1 :
神も仏も名無しさん:
余裕の2。
3 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 17:54:14.41 ID:r9CJ2ZYH
さみしく3トリー。だれかきてー
4 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 18:16:01.12 ID:vEkFjda4
新キリスト教議論スレとはどう違うの?
5 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 18:21:58.80 ID:4GsEqBYR
アダムの罪が子孫に伝わるのはなぜ。
先祖のしたことを子孫が引き継がなければならないのは理不尽と思う。
6 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 18:34:20.00 ID:ErU2CJiB
>>4 向こうはスエデンボルグの話題禁止
スエデンボルグの馬鹿信者猿ネヨ禁止
7 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 18:39:30.32 ID:vEkFjda4
食欲と性欲は人間の二大本能。これは神が備えたものではないか。
これを罪にしたら、あまりにも酷。人間は滅びる。
パウロの原罪論は根底から誤りだろうと思う。
8 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 18:43:54.43 ID:vEkFjda4
>>6 逆に言えば、新キリスト教議論スレはサロメの専用スレか。
9 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 18:53:06.59 ID:vEkFjda4
シモン・グノーシスは、至高神とかパンテオンだとかを、
本当に信じてるとは思えない。そうではなく、
この世の悪がどこから湧いてくるのか、ここに興味があるのだろう。
パウロの原罪論はグノーシスに近い。
10 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 18:57:40.19 ID:r9CJ2ZYH
食欲と性欲は動物にもありますねぇ。
この点に於いては、人も動物も変わりありません。
しかし、人間には、意志と理性という、二つの能力が備わっています。
これが、神の像として造られた、神の愛と英知を受ける器なのです。
動物には、この器がありません。
11 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 19:03:13.47 ID:vEkFjda4
>>10 スエデンボルグは評価するけど、まちがっている部分も相当ある。
動物にも意志と理性(理解)はあると思うよ。
人間と動物の違いは、多少でも神を理解できるかどうかにある。
胎児だろうが幼児だろうが、その可能性を持っている。
12 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 19:20:00.59 ID:vEkFjda4
あっちのスレで、グノーシス論理の欺瞞というコテの人が言っている
ことは理解できる。わたしも欺瞞としか思えない。
純粋性から → 不純粋性が生まれる? 変だよね。
この矛盾はどこからやって来るのか。一元論だからではないか。
そうではなく、神を命とし、この世を物質とする二元論なら、
神の命が純粋性を失うことも理解できる。
神が、自分を小さくして、この地上に降りてきたのじゃないか。
話が転倒しているからわからなくなる。
13 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 19:29:58.01 ID:r9CJ2ZYH
近年、類人猿の研究によって、動物にも人間のような意志と理性があると
主張している学者は、だんだん増えてきました。しかもこれが、心理学的な、
ダーウィニズムを支持する根拠だと主張する学者もいるようです。
動物にも、人間の意志や理性に似たものがあるといっても、それは古来より
学者はたちは類比といっています。類比は、類似しているというだけで、
人間のそれとはまったくちがったものということです。
つまり、動物には、人間が理解しているような抽象観念はない、と断定しています。
14 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 19:41:26.11 ID:vEkFjda4
>>13 類比? それはひとつの説でしかない。
人間であっても抽象語や観念語の苦手な人は多い。
生き物のすべてが、神の愛と英知によって生きている。
ただ、神を知る能力があるかどうかが違う。
15 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 19:53:26.97 ID:r9CJ2ZYH
>生き物のすべてが、神の愛と英知によって生きている。
れれれ、スェデンみたいなことを言ってるよ。
でうわ、生き物すべてがどのような仕組みで、神の愛と英知によって
生きているのか、説明してみなさい。
3 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2011/09/03(土) 17:54:14.41 ID:r9CJ2ZYH
さみしく3トリー。だれかきてー
馬鹿猿ネヨ大爆笑www
17 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 19:56:14.92 ID:vEkFjda4
生き物のすべてが霊界に行くとは思わない。
細菌やウィルスや下等生物は、善悪を知らないから、
思い残すこともなく、死んだらそのまま神の元に帰ると思う。
人間などより逆に、幸せかもしれない。
胎児はどうなんだろう? 神の元に帰る可能性が濃厚だね。
霊界で成長したとしても不幸そうな気がする。
神になり、そこにいるのもよし、神から再びやり直すのもよし。
18 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 19:59:36.75 ID:vEkFjda4
>>15 流入と本能ですかね。忘れたので、教えてください。
19 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 21:42:37.65 ID:vEkFjda4
至高神から次々に神々が生まれ、プレーローマを形成する。
最後に生まれたソフィアから、デミウルゴス(聖書の創造神)が生まれる。
これがグノーシスが作りあげた神話である。
20 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 21:47:54.91 ID:vEkFjda4
これでは至高神からデミウルゴスまで一直線である。
絶対善の至高神と、絶対悪のデミウルゴスが別の神とは到底言えない。
作り話を切り捨てれば、至高神はデミウルゴスのことになる。
21 :
神も仏も名無しさん:2011/09/03(土) 21:54:27.00 ID:vEkFjda4
グノーシス的な考えがキリスト教に与えた影響は大きい。
パウロは霊肉二元論のようだが、肉を否定するから結局は霊一元論である。
この一元論は、その後のヨーロッパの思想的底流になっている。
ヨーロッパはキリスト教の世界である。
そのキリスト教とグノーシスがどうして結びつくのか。
聖書の中に一元論のスキはないのか。
救われたクリスチャンは永遠の命ですから天災に恐怖する必要はないのです
聖書の冒頭、創世記1.1「初めに、神は天地を創造された。」
これを読めば、最初に神だけが存在し、その神が天地創造を開始した、
としか思えない。かりにそうなら、聖書は最初から一元論である。
ところが、次の創世記1.2が一元論を疑わせる。「地は混沌であって、
闇が深淵の表にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
神(神の霊)が創造を開始する前に、すでに「地」があり「水」がある。
神と大地が出発点なら、これは二元論ではないか。
その後に創造が開始される。創世記1.3−5「神は言われた。『光あれ。』
こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
創造の最初は「光」である。ここから創造がスタートする。
繰り返しになるが、神の前にはすでに、地と水があったことになる。
これはどう読んでも二元論ではないか。
キリスト教徒は、神が天地を創造した、という一元論を信じている。
その理由のひとつは、創世記の冒頭が記憶に鮮明に残っているからだろう。
もうひとつの理由は、ヨハネ福音書冒頭の影響だろうか。
1.1「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
1.3「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは
何一つなかった。
このふたつが、キリスト教一元論の主たる震源地である。
旧約一元論は誤読だから、新約一元論の由来は外国起源なのだろう。
ヨーロッパにおける一元論には、グノーシス的なキリスト教だけでなく、
プラトンなどのギリシャ古典哲学の影響もあると思う。
一元論なのか、二元論なのか。プラトンをどう評価するかは難しい。
洞窟の比喩(人間は背後からの光で作られた影絵を見ているだけ)は、
真実を知ることなく、真実を生きられない人間の姿を描く。
話の内容は、現実とイデアという二元論なのだろう。
だが、イデアを憧れるという意味では、一元論へと向かう可能性がある。
いずれにしろ、どちらとも取れるような微妙さがある。
28 :
神も仏も名無しさん:2011/09/04(日) 15:04:54.68 ID:9NhQfZSK
パウロもプラトンを学んだはず。
かれの話は、霊肉二元論のようだが、結局は霊の一元論へと向かっていく。
この話し方が、プラトンの話し方とよく似ている。
キリスト教と、プラトンなどのギリシャ古典哲学は、
一元論的である点で親和性があり、相互に依存しながらヨーロッパに
定着したのかもしれない。少なくても対立するものではない。
29 :
神も仏も名無しさん:2011/09/04(日) 20:01:53.41 ID:NvpjiTEi
>パウロもプラトンを学んだはず。
根拠なし
一元論、二元論の意味が理解できてない。
レス乞食の妄想押し売りネヨ猿は干上がるまで徹底放置しましょう。
452 名前:神も仏も名無しさん [] 投稿日:2011/09/04(日) 19:04:54.03 ID:NvpjiTEi [9/10]
今日は不漁だな こんだけ餌蒔いたのにね^^
31 :
神も仏も名無しさん:2011/09/04(日) 20:17:52.23 ID:sHleVBFE
>>29 調べたけど曖昧ではっきりしない。簡単に定義できる?
>>30 リンゴのコピペ荒らしと似てるね。自分の言葉で話せばいいのに。
32 :
神も仏も名無しさん:2011/09/04(日) 22:25:21.45 ID:NvpjiTEi
>>31 キリスト教は、その本質では一元論であり、その本質から派生したもの
では、二元論なのですよ。
すなわち、唯一・無比の神が存在し、その神によって万物が生じたことに
おいては、一元論といえるが、その万物は相反した存在により、存在して
いるということなのだ。
例をあげれば、「善と悪」「真理と虚偽」「天界と地獄」「光と闇」「信仰と不信」、
つまり「作用と反作用」を起こす二元的なものから、物事は安定した存在となっているのだよ。
33 :
神も仏も名無しさん:2011/09/04(日) 23:06:25.84 ID:NvpjiTEi
グノーシスは、作用だけを認めて反作用は認めないう偏狭な理論から
できています。
34 :
神も仏も名無しさん:2011/09/04(日) 23:10:19.32 ID:NvpjiTEi
グノーシスは、作用だけを認めて、反作用を否定するという矛盾した理論から
成立しています。
35 :
神も仏も名無しさん:2011/09/04(日) 23:31:39.51 ID:sHleVBFE
>>32-33 国語辞典では次のようになっていた。
一元論・・・世界や宇宙のすべてのことを一つの原理で説明しようとする考え方
二元論・・・対立しあう二つの根本原理を立てて、それによってことがらを
説明しようとする方法。物質と精神の二元論など。
36 :
神も仏も名無しさん:2011/09/05(月) 10:15:31.31 ID:wO+gtN4u
age
37 :
神も仏も名無しさん:2011/09/05(月) 19:40:31.56 ID:0VV5fY6T
グノーシスは至高神という一元論であり、
キリスト教はイエス・キリストという一元論ですね。
結局は似たもの同士か(^^)
グノーシスは、神話としてはおもしろい。
しかしこの話を信じられるかと言えばそうはならない。
いくつかの致命的な欠陥がある。
グノーシスに対する疑問
@ 至高神を見たものはいるか。→ 作り話だろう?
A 至高神には妻がいて子供を産む。→ 最初から多神教ではないのか?
子供も妻を持ち、さらに子供を産む。最後の神であるソフィアから
悪の権化であるデミウルゴス(創造神ヤハウェ)が産まれる。
B 結局、至高神プロパトールから創造神ヤハウェまで一直線である。
中間を消去すれば、至高神イコール創造神ヤハウェではないのか?
40 :
神も仏も名無しさん:2011/09/06(火) 00:40:41.21 ID:zpThSEjy
少し考えれば変だなと思う。それなのになぜ大流行したのか。
知識人のただの暇つぶしではないかもしれない。
それはたぶん、キリスト教を信じる側の、ユダヤ神・ユダヤ教拒否であり、
旧約を排除しようという運動だったのではないだろうか。
ユダヤ人以外なら、ユダヤの神を拝みたいとは思わない。
何らかの事情でイエスを信じたユダヤ人も、同じだったのではないだろうか。
キリスト教の内部でけっこうなせめぎあいがあったと想像する。
41 :
Johannes:2011/09/06(火) 11:52:05.15 ID:8rCvI1L7
(参考資料:引用)
流出説は、ネオプラトニズムのプロティノスが唱えた神秘思想。
万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。
一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。
あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。
光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。
完全なる一者(ト・ヘン)から段階を経て世界が流出して生み出されたとする思想。
高次で純粋な世界より、低次で物質的な混濁に満ちた世界へと流出は進み、最終的にこの世界が形成されたとする。
この流出過程を逆に辿ることができれば、純粋で精神的な高次世界へと帰還して行けるとプロティノスは考えた。
>>41 ヨハンネスは実践の行法追及する段階だと思う
43 :
神も仏も名無しさん:2011/09/06(火) 18:24:40.74 ID:3cCTI9E7
グノーシスは、この世界を創造神デミウルゴスの失敗作だと考える。
ネオプラトニズムは、創造神デミウルゴスを無視、
代わりに一者ト・ヘンを仮定し、悪の説明原理として太陽の比ゆを使う。
両者の共通点は、旧約の創造神を否定するところか。
新キリスト教議論スレ、シモン・グノーシス氏の、
トマス福音書にある「聖婚」に関する話は貴重だと思うので勝手に引用したい。
こういう話がグノーシスの魅力である。
440 :シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
プネウマとプシューケーの関係は救いの本質と係わるから難しいんだよ。
だが、おそらく以下のことは正しいか、かなり肉薄している。
トマス福音書の中では、人間の裡にある二つのものが一つとなる時、
完全なる人間となる、と教えられる。
この完全なる人間とはアンドロギュノス(男女、両性具有)すなわち、
人間の裡にある男性原理と女性原理の統合を意味する。
