北伝仏教の誤りを追及したい

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224神も仏も名無しさん
アドブターナンダ(この名前は<アートマンの素晴らしい本性の中に至福を見出す者>という意味の戒名で、ヴィヴェーカー
ナンダが与えた。P.69)の一生は、「霊的叡智は主知主義ではなく内的な悟りから生まれる」(p.9)を証明している。 さらに、
ラーマクリシュナやヴィベーカーナンダとの会話は読者である自分に対して霊的修行をせよ!と迫ってくるようだ。 実際に、
ラーマクリシュナが弟子達のクンダリーニを目覚めさせる描写(p.29)、ラーマクリシュナがバーヴァ・サマーディに入って呼吸が
止まる様子(p.35)、アドブターナンダが信者を叱責したことで作り出した過ちのカルマを解き放つプロセス(p.40)などは、
重要な修行指針である。 更に、ラーマクリシュナの「誠実であることは、カリユガ(現代)においてはタパシャー(苦行)である。
225神も仏も名無しさん:2012/01/06(金) 18:16:46.56 ID:hFCGDa8v
真実を固守しない者は神を悟ることは出来ない」(p.51)という言葉により、一般に苦行と訳される「タパシャー(タパス)」の真義が
明かされる。 また、アドブターナンダが「ガンガーの水から光が現れ、その光が次第に大きくなり…云々…」(p.81)と述懐する
「光」とは、ブッダ釈尊が「四念処法」の身念処確立の指針とされた「ニミッタ(徴)」の事であり、空海が「阿字観」と比喩したものである。
これも重要な修行指針である。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯』によれば、驚くような奇跡の連続で、ヴィヴェーカーナンダはシカゴに辿り着き、
世界宗教会議への出席が可能になった。35年前にヴィヴェーカーナンダの講演集を読み、師がブッダ釈尊を絶賛していることに触発されて、
真言密教系からテーラワーダ仏教に至る様々な仏教を修行し、それらを卒業して35年ぶりにスワミージーの講演集を読み直したところ、
1世紀前の講演とは思えないほど新鮮であることに改めて驚いた。
仏教修行のお陰で、シカゴ講演集にある次の言葉に深く共鳴できる。
226神も仏も名無しさん:2012/01/06(金) 18:18:47.87 ID:hFCGDa8v
「シャカ・ムニは、一つも新しいものを説こうとして来たのではありませんでした。彼もまた、イエスと同様に、完成するために来たのであって
破壊するために来たのではなかったのです。ただ、イエスの場合には、彼を理解しなかったのは古い人々であるユダヤ人であったのに、
ブッダの場合には、彼の教えの意味を悟らなかったのは彼自身の信奉者たちでした。」
「シャカ・ムニは、隠されたヴェーダから真理を見出し、それを世界中にひろめるだけの大きなハートを持っていたことが、
彼の偉大なところでした。彼は宣教、改宗勧誘を修行に取り入れた世界で最初の人でした。」
「シャカ・ムニの弟子たちは、ヴェーダの真理を見出すことをあきらめ、男女を問わずあらゆる人が深く愛着している
不滅の神を民族から取り上げたのです。その結果、仏教はインドでは自然死を遂げなければなりませんでした。」
「ヒンドゥ教は仏教なしには存続できないし、仏教はヒンドゥ教なしには生きられません。」
227神も仏も名無しさん:2012/01/06(金) 18:20:25.04 ID:hFCGDa8v
1893年に来日したスワミージーは、1897年のマドラス新聞に掲載された会見記事で日本の話題を取り上げ、
「日本の仏教はセイロンに見られる仏教とは全く異なっていて、ヴェーダーンタと同じだ。肯定的で有神論的仏教であり、
セイロンの否定的で無神論的仏教ではない。」(p.61)と述べている。
スワミージーが述べる「神」とは、ウパニシャッドのアートマン(個我)であり、ブラフマン(宇宙我=Σ{個我})のことである。
「アートマンやブラフマンという絶対存在は、これでもなくあれでもない(ネティ・ネティ neti-neti)。」とするウパニシャッドの伝統に倣い、
ブッダ釈尊も「絶対的な我[自己]とは、これでもなくあれでもない(非我)。」と述べる。これを「諸法無我」と勝手に変更したのは、
セイロンのテーラワーダ仏教(すなわち小乗仏教)である。
228神も仏も名無しさん:2012/01/06(金) 18:22:03.07 ID:hFCGDa8v
後に、ウパニシャッドに通暁した天才的な若者達が釈尊の精神に立ち返り、新しい「大乗仏教」を創出した時、
「絶対的な存在=ブラフマン」の象徴である太陽を「大日如来」と表現したのである。彼らは、釈尊が説明不能な絶対的存在を否定したわけではなく、
修行に役立たないと考えて敢えて語らなかっただけ、と理解していたからである。
その「神」をスワミージーは、「時間は心によって始まり、空間も、心の中にあります。時間が無ければ、
因果律は成り立ちません。連続の観念が無ければ、因果律の観念はあり得ないのです。
229神も仏も名無しさん:2012/01/06(金) 18:23:07.74 ID:hFCGDa8v
それゆえ、時間、空間、および因果律は心の中にあり、
このアートマンは心を超越していて形がないのですから、時間空間を超えており、因果律も超えているに違いありません。さて、
もしそれが時間、空間を超えているなら、それは無限であるに違いありません。このとき、我々の哲学の最高の思索がやってきます。
無限なるものは、二つはあり得ないのです。もし魂が無限であるなら、魂は一つしかあり得ないのであって、それが偏在の霊であり、
魂の実相なのです。」(p.122〜124)と説明する。
スワミージーが語る「アートマン」とは、釈尊の「涅槃」と同じである。