【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】

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私は高橋信次氏が釈尊の生まれ変わりであるという説は、何人たりとも実証データを提示出来ない以上
これを受け入れていません。しかし私は高橋信次氏が釈尊に匹敵するほどの深い教養と智慧を兼ね備えていた実在の
人物として尊敬し、学びたいと思っています(そもそも私は生まれ変わりという概念にもはや興味はありません)。
なぜ何人たりとも実証データを提示できないと言えるのでしょう。それは例え誰かが当時の様子を克明に語ったとしても
それを裏付ける資料はどこにも存在しないからです。例えば、もし次のような証拠でも揃っていたら、それは
実証データということが可能でしょうが、現在そのようなものは存在していません。

例:高橋信次氏が、当時の釈尊在世中に語ったABCDという内容の古文書のありかを明らかにし、場所を特定した。
  考古学者が、その特定個所を慎重に捜索した結果、該当の古文書を発見し、しかも内容が一字一句一致した。

高橋信次氏の著作に、たびたび異言や過去世等の超常現象を紹介したページがあり、高橋氏は「事実は否定できない」
という主旨のこともたびたび記されています。確かにそういった現象があった事実は否定できないでしょう。
なぜならば比較的最近起きた事実としてGLA会員が語り継いでいるからです。しかし、だからといってその現象で
本人が誰それですと語っている「本人自身」であるという証拠はどこにも存在しません。だから現象は事実であっても
発信源は「謎の霊体X」という論理的な帰結になります。そもそもこのような超常現象を実演した狙いはどこにあるのか?
神秘的な未知の現象を見れば人は畏怖や尊敬の念を抱くでしょうが、目的が正法神理普及にあるならその現象自体ではなく
「謎の霊体X」への興味ではなく、その語る内容によって「人生如何に生きるべきや?」という教訓を得ることに
あるはずです。ただし人間の霊性には個性というものがあり、その発達の程度にはいくぶん質の差があるでしょう。
万人受けする形で実演したのも、正法神理に関心を持ってもらうための方便だったように思われます。
もしこの世の全ての人間が、教義内容だけで理解を示し、その質の高低を判断できるというもの分かりの良い人ばかりなら
このようなパフォーマンスをやる必要は全く無く、出版物による正法神理そのものの解説だけで充分だからです。
583.1.0:2011/11/09(水) 18:15:47.19 ID:XC8T7zR0
この私の考え方は、高橋信次氏の教義に反しているでしょうか?いいえそんなことはありません。むしろこのような
推論を重ねるのは、高橋氏の教えそのものです。まず誰かの受け売りでないこと(=自力推論)。次に高橋氏のことば
「疑って疑って疑いぬいて、それでも疑えないとなったらその時信じなさい」という範疇にあること。
最後にこのような超常現象的なものに翻弄されず、実生活での正法神理実践を第一優先に考えていること。

そして、特定の誰かが過去の名の通った偉大な人物であることなど、どうでもいいことのはずです。
なぜこだわるのでしょうか。その心理状態には少なからず権威付けがほしい、自分より偉い人にすがりたい、という
偶像崇拝の根っこが存在すると思われます。また、偉い人が言っていることだから正しい、とか判断基準を自分以外に
置こうとする弱い心も存在しています。これらはみな、他力であり依存心です。
正法神理は自力であり、自助努力によって克己していくものです。だから言行一致した実践を優先し
思っていることと行っていることの誤りを認識したら、それを知恵と勇気と努力で克服していくものです。
その方法を高橋信次氏が詳しく解説されました。それ以外に何がいるのでしょうか?
私達は現実世界に生きています。過去に生きているのでも、未来に生きているのでも、あの世に生きているのでもありません。
今、ここに生きています。そこからはずれた時代考証・人物考証・超常現象考証に時間を割くことは、正法神理から見ると現実逃避です。
593.1.0:2011/11/09(水) 18:16:55.50 ID:XC8T7zR0
正見正思のあり方について。「戒律」を題材に考えてみます。
正見正思を読書によって実施するなら、誰それがどういったという証拠を提示するだけではなくて、それについて
「なぜそう思ったのか」という自力推論が不可欠ではないでしょうか。

「真意を読み解く・(ただし高橋氏の著作が真実であると仮定した場合の推論・基本的には全部検証不可能)」
戒律というものは存在したか否か →存在した [3]P.75、P.76
戒律はブッタの作ったものか否か →ブッタと弟子の作 [3]P.75、P.76

戒律とはブッタによる修行者の心得、正法神理の指導要領のようなものか否か →否 [4]P.205、P.207
戒律とは何なのか。正体は? →主に弟子志願者向け、組織内行動の一般常識指導要領 [3]P.75、P.76