俺の研究では、女性原理がプシューケー(魂)を指すことはほぼ間違いない。
プシューケーと言う言葉自体ギリシア語の女性格だからな。
他方の男性原理はおそらく人間の本性であり一者の欠片であるプネウマ(霊)だろう。
グノーシス神話において女性の神格は常に救われる者(救済される救済者)として象徴される。
これはプネウマがプシューケーと聖婚(ヒエロスガモス)により、救済される可能性があることを
強く示唆している。
しかもその働きにはプシューケーが救済される救済者として働く。
プシューケーはデーミウルゴス(造物主)の被造物だが、救済者オピス(蛇)により
理知の光を開眼され(知識の実を食べたという故事)、人間のグノーシス求道の道を開いている。
三分割で申し訳ないが、
>>44-46がシモン氏の書き込みである。
この内容は簡単ではない。一読して理解できる人はまずいないだろう。
中村元氏もそうだが、よく理解し、よく記憶しているなと、
こういう研究している人々を心から尊敬してしまう。
体験がないと何の興味も抱かない。→ 普通はこのレベルではないか。
神秘体験があっても、言葉で表現することがものすごく難しい。
自分でも神秘体験の意味が十分にわからないのだ。
文化勲章をもらった中村元氏に嫌味を言っているのではない。
神も知らないで、よく神のことを語れますね、という素朴な疑問だろうか。
わたしはだめだったね。神を知る前はガチガチの唯物論者。
神を知って始めて、神に関係する本がスラスラ読めるようになった。
聖書もスエデンボルグもその中に入る。
話を戻せば、グノーシスの聖婚はふたつの体験が混然一体になっている。
だからよくわからない話になっている。わざとそうしているのか、
思弁にすぎないからそうなっているのかはわからない。
ふたつの体験とはもちろん聖霊体験と霊魂体験。
このふたつは別物である。体験する年月日も違うし、体験内容も違う。
それを一緒にしたら、真実そうだが理解不能になる。
それはこういうことだよ、というのが奥義なのかもしれない。
わざとわからなくしている可能性が高い。
50 :
Johannes:2011/09/06(火) 20:41:45.47 ID:8rCvI1L7
>>42 俺の心の中にはいつも聖母マリア様がいる。
美しくキラキラとしたお姿が見えている。
だから夜空を見上げればそこにマリア様が見える。
青空を見上げればそこにマリア様が見える。
イエズス・キリストはまことに神である。
これは信仰ではない。事実だ。
無理に信じろとは言わないが。
>>45-46 を読み、「あっこれは立川真言流か」と思った人もいるだろう。
そういう危なさがトマス福音書の中にある。
そんな印象を受けるのは、聖婚とか新婦の部屋とか聞くからである。
聖霊体験から言えば、完全な間違いではなく、そう解釈できる余地がある。
聖霊は雫として出現する。頭の中、斜め45度上方から落ちてくる。
一瞬の出来事。だから人間は、斜め上方にいる神に祈る。
そんなことがあるのですね。
52 :
神も仏も名無しさん:2011/09/06(火) 21:00:15.89 ID:3cCTI9E7
ヨハネスが見たマリアの姿を描写してみてよ。
いくつぐらいだったの、肌や髪の色は何色だったの。服装は?
背丈はどのくらい? 笑ってたの怒ってたの。
何回くらい見たの? 見たように思った、そう感じたはなしね。
53 :
Johannes:2011/09/06(火) 22:30:16.31 ID:8rCvI1L7
>>52 そんなことに興味を持ってもしょうがないようにも思えるが。
とにかく勘違いしないで欲しいのは、実際に人形が立っているように見えるわけではない。
その時によって姿は同じではない。はっきりしている時もあればぼんやりしていることもある。
突然の思い浮かぶ時ははっきりしているが、自分から見ようと思う時ははっきりしない。
光でなのだ。全てが。七色の煌めく光の時もあるしカメオブローチの様な白い光の時もある。
さっきは七色(沢山の色という意味)の光ではっきり見えた。今はよく見えない。
無理に思い浮かべようとする遠くなる。突然思い浮かぶ時はこの世のものではない美しい光の女性だ。
それは実体として物があるように見えるのではない。まず心の中に見える。
その姿が外の世界に投影されて、そう見えると感じるのだ。その点くれぐれも誤解するな。
多分誰にでも見えると思うが、その人の心の中にマリア様がいなければ見えないだろう。
無理に信じろとは言わない。
他人の体験を否定するつもりはない。
その光から何を感じる? それとも何も感じないのだろうか。
マタイ伝17章に、イエスの変容を見て驚く弟子たちの話がある。
ファティマの幻はこの話に似ているね。
聖霊体験の場合は、それが神であるということが即座にわかる。
一瞬にして神を認め、神に膝を屈する。
それまで神を否定していたのに、180度転回が瞬間的に生じる。
こういった体験だから、聖霊体験は繰り返して体験するわけにいかない。
生涯に一度だけなのだろうと思う。
背筋に戦慄が走り、頭は冴えに冴え、その状態が3週間も続いた。
こういった体験からすれば、ペンテコステの異言は聖霊体験ではなく、
パウロの目から鱗が落ちる話は聖霊体験だろうと思う。
56 :
グノーシスの導師シモン ◆/bVPRrlaFM :2011/09/07(水) 00:35:25.26 ID:0r+Ofs8V
>>39 @ 至高神を見たものはいるか。→ 作り話だろう?
