【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】

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613.1.0
格好の例をあげましょう。
あるスレッドが2チャンネルに立てられた。そこには仮に「正法神理を学ぶ」と書かれていたとします。
そして規約に、目的として「このスレッドは正法神理について学ぶ人達と語る場を提供します。各自の霊性向上のために有効に活用して下さい」

禁止事項として「特定の宗教団体や思想団体その他についての宣伝・誹謗中傷はお断りします」
「正法神理の名のもとに他者への誹謗中傷は目的から外れているのでおやめ下さい」
「無意味なAAやコピペを貼り付けることは禁じます」、と書かれていたとしましょう。

この例えでいうと、スレッドが教団であり、目的のためにまじめに会話をかわそうと参加する人達が入門を許可される可能性がある者。
禁止事項の3つは、まさに「戒律」です。この戒律は、正法神理を学ぶ以前の問題です。一般常識が欠如している者に
正法神理を正式に学ぶ場、教団への入門が許可されるでしょうか?そのような一般常識や一般教養を身につけていない
まだ霊的に幼い魂を持った人達から、まじめに正法神理を学ぼうとする弟子を守るために出来たのが「戒律=現代語に意訳すると一般常識」
ではないかと私は思います。一般常識を身に付けている人は、わざわざ「自戒」など不要なのです。また釈尊が
そのような社会生活を営む上での一般常識を仰々しく説かれるわけもありません。よって弟子に教団のあり方を
指導し、その指導によって弟子が作ったのが戒律(教団で過ごす者のルール)と結論付けます。戒律は決して正法神理ではありませんし
正法神理に組み込まれた教義では無いと思います。戒律第一と呼ばれた弟子が後世に伝えたのは、この「本来の戒律とは別物」と推測します。
623.1.0:2011/11/09(水) 19:16:41.94 ID:XC8T7zR0
戒律第一の弟子が自分の修行方法として役立っていた考え方を、後世の人達が自分たちの修行にも役立つよう体系立てたものが
本来の「戒律=現代語で意訳すると一般常識」とミックスされて伝えられている可能性がある、と私は思っています。
両者は分けて考えなければ真意に近づけないと思われます。
なお、戒律第一の弟子は彼の個性によって正法神理を極めようとしただけであり、万人にとって通用するものでは無いと考えています。
各自が自らの霊性向上にとって最もふさわしい方法を正法神理を通じて自力で考案し、実践することを釈尊は「善し」としていたはずです。
そこに「単語」は関係ありません。八正道の八項目について四角四面に規定して実践しようとしても、自分の規格に合わず、必ず脱落します。
「正業」とはこれが本来の正しい考え方だとか「正精進」とはこれが正解だとか、誰それがこう語っているとか
それが一体自分にとって何になるんでしょうか?
そんなことの真偽を追求する前に、自分で考えた八正道を実践すればいいと思います。まじめに修行すれば守護霊が導いてくれるでしょう。
自分の考え方は自分だけのものであり、人に押し付けるものでも強引に納得させるものでもありません(よってこれも単なる参考意見です)。
ここまでの長文、大変失礼しました。みなさんの物事の見方・考え方に何かヒントにでもなれば幸いです。