013/12/21(土) 05:39:14.10 ID:0qY+ho79
死ぬ時節には死ぬがよく候
744 :
おじゃる :2013/12/21(土) 06:25:08.45 ID:BHPFzQXC
越後の良寛さん(江戸時代後期の禅僧、書家、歌人:1758年〜1831年)は
与板村に山田杜皐(やまだとこう)という俳人と親交がありました
良寛さんが71才の時、三条市を中心に大地震が起こりました(越後地震)
良寛さんの住んでいる地域は被害が少なく、与板の方は被害が甚大であったそうで
良寛さんは杜皐さんへ見舞の手紙を送っています
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ
と、見舞の一文の中に書かれていました
その意味は
「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい
死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、これが災難にあわない秘訣です」
ということです
http://www.cty-net.ne.jp/~zenrinji/ohanasi-9.html
745 :
おじゃる :2013/12/21(土) 06:55:11.36 ID:BHPFzQXC
746 :
神も仏も名無しさん :2013/12/23(月) 00:22:00.69 ID:T+Wte3o6
虚堂来也不直半銭(一休)
747 :
おじゃる :2013/12/23(月) 08:24:13.90 ID:kWeu9Psl
須弥南畔(しゅみなんぱん)(須弥南畔)
誰か我が禅を会(え)す(誰会我禅)
虚堂(きどう)来たるも也(ま)た(虚堂来也)
半銭(はんせん)に値(あたい)せず(不直半銭)東海純一休
峯尾:「私の禅は誰にもわからない」と言った一休さんの禅というのは
結局何だったと西村さんはお思いになりますか
西村:禅というのは、私は人の数だけあると思っています。己事究明―自己の追求ですからね
よく「禅、禅」と言いますけど、禅なんてどっこにもありませんよ。人の数だけ禅があると思う
真面目に自分というものを逃がさないようにして
そしてずっとひたすら自分を大事にして人生を送った人はまあ禅を行(ぎょう)じた人だ、と私は思います
だから一休さんの禅というのは、一休さんだけにとって
承認され得る禅であって、誰もこれを評価することはできないと思います
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-304.htm
748 :
神も仏も名無しさん :2013/12/27(金) 05:10:23.57 ID:yoSQMQ+4
平常心是道
749 :
神も仏も名無しさん :2013/12/27(金) 05:15:45.82 ID:kyRd0XBG
750 :
神も仏も名無しさん :2013/12/27(金) 05:16:24.35 ID:kyRd0XBG
中川泰秀=まこと
751 :
おじゃる :2013/12/29(日) 18:59:02.81 ID:8vS44rpd
752 :
おじゃる :2014/01/04(土) 22:29:59.86 ID:zb+SLWob
test
寧ろ逆に天国だろ 他に別に極楽だろ 当然正反対に理想郷だろ
754 :
神も仏も名無しさん :2014/01/06(月) 22:55:43.77 ID:vZVN5m5Z
廓然無聖(碧巌録第一則)
755 :
おじゃる :2014/01/06(月) 23:29:59.44 ID:0EF8lc8h
756 :
おじゃる :2014/01/14(火) 17:35:15.68 ID:eaHTnnt9
焼肉定食を食べたい おじゃる 弱肉強食(じゃくにくきょうしょく) 弱い者が強い者のえじきになること 強い者が弱い者を思うままに滅ぼしてしまうこと 「弱肉強食」は「強い者が弱い者を淘汰してしまうこと」を意味し 「この世は弱肉強食」などと用いる これをもじって 「 この世は焼肉定食 」 などとする
757 :
神も仏も名無しさん :2014/01/14(火) 17:54:12.90 ID:MjaOaOsQ
>>756 そんなくだらないことよく書くな?
飲んでる???
758 :
おじゃる :2014/01/14(火) 18:29:24.50 ID:eaHTnnt9
> そんなくだらないことよく書くな? > 飲んでる??? 私の場合は 内臓が良くないので、アルコールは、まったく呑めません 脳に軽い障害が、あるので 「自分の意識は常識を超えている」 と自分自身に酔いしれてる状態で おじゃる 因と縁の依存によって 五蘊の仮和合の 仮に現れている状態であるからこそ このようなものを掴み捉えようとする心の働きが現れている みたいな感じで おじゃる
「悟らなくていい、悟れないままでいい」 鳴かぬなら 鳴かずとも良し ホトトギス
760 :
おじゃる :2014/01/28(火) 10:01:33.46 ID:PKNaMyYe
大辞林 第三版の解説 鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥 機が熟するまで辛抱強く待っていよう,という意 随筆「甲子(かつし)夜話」に徳川家康の言葉として見える 織田信長が「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」 豊臣秀吉が「鳴かぬなら鳴かしてみしょう時鳥」といったのを受けた句で 信長の強引さ,秀吉の積極性に対して,家康の忍耐強さを表現した句 _ _ _ 織田信成(おだのぶなり 1987年3月25日 − ) 「鳴かぬなら それでいいじゃん ホトトギス」
761 :
神も仏も名無しさん :2014/03/30(日) 01:36:48.42 ID:azoEp1br
心因性の抑うつ傾向、不安、対人恐怖などがみられる。 もう少し、多くの人の考えを謙虚に探して行ったほうがよくね ? だいじょぶ、かならず さとるから。
762 :
神も仏も名無しさん :2014/04/05(土) 18:01:18.66 ID:yseNOtnh
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
763 :
神も仏も名無しさん :2014/05/14(水) 17:30:59.53 ID:aM7zifVh
究極の到達が「さとり」だって・・ アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ 糞馬鹿 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
764 :
神も仏も名無しさん :
2014/05/26(月) 11:56:14.63 ID:I7xPQ70b