存在証明が無理なら不存在証明もできないだろ。作り話であるという証明も不可能。よって無意味。
グノーシス神話においては、流出の最初に生じたモノゲネースだけが「父」を観照できるとされる。
イエス・キリストの受肉前の存在が、このモノゲネースかどうかは諸説ある。
A 至高神には妻がいて子供を産む。→ 最初から多神教ではないのか?
子供も妻を持ち、さらに子供を産む。最後の神であるソフィアから
悪の権化であるデミウルゴス(創造神ヤハウェ)が産まれる。
ご存じの通り、グノーシスにおける創造論は「対」を奥義とする。
グノーシス創造論に登場する多くの神格は全てギリシャ語の一般名詞だが、(アレーテイア=真理、アントローポス=人間、エクレーシア=教会、etc)
ギリシア語の個々の単語に男性格、女性格があり、神格は全てこの二つを「対」として成り立っている。
しかしそれを、夫妻の関係と捉えるのがそもそもの間違いで、「対」で一つの神格、すなわちアンドロギュノス(両性具有)の神と考えなければならない。
グノーシスが目指す「完全なる人間」も、これら神格が示すような「対」の回復により達成される統合された人間、アンドロギュノスとされる。
B 結局、至高神プロパトールから創造神ヤハウェまで一直線である。
中間を消去すれば、至高神イコール創造神ヤハウェではないのか?
永遠界の神格は一者(=至高の父)より生じた父の本質の一部だが、デーミウルゴスが零落したソフィアーが
自力のみで生み出した異形の存在。デーミウルゴスは最初から「対」の関係には、生まれながらにして不完全な存在だった。
デーミウルゴスによる感覚界=物質世界の造形は、永遠界(イデアー、形相界)を「模して」創られた存在だが、
ネオプラトニズムやヘルメス思想が唱道するような「上なるものと下なるものの相応関係」は最初からなく、完全に分離された世界となっている。
57 :
グノーシスの導師シモン ◆/bVPRrlaFM :2011/09/07(水) 00:37:54.49 ID:0r+Ofs8V
デーミウルゴスは最初から「対」の関係には、
⇒
デーミウルゴスは最初から「対」の関係には無く、
>>56 今日は遅いのでオチ。ゆっくり考えてみたい。
キリスト教では場合によっては人殺しは罪にならないのですか?
男性原理と女性原理の対で完全形というのは
人類にとって、少なくとも印欧語族にとっては、かなり普遍的な思考形態なんだろうな。
例えばヒンドゥー教でもひとつの宇宙原理がブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァという三神になって現れ、
さらにそれら(特にヴィシュヌ)が化身して…という神話形態になってるが、
その三神は常にと言っていいほど后を伴った形で表象されて完全と見なされるようだ。
ヨハネス氏の言うイエス-マリアや、グノーシス神話などにおいても通底するものがあるんだろう。
これを単に男女・夫婦の神話的投影と観るか、より抽象的な相補的原理と観るか、
さらには神的実体を反映したものと観るかは人によって違ってくると思うが。
逆に父性が過度に強調されているきらいのあるユダヤ教のほうが特殊な思考形態なのかもしれない。
>>56 @に関する、シモン氏の回答への感想
言葉で神の存在証明をすることはできない。神を体験する以外にない。
神の存在は聖霊体験によって事実になる。ただし個人的な体験にとどまる。
聖霊体験をしたとしても、それが聖書の創造神であるとは限らない。
ただ、聖霊を教える書物は聖書しか存在しない。そのため、自然に聖書に
向かったが、それが創造神なのか至高神なのかはわからない。
聖霊体験は神を観照するのではない。聖霊体験=神の訪れとは、
神が自分の中に入ってくることであり、神を味わう=食べることだろうか。
聖婚に関するテーマの中で書こうと思っていたのだが、
霊魂体験をした時、触覚、視覚、聴覚はあるのだが、味覚と嗅覚がない。
なぜだろうと不思議に思っていたが、味覚は聖霊体験で体験しており、
嗅覚はまったく匂いのない清浄な神界では不要なのだろう。
これらを考慮すれば、霊魂には五感が備わっている。
Aに関する、シモン氏の回答への感想
ギリシャ語が、男性、女性、中世を区別する言葉だとは知らなかった。
何らかの根拠があって区別しているのだろうと思う。
それならば霊魂体験がなくても、聖霊体験だけで「聖婚」の話を語ることが
可能かもしれない。頭の中、心の中に落ちてくる神の雫を、
心が女性格であることによって推理すれば、結婚の比ゆが成立すると思う。
英語は区別しないのに、性別を区別する言葉ですか。不思議ですね。
ただ、言葉に性別を区別しない日本人は、何のことやら、
真理の領域に言葉遊びを持ち込んでいるような印象さえ受ける。
しかし霊魂体験をすればすっきりする。
霊魂は、形ある命であり、完璧な球体であり、いわゆる「タマ」である。
男でもなく、女でもなく、両性具有の状態にある。
それが基本だから、肉体のレベルにおける男とか女とかは、
霊魂の半分でしかなく、霊魂の完全性を表現していないことになる。
その不完全性が、人間を根源的にイラつかせている。
Bに関する、シモン氏の回答への感想
旧約には、創造神と物質世界という二元性がある。
これが創造神デミウルゴスの完全性を示すのではないかと想像する。
創造神が男性格、物質世界が女性格
66 :
神も仏も名無しさん:2011/09/07(水) 21:03:30.14 ID:MaedDzuL
グノーシスに関しては、筒井賢治著『グノーシス』を読んだだけで詳しくない。
しかし作者の熱い思いに波長があい、引き込まれて読ませてもらった。
もともと聖霊体験の意味を知りたくて聖書を読め始めた。
聖霊に関する教えなどが充実しているなら、グノーシスでもかまわない。
そういう意味でナグ・ハマディの研究には期待している。
プネウマは肉体の牢獄に囚われているか。
これについては仏教の唯識、マナ識とアラヤ識の関係が参考になる。
マナ識はアラヤ識を自分だと思い、アラヤ識に執着している。
この執着が原因になってアラヤ識の転生が生じる。
アラヤ識とは霊魂をびっしり覆っている無意識の自分自身である。
ということは、霊魂は自分が産み出したアラヤ識に囚われているのであり、
身動きができなくなっている。だれのせいでもない。
霊魂がアラヤ識から自由になるには、アラヤ識を脱ぎ捨てればいい。
マナ識がアラヤ識に執着しなければいい。
しかしマナ識もアラヤ識も無意識の世界にある。
無意識を左右することは不可能に近い。だから霊魂だけになれない。
かりにできたら脱魂し、霊魂体験をすることになる。
無意識を左右する力は、夢を左右する力とイコールである。
これを可能にするのが聖霊体験ではないかと思う。
それ、単なる明晰夢じゃね?聖霊体験やら阿頼耶識とは全然違うよね
聖霊は覚醒中に目を開いたまま体験する。
次は霊魂体験だが、これを体験するには夢を左右する力がいる。
夢の中で善悪を判断できなければならない。
魔境だろうが明晰夢だろうが夜見る夢だろうが同じ。
よい判断ができればよい夢を見る。そんな力がどこで手に入るかと言えば、
その王道は聖霊体験だろうと思う。
道元は坐禅の心得として心身脱落を説くが、
実際に必要なのはマナ識がアラヤ識を見捨てられるかどうか。
完全に心身を脱ぎ捨てると、完全に死んでしまうと思う。
アラヤ識は見捨てても、マナ識以下を地上に残して置く必要がある。
というか、座禅中の脱魂は自然にそういった形になる。
脱魂した霊魂が再び戻ってくる依代みたいなものか。
72 :
神も仏も名無しさん:2011/09/09(金) 01:10:12.63 ID:q0htsAtU
73 :
神も仏も名無しさん:2011/09/09(金) 19:30:11.76 ID:nBQtX5MR
>>72 シャーマン・キーシャという女性は初めて聞いた。
いくつか見たが、話の内容には自分と非常に近いものを感じる。
ただ、宇宙生命体の話はよくわからない。
ファティマの幻もそうだが、見たことがないので何とも言えない。
さらにいくつか見たが、主張しているだけのように感じた。
主張だけなら、似たようななことを主張している人たちが昔からいる。
だれかに洗脳され、そう思い、そう考えるようになったのでは、
過去に現れては消えていった愛の伝道者と五十歩百歩かもしれない。
一番聞きたいのは、そう考えるようになった彼女の体験ではないだろうか。
それさえわかれば、運がよければ、彼女の話をいちいち聞かなくても、
同じような体験をし、同じように考えることができるわけである。
彼女は自分の体験を語ったのだろうか。彼女の話の根拠なのに、
それを語ろうとしないなら、何かしらの裏があると疑われても仕方ない。
新興宗教の計画に利用されている可能性もある。
素性がはっきりするまで、飛びつかない方が賢明だろうと思う。
つまり我々は霊格が低いので、燐光を放ちながら脈動する生物の内臓を
思わせる紫色の壁があっても、普通のブロック塀に見えてしまうと
いうことですね
(アストラル界ってあのゲームのイメージでいいんだろーか?)
シャーマン・キーシャは、いったい何を体験をしたから、いまのような
愛の伝道者になったのか。彼女はその体験をけっして語らない。
UFOのような知的生命体と接触。2012年、ポールシフトを予想する。
地球上に12人の叡智継続者がおり、彼女はそのうちの1人らしい。
疑われだしたアメリカを去り、今はヨーロッパで高い講演料を稼ぎ回る。
残された時間は1年半、この間に一生のお金を稼ぐつもりか。
知れば知るほど ??? になりつつある。
78 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 00:08:08.52 ID:aYli5Vj7
もしかすると彼女は神智学に関係した人なのか。そうだとしたら嫌いだな。
神智学は、日本人やユダヤ人やアメリカ・インディアン、アボリジニなどを
アトランティス大陸の生き残りと見なしている。
メンタル体を目指すアーリア人種より下等の、滅び行くアストラル体人種だと
思っている。神智学は人種差別主義者の妄想に過ぎない。
日本人でありながら、神智学など信じていたら狂気の沙汰である。
79 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 02:25:16.23 ID:yjEZiHrM
質問です。
聖書が正しいという根拠って何ですか?
80 :
Johannes:2011/09/10(土) 10:53:26.80 ID:KDAo7DCI
>>79 正しいと言い切れる根拠は皆無です。
クリスチャンという人達は神を信じる以前に聖書を信じている事実に気付いていません。
だから、あなたの質問に答えられるクリスチャンはいません。
もし、あなたの質問に答えるクリスチャンがいたとしても必ず「循環論法の虚偽」と「権威による論証」を使います。
【神故に聖書・聖書故に神・・従って聖書には権威がある。故に聖書は正しい。】
断言します。この論証形式は論理学によって完全に退けられます。つまり間違いです。
>>79 聖書の奴隷になるのではなく、聖書を使う主人になればいいと思う。
学ぶべきことは学び、わからないことはスルー
シャーマン・キーシャは、毎度毎度ありがとうの詐欺師なのか。
UFOのような知的生命体と接触 → UFO研究家アダムスキーのコピー?
2012年、ポールシフトを予想 → アメリカ・ホピ族の予言を悪用?
地球上に12人の叡智継続者 → 最低2人以上、詐欺グループの仲間たち?
2012年、ポールシフト(極移動)が起こるという彼女の予想に、
ホピ族が抗議、彼女とは無縁であり、無関係であると宣言する。
彼女は、父がデンマーク人、母がアメリカ・インディアンの混血だと言う。
愛に関する話はともかく、具体的な話の中にウソが見え隠れしている。
ブラバッキーの神智学、シュタイナーの人智学
もともと種々の知識のツギハギ、パッチワークのようなものでしかない。
人種差別を正当化するような主義主張は真っ赤なインチキである。
かれらは欧米人の心に、日本人やユダヤ人などへの敵意を産み、育てる。
米国による日本への原爆投下に、神智学や人智学の影響がまったくなかった
とは言い切れない。かれらは、日本人は絶滅すべき人種だと考えている。
84 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 14:19:37.88 ID:k3v1h1sj
シュタイナー教育は、アジア・アフリカを避け、欧米のみで展開されている。
幸いなことだ。日本でこんなものが流行したら迷惑この上もない。
神智学や人智学やシュタイナー教育は、科学という中立性を隠れ蓑に、
白人優位の人種差別を刷り込もうと企んでいる。白い服を着て黒人を脅した
KKKのようなものである。子供染みている。しかし油断はできない。
こんなものを有り難がっている日本人は、日本人のふりをした敵でしかない。
というか、かれらは日本人ではなく、きっと在日か何かなのだろう。
85 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 15:01:28.90 ID:4lagNjTD
クリスチャンには色黒が多い
86 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 22:14:31.74 ID:I8rOpQOk
新キリスト教スレから。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1314268643/ 987 :サロメ 宝石騎士団 KoS ◆wHb3.gs/E2 :2011/09/10(土) 21:35:14.55 ID:FdnSpcE7
>>986 詩篇やパウロ書簡よく読めキチガイw
あとパウロ書簡とヨハネ文書群は神学共通だから パウロ否定するならヨハネ福音書も否定しろよwww
パウロは、罪の赦しは十字架の死によって与えられ、イエスの復活によって
与えられるという宣教をしていました。
それにたいし、マルコは、生前のイエスが罪を赦す権威をもっておられたと
言い、イエスが「神の子」「メシア」であったからそういった権威を生前に
もっていたという主張です。
「福音」の考えについても、パウロは自分独自の考え方しかしていません。