仏教の具足戒は釈尊が作られたものか否か →検証不可能
仏教の具足戒(比丘250戒・比丘尼384戒)は当時から変わらないのか →検証不可能

人間・釈迦[3]
P.75
そこでブッタは、シーラ・ヴィチャ(戒律)の必要が痛感されてきた。つまり、サンガー(教団)を統制するための、
シーラの成立はさけられなくなってきたのであった。
P.76
まずベルヴェナーを中心にウパー・サンパラ(具足戒)のウパーディア(修行者の指導者)を定めた。
人間・釈迦[4]
P.205
ブッタ在世の頃は戒律というものはなかった。しいてあげれば三宝帰依の生活であり、八正道の行為しかなかった。
P.207
だからブッタは意見がましい言葉は弟子たちに一切吐かなかったし、戒律というものはつくらなかった。
603.1.0:2011/11/09(水) 18:38:42.33 ID:XC8T7zR0
ここからは自由推論です。高橋氏の著作が真実だと仮定した場合の話です(なおここにはスピリチュアリズム的観点も含む)。
まずなぜ戒律というものについて大勢の人がそれぞれの見解を持ち誤解が生じるのか?
それは現実世界に生きているからです。あの世では言葉は不要で「意念」によってコミュニケーションが行え、言語を
使う必要がないと説かれています。裏を返せば相手の考えていることが丸分かり状態の中で暮らしているということです。
「戒律」も含めた全ての単語は(いえ全ての言葉も同様に)、この現実世界において必要最低限のコミュニケーションをとるために
意念を共通観念としてシンボル化したものということになっています。ですから、ある人が思う言葉や単語は、別の人の
思う言葉や単語とは必ずしも一致しないということになります。誤解が生じるのも当然です。そのために「偏りのない善意の第三者の目」で
ニュートラルに多角度にその言葉や単語を(読書以外の実生活上ではさらに現状も)見る・思う。それが正見・正思であって
あの世の一般常識である丸裸状態の意念(=100%の真意)を再現できるまで磨きあげれば、それが釈尊の悟りとも言えると思います。

私は、釈尊が正法神理として戒律を指導したとは思っていません。戒律は諸法無我という正法神理ではないからです。
人間の決めたしきたりは全て人間の側にあって、宇宙法則そのものではありません。よって釈尊が正法神理として
戒律を定める訳がありません。しかし実際には戒律というものが存在しています。この矛盾はどう考えれば良いのか?

人間には個性があって千差万別、その霊性の発達度も進歩も異なり、それこそ人の数ほどの対機説法が必要になると
思うほどです。ということは釈尊の教団に入門するための、いわゆる「機根」が整っていない人も数多く存在していた
とも言えるわけで、それ以外にも敵対教団からの保護も必要だったはずです。そういう人たちにとって必要なのは
現代社会で言うところの、ずばり「一般常識」「一般教養」であり、正法神理を学ぶ以前の問題となるわけです。
613.1.0:2011/11/09(水) 19:03:46.42 ID:XC8T7zR0
格好の例をあげましょう。
あるスレッドが2チャンネルに立てられた。そこには仮に「正法神理を学ぶ」と書かれていたとします。
そして規約に、目的として「このスレッドは正法神理について学ぶ人達と語る場を提供します。各自の霊性向上のために有効に活用して下さい」

禁止事項として「特定の宗教団体や思想団体その他についての宣伝・誹謗中傷はお断りします」
「正法神理の名のもとに他者への誹謗中傷は目的から外れているのでおやめ下さい」
「無意味なAAやコピペを貼り付けることは禁じます」、と書かれていたとしましょう。

この例えでいうと、スレッドが教団であり、目的のためにまじめに会話をかわそうと参加する人達が入門を許可される可能性がある者。
禁止事項の3つは、まさに「戒律」です。この戒律は、正法神理を学ぶ以前の問題です。一般常識が欠如している者に
正法神理を正式に学ぶ場、教団への入門が許可されるでしょうか?そのような一般常識や一般教養を身につけていない
まだ霊的に幼い魂を持った人達から、まじめに正法神理を学ぼうとする弟子を守るために出来たのが「戒律=現代語に意訳すると一般常識」
ではないかと私は思います。一般常識を身に付けている人は、わざわざ「自戒」など不要なのです。また釈尊が
そのような社会生活を営む上での一般常識を仰々しく説かれるわけもありません。よって弟子に教団のあり方を
指導し、その指導によって弟子が作ったのが戒律(教団で過ごす者のルール)と結論付けます。戒律は決して正法神理ではありませんし
正法神理に組み込まれた教義では無いと思います。戒律第一と呼ばれた弟子が後世に伝えたのは、この「本来の戒律とは別物」と推測します。
623.1.0:2011/11/09(水) 19:16:41.94 ID:XC8T7zR0
戒律第一の弟子が自分の修行方法として役立っていた考え方を、後世の人達が自分たちの修行にも役立つよう体系立てたものが
本来の「戒律=現代語で意訳すると一般常識」とミックスされて伝えられている可能性がある、と私は思っています。
両者は分けて考えなければ真意に近づけないと思われます。
なお、戒律第一の弟子は彼の個性によって正法神理を極めようとしただけであり、万人にとって通用するものでは無いと考えています。
各自が自らの霊性向上にとって最もふさわしい方法を正法神理を通じて自力で考案し、実践することを釈尊は「善し」としていたはずです。
そこに「単語」は関係ありません。八正道の八項目について四角四面に規定して実践しようとしても、自分の規格に合わず、必ず脱落します。
「正業」とはこれが本来の正しい考え方だとか「正精進」とはこれが正解だとか、誰それがこう語っているとか
それが一体自分にとって何になるんでしょうか?
そんなことの真偽を追求する前に、自分で考えた八正道を実践すればいいと思います。まじめに修行すれば守護霊が導いてくれるでしょう。
自分の考え方は自分だけのものであり、人に押し付けるものでも強引に納得させるものでもありません(よってこれも単なる参考意見です)。
ここまでの長文、大変失礼しました。みなさんの物事の見方・考え方に何かヒントにでもなれば幸いです。