マハシゴエンカパオ☆ヴィパッサナー瞑想法Part.10
953 :
神も仏も名無しさん:2013/06/24(月) 13:25:04.16 ID:ThbuBSyV
現代科学や心理学の唯物論的世界観の限界内で瞑想してると
ある一定段階からその世界観が足枷となって進めなくなる
あるがままとか言っても結局、見える世界、自分達が共通に認める世界でのあるがままなんだよな
現代一般人のヴィパッサナーもそういう定見を壊すとこまで進もうとしない、そこの執着は根深い
>>955 心身分離の苦悩もなにもヴィパッサナーで初めに得る智慧は「名色分離智」だろw
煩悩って執着と言えるのは僅かで多くは生命の基盤だから無くすなんて無理だよ。
瞑想がすすむとそう思ってるものの多くが実はただの執着だってわかってくるんじゃない?
だって、戦争とか、我慢しないと死ぬみたいな状況になったら、
ほとんどのものはみんな我慢できるし興味なくなるでしょ
生命を維持するには最低限の眠りと食と呼吸しか必要ないんだし
瞑想で分かることは「瞑想状態で分かること」だから、代謝を落とした特殊な状態での理解
であって、普段の活動的生活の中で分かることとは違うだろ。
戦争中に分かったことを今引きずる必要はないとおもう。今は今。今を理解することが大切で
同様に瞑想で分かったことを今に適用するのは問題がある。
あなたに今必要なものってなんなんですか?
未来に必要なものじゃなく、今、この今に必要なものって
創造的であろうとするなら、不健全や頽廃や反社会的衣装をまとうことも時として必要になる。
瞑想で魔境や毒が出てくるのは、芸術的創造活動に毒が必要なようにそれが必要だからだろう。
避けるものではなく対峙する物と捉えるべきだ。そこに在ろうとすると常にある。それこそが
必要なものだ。
963 :
神も仏も名無しさん:2013/06/26(水) 12:38:45.31 ID:WaQjITgm
>>957 「もっと生きていたい」という執着がなくなれば、生命活動の必要がなくなる。
たとえば、みんな、食べることに満足したら食べるのを止めますよね。
眠ることに満足したら眠るのをやめる。
カラオケ行って歌うのに満足したら延長せずにお会計してカラオケをやめる。
では?生きることに満足したら?
生きるのをやめる。すなわち平安なる滅び、全き涅槃。
964 :
神も仏も名無しさん:2013/06/26(水) 12:43:37.07 ID:WaQjITgm
もしと、心身が受ける一切の刺激の本質は苦痛(不満の種)である、と納得できたら、
「もうこれ以上生きる必要はないな、充分生きたな、あー生きた生きた、よく生きた、もう充分だ。」
と満足し、生きること(輪廻)から卒業できるのでしょう。
もちろん、心底満足していない(執着が残っている)人の場合は、
仮に自殺したとしても輪廻してしまうので無意味。
行為者はいない。私は存在しない。
私と思っているものは肉体(脳)の反応や思考の束・プロセス。
なのに、輪廻転生。地獄もあれば、天上界もある。
誰が輪廻転生するんでしょう?
968 :
神も仏も名無しさん:2013/06/26(水) 21:09:23.12 ID:WaQjITgm
969 :
神も仏も名無しさん:2013/06/26(水) 23:21:23.21 ID:hRMP645E
みんな馬鹿ですね。
あなた方にはテルテルさんのように実践に基づく知識を持つ人間にはいつまでたっても立ち向かえません。
実践あるのみ、です。
他人の知識の受け売りをいくら繰り返しても時間を無駄にしてしまうだけですよ。
テルテルさんのブログをよく読んで自分たちの愚行を反省しなさい。
http://teruterulog.jugem.jp/
970 :
神も仏も名無しさん:2013/06/26(水) 23:35:32.68 ID:GKNGJKM1
971 :
神も仏も名無しさん:2013/06/27(木) 00:05:23.27 ID:Ib/TlLrP
>>966 「誰か」が輪廻転生するのではなく、あるプロセスが続くだけ
そのプロセスをAさんとか「生命」と仮に呼ぶだけのこと
>>967 ありがとうございます。
難しそうですね。
>>968 ありがとうございます。
肉体の死とともに消滅するエゴです。
>>971 ありがとうございます。すっきりしました。
仏教(アーナパーナサティ)に入ってくると輪廻転生の話や、
瞑想を通じて地獄界が見え、天上界が見え、自らの前世の死の瞬間が見える
という話やno-returner、one-returnerなどの話があり、
その一方でimpermanence、unsatisfactionとともにno-selfも説かれていて、
地獄界、天上界の住人の主体や転生する主体が気になってました。
973 :
神も仏も名無しさん:2013/06/27(木) 12:24:57.27 ID:52piS9vz
テーラワーダ仏教協会の機関誌でだったか、スマナサーラ長老も書いていたが、
冥想で無我になるわけではないんですね。
もともと我はない(もともと無我)だと冥想で気付くんですね。
瞑想でどうなれば無我とわかるのですか?
>>973 単なる精神統一による集中力増加でしょうか?
我はないという結論も結局瞑想による客観的な観察で気づくんでしょう?
ということは精神が余程統一されていないと無理なのでは…
あとは、お釈迦様の教えを集中力を持って聴いて、自分で確かめるために瞑想するんでしょ?
それが前提で瞑想しているわけじゃないの?
そうじゃないとお釈迦様の教えを覚えることも実践することも適わぬわな
無我とわかると
怒ること
不安になること
悲しむことなどが
そう思わなくなる
私が怒るとき
その私が捏造なら
怒りようがない
また捏造の私が怒ろうとしていると
後天的に身に付けた考え方や、自己暗示、そこから来るある種人工的な感情みたいのを取っ払って「ただ在る」状態が無我への入り口じゃないでしょうか
意識が消える時(寝る時を考えてみる)
わたしは消失する
眼、耳、鼻、舌、身、意の六門からの信号が消失するとき
わたしは消失する
唯識論より
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、
それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。
それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。
即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。
唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは 唯識瑜伽行派とも)、
という初期大乗仏教の一派によって唱えられた認識論的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、
中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、
その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)。
プラユキ・ナラテボー比丘は二十歳過ぎるまでは瞑想によって自我を破壊するだけでは無く、
自我を構築するようにどっかの本で勧めていた…そんな記憶があります
たしかそう本に書かれていたような気がします
気のせいかなぁ?
>>982 スマ長老も文庫本で自分をしっかりさせるというのは認めてたような気がする
自我構築までいくと言い過ぎだけどw
どっちにせよ、無我を強調しすぎることで初心者に不具合が起こることへの方便かなという感じ
我というものは 滝の流れとか 川の流れに例えると分かりやすいよ
無我というのは、確固たる固定的な自分はいないということ
自分は常に変化し続けているので、心も身体も自分と呼べるような固定的なものではない
なので自分を構成している性格や価値観、観念、生じる感覚感情にもこだわらなくてすむ
それらによってもたらされる悩みや苦にも捉われなくなっていく