87 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 22:18:01.72 ID:I8rOpQOk
995 :サロメ 宝石騎士団 KoS ◆wHb3.gs/E2 :2011/09/10(土) 21:57:50.54 ID:FdnSpcE7
>>989 >マルコは、パウロがイエスの教えにない教義をつくっているのに、いぶかっていました
詐欺師の捏造です^^
マルコはパウロと面識があり パウロから厳しく訓練されているのでまったくありえません^^
>>86は、
>あとパウロ書簡とヨハネ文書群は神学共通だから パウロ否定するならヨハネ福音書も否定しろよwww
対するものです。
あと、サロメは自爆したみたいですね^^(爆
>>86 >、イエスが「神の子」「メシア」であったからそういった権威を生前に
>もっていたという主張です。
あったりまえだろうがw
パウロが活躍したのは主が天に戻られてからだろ?ww
主がこの地上にいなくても 信仰によって信じるものが義とされさ浮く割れると主張したのがパウロw
マルコの福音書は 十字架以前から主が御子なる神であり 直接罪を赦し 死者を蘇らせ 病人を癒す権威をお示しになり
主ご自身が預言された救い主であることを証された
どこもバッティングしてないぞ?ww
スエデンボルグはデタラメ主張して聖書まで改竄したがなwww
順番に説明すると
マタイはユダヤ人向け
マルコはヘレニストなどギリシャ化したユダヤ人向け
ルカになって始めて異邦人をも意識した福音書の編纂がされる
で福音書は救い主 御子なる神であるイエズスご自身の証しが第一の目的
聖パウロの残した書簡は直接異邦人をも含めた伝道がだいいちであり イエズスの福音の解説が主目的
目的が違うから表現の仕方や力点の置き方が違うだけですねw
ネヨは自分の実力で聖書を理解できず改竄スエデンの受け売りだから混乱するんです
90 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 23:33:21.02 ID:I8rOpQOk
「『パウロの使徒書簡』が内的意義をもたないということは他生では知られている。
しかし彼の書簡は、〔キリスト〕「教会」に属する人びとが、内的意義が内在する主の聖言に悪いことをしないようにと、
「教会」内に存在することを許されている。もし人が邪悪な生活を送りながらも聖なる「言(ことば)」を信じるなら、
その人は天界に悪をはたらくからである。それゆえ「パウロの書簡」は許されているが、パウロ〔自身〕には、
主の〔語った〕たとえ話や主の〔教えた〕教理の一つでも取りあげて、これを説明したり明らかにすることが許されなかったのである。
パウロはすべてのものを〔主からでなく〕自分自身から取りあげたのである。「教会」はたしかに主の聖言を説明してはいるが、
「パウロの書簡」によってそうしているにすぎない。このためにまた「教会」は、
いたるところで仁慈の善から逸脱して信仰の緒真理を受容している。
けれどもこの信仰の緒真理〔そのもの〕は〔元来〕主が教えたものであり、
しかも仁慈の善がすべてとなるような仕方で教えたものなのだ。(4824)」
(『霊界日記』スウェーデンボルグ/高橋和夫訳編、角川文庫)
91 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 23:35:40.31 ID:I8rOpQOk
>>90 スエデンボルグは聖書を平気で改竄する詐欺師なので
こいつの言い分には何の説得力もありません
パウロ書簡はヨハネ文書群と同じ神学に立脚しています
たとえばパウロ書簡とヨハネ文書にのみに現れる 真理 という単語の扱い方などがその証拠です
スエデン詐欺師は好んでヨハネ文書ばかり引用してるんですから 大笑いですねwww
93 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 23:42:58.63 ID:I8rOpQOk
>>92 パウロ的な教えは主イエスの教えにはありません。
パウロはすべてのものを〔主からでなく〕自分自身から取りあげたのである。
>>93 ヨハネの福音書も否定してみろキチガイww
95 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 23:47:57.50 ID:I8rOpQOk
>>94 ヨハネの福音書は、イエスの語られたことだから否定できません。
パウロ教は、イエスの教えではないのよ。
>>95 神学は共通ですよ?w
新約で合計109回出てくる【真理】というギリシャ語がヨハネ文書群とパウロ書簡にのみ
集中してるんだからwww
97 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 23:55:15.01 ID:I8rOpQOk
>>96 真理と言っても意味理解してないじゃん^^
パウロ教は自作自演
>>97 ギリシャ語の【真理】に 英知だとか仁愛なんて意味は皆無です
スエデンボルグは聖書を解散してそう解釈する詐欺師です
なんだかID:I8rOpQOkは恐ろしいまでのバカだね。
>>99 単語の単数形 複数形も知らない人間がID:I8rOpQOkです