仏教 議論スレッド 24

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417神も仏も名無しさん
>>407
>三法印の「一切」には仏と涅槃が含まれていないというのは、涅槃経の四法印「常楽我浄」が

だからw そういうことじゃなくて、
【 「sabbe saNKhArA 」・・・《 全ての 行 》は〜/《 諸々の 行 》は〜 】 であり、
 ↓
涅槃という境地以外、この世の全てが「行」であるので、
 ↓
『一切、一切皆』と称された(訳された)、ということ。

まず最初に《大きな括りとしての『一切』という概念、包括の仕方》があるのではなく、
対象として述べられたものが、『一切』として括り得る「相、性」を持つものだから、
後付として、意訳として、読解の幅として『一切』の一語でも可としているだけ。
だから、ブッダや如来を、五蘊存在として捉えれば、その存在自体は「行(saNkhata)」と言っていい。
だから、「死ぬ」のだ。(表現としては「死」ではなく「般涅槃」だがw)
ブッダの存在により妬み・恨みを抱く(=苦を感受する)者もいるだろう。
その意味で、泡沫の一であることを免れてはいない。(だから、「法身」に対して「報身・応身・化身」などと言う必要がでてくる。)

境地としての涅槃及びその延長での法身といったものはsaNkhataでないから、上記sabbeの中に入らない。
後付で除いたのでなく、「もともと外れている」だけ。もともと外してある上で「一切(sabbe saNKhArA)」と言われている。

当然、大乗涅槃経以前から継承されている事案だ。