けれど智慧からではなく頭で自分は無我と理解してると、無我という観念に捉われるかもしれない
無我が少し実感できてきても、それにこだわったら、自分は無我だという自我を作ってしまう
自分が無我だとこだわってしまったら、そういう執着する自分を持っていることになる
無我はわかりやすく言えば無執着ということなので、
無我とか無我でないとかいうことにこだわらない、こだわる自分などいない、というのが本来
なので、無我は無我であるけれど、無我にこだわる自我を持ちそれに執着しないよう、
自我が生じるまま、無我になっていくまま、無執着であるのがいいでしょう
その通りです
987 :
神も仏も名無しさん:2013/06/28(金) 10:23:56.48 ID:0/7ZIhA7
「無」は「存在」するのか?って事ですね。
宇宙の隅々まで含めた"神の青写真"というものが存在し、
それが時間と空間の存在するこの世界に投影されている。
人間は背景幕に映った影あるいはコンピュータのようなもので自由意志はなく、
生まれたときにすでに死ぬまでの運命や行動が事細かに決まっていて、
遺伝や育った環境(それさえも"神の青写真""神のプログラム")に基づき
青写真どおりに刺激に反応しているだけ。
この世界で起こることは"神のリーラ"であり、
人間と思っている存在は自も他も実は"操り人形"にすぎない。
そこには、個に基づく善悪、成功、不成功といったものは存在せず
ただ配役になりきって寸分違わぬ芝居を行っている"操り人形"が存在するだけ。
操り人形に人形使いや脚本家の意図はわからない。
という考え方の方が好きだがね。
>>987 そうですね
仏教でいう無は、有も無も無い絶対無のことだと説明されるように、
有も無も無い、有と無を分けない、有と無を区別しない、有と無に執着しない、
そういう無でしょうね
990 :
神も仏も名無しさん:2013/06/28(金) 13:00:01.50 ID:RtFgAHJN
無我と苦が同じ意味だということを忘れたら、別の方向に行ってしまう。
>>989 有と無に執着しないなら「無」とか「絶対無」という形而上学的な言葉すら必要ないでしょ
「執着しないこと」だけで充分
なぜ無我と苦が同じなのですか?
同じだったらわざわざ「無常・苦・無我」の三相に分けて説く必要がない
あと無常だから苦、苦だから無我とはいえても苦=無我とは言えないだろう
994 :
神も仏も名無しさん:2013/06/28(金) 22:04:04.05 ID:RtFgAHJN
>>992 結局、無我も無常も苦も、執着する値打ちがないと気付いて手放す、「捨無量心」につながる。
>>993 一つの方向からの表現では誤解されやすいから、
三つの方向から説かれたのではないでしょうか。
四念処で4つの「観測点」で観察するのもそう。
995 :
神も仏も名無しさん:2013/06/28(金) 22:36:09.47 ID:RtFgAHJN
>>993 色声香味触法の刺激が入ったら、
必ずなんらかの出力をせずにはいられない、とにかく何らかの反応をしてしまう、それが「苦」です。
刺激に対して反応しただけ。反応の形にはたいした意味や価値はない。
意識に法境(心に対する刺激)が触れたら、何らかの思考を出力せずにはいられない。
法の刺激も苦だから。
意識がつくりだす思考(法)は 刺激に対して何かを吐き出さないと苦しいから、
単に吐き出されただけであり、吐き出された法には絶対的な価値はない(無我)。
たとえば「私」という概念も、刺激に反応して心から吐き出されただけの泡ぶく。
996 :
神も仏も名無しさん:2013/06/28(金) 22:43:44.49 ID:RtFgAHJN
心に何かの情報が入ったら、何か答えを吐き出さないと苦しいから、心がとりあえず応えただけ。
その答えにはたいした価値はない。
思考や感情に対してそのように冷めた目で見る、瞬間瞬間ごとにどんどん捨てる(価値なしと手放す)。
それが捨無量心。法(心に浮かんだこと)は無我(たいした値打ちがない)。
刺激に反応せざるをえない、ウズウズ(苦)。
だから心はどんどん変化する(無常)。
ウズウズの刺激を生み出すだけのウザい身体は、キラキラピカピカの宝物などではない(不浄)。
997 :
神も仏も名無しさん:2013/06/29(土) 00:20:41.37 ID:5aM2ECka
素人の説法必要あるか?
このスレに議論も説法もいらんだろ。
998 :
神も仏も名無しさん:2013/06/29(土) 00:51:09.52 ID:5aM2ECka
それより、基準になるテキストを選定してテンプレに入れた方がいいと思うが。
999 :
神も仏も名無しさん:2013/06/29(土) 01:09:21.80 ID:5aM2ECka
「捨無量心」でも「捨梵住」でもいいけど一切衆生を対象にする心だからヴィパッサナーの智慧とは関係ないんだけどな
地橋さんの本でも、ただの「捨」と「捨無量心」をごっちゃにしてて、これはどうかと思った
1001 :
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