【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】

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593.1.0
正見正思のあり方について。「戒律」を題材に考えてみます。
正見正思を読書によって実施するなら、誰それがどういったという証拠を提示するだけではなくて、それについて
「なぜそう思ったのか」という自力推論が不可欠ではないでしょうか。

「真意を読み解く・(ただし高橋氏の著作が真実であると仮定した場合の推論・基本的には全部検証不可能)」
戒律というものは存在したか否か →存在した [3]P.75、P.76
戒律はブッタの作ったものか否か →ブッタと弟子の作 [3]P.75、P.76

戒律とはブッタによる修行者の心得、正法神理の指導要領のようなものか否か →否 [4]P.205、P.207
戒律とは何なのか。正体は? →主に弟子志願者向け、組織内行動の一般常識指導要領 [3]P.75、P.76

仏教の具足戒は釈尊が作られたものか否か →検証不可能
仏教の具足戒(比丘250戒・比丘尼384戒)は当時から変わらないのか →検証不可能

人間・釈迦[3]
P.75
そこでブッタは、シーラ・ヴィチャ(戒律)の必要が痛感されてきた。つまり、サンガー(教団)を統制するための、
シーラの成立はさけられなくなってきたのであった。
P.76
まずベルヴェナーを中心にウパー・サンパラ(具足戒)のウパーディア(修行者の指導者)を定めた。
人間・釈迦[4]
P.205
ブッタ在世の頃は戒律というものはなかった。しいてあげれば三宝帰依の生活であり、八正道の行為しかなかった。
P.207
だからブッタは意見がましい言葉は弟子たちに一切吐かなかったし、戒律というものはつくらなかった。
603.1.0:2011/11/09(水) 18:38:42.33 ID:XC8T7zR0
ここからは自由推論です。高橋氏の著作が真実だと仮定した場合の話です(なおここにはスピリチュアリズム的観点も含む)。
まずなぜ戒律というものについて大勢の人がそれぞれの見解を持ち誤解が生じるのか?
それは現実世界に生きているからです。あの世では言葉は不要で「意念」によってコミュニケーションが行え、言語を
使う必要がないと説かれています。裏を返せば相手の考えていることが丸分かり状態の中で暮らしているということです。
「戒律」も含めた全ての単語は(いえ全ての言葉も同様に)、この現実世界において必要最低限のコミュニケーションをとるために
意念を共通観念としてシンボル化したものということになっています。ですから、ある人が思う言葉や単語は、別の人の
思う言葉や単語とは必ずしも一致しないということになります。誤解が生じるのも当然です。そのために「偏りのない善意の第三者の目」で
ニュートラルに多角度にその言葉や単語を(読書以外の実生活上ではさらに現状も)見る・思う。それが正見・正思であって
あの世の一般常識である丸裸状態の意念(=100%の真意)を再現できるまで磨きあげれば、それが釈尊の悟りとも言えると思います。

私は、釈尊が正法神理として戒律を指導したとは思っていません。戒律は諸法無我という正法神理ではないからです。
人間の決めたしきたりは全て人間の側にあって、宇宙法則そのものではありません。よって釈尊が正法神理として
戒律を定める訳がありません。しかし実際には戒律というものが存在しています。この矛盾はどう考えれば良いのか?

人間には個性があって千差万別、その霊性の発達度も進歩も異なり、それこそ人の数ほどの対機説法が必要になると
思うほどです。ということは釈尊の教団に入門するための、いわゆる「機根」が整っていない人も数多く存在していた
とも言えるわけで、それ以外にも敵対教団からの保護も必要だったはずです。そういう人たちにとって必要なのは
現代社会で言うところの、ずばり「一般常識」「一般教養」であり、正法神理を学ぶ以前の問題となるわけです。