・霊的世界を認めない、あるいは誤解している
悪魔は、苦しい地獄界しかわからない。よって、あの世の世界は話したがらない。
語ったとしても特に天上界の高次元世界についての確かな知識は持っていない。
すなわち、あの世を否定したり、めちゃくちゃな霊知識を言うのは邪教の証拠である。
・縁起の理法(因果関係)に則(のっと)っていない
縁起の理法とは大宇宙の法則そのものだ。ゆえに、原因・結果の整合性はなく、
論理的整合性のない教えは危険である。特に悪しき【因縁】を切るような縁起の理法に反する
ことを勧める教えは邪教に他ならない。
・不幸の原因を先祖や他人、環境に求める(自己責任の法則を否定)
真なる宗教は反省を説く。縁起の法(因果関係)から導かれる自己責任の原則を取り除き
不幸は全て自分以外のせいにするような、甘いえさで釣る教えが邪教の本質なのである。
・悟り=霊能力とする
悟りとは欲望から開放された境地を言う。霊的能力は悟りのきっかけに過ぎない。よって
霊的能力獲得のためのための苦行を行ったり、霊現象ばかり追求するのは正しい教えではない。
悪霊の憑依によって、霊的能力が生じているケースも多い。
・他の書籍を読ませないようにする宗教、知識学を否定する宗教
自分たちの悪いところがわかってしまうため、他の本を読ませないようにしたりしている宗教は
邪教に他ならない。真なる宗教は教学を重視するものである。霊能力系邪教や洗脳型邪教に多い。
他宗教はすべて間違いとする排他的教団
【【【教団の利益を守るための他宗批判や、感情的な他宗批判の姿勢は邪教団の特徴である。】】】
正しい宗教は、正しい論理で相手の非を正す。仏教でありながら、正語戒に反した罵詈雑言(ばりぞうごん)
や、折伏一辺倒の阿修羅(闘争的)伝道を行う教団は、邪教の最たるものである。
ここのアンチもしっかり当てはまるので要注意!
・恐怖心をあおり、騙し、脅しの勧誘活動(邪妙説法)
希望や愛を含んだ活動こそ、真なる宗教のあり方である。ゆえに、家族の因縁、先祖や水子の霊障、
方角、屋敷の凶相などで恐怖心をあおり、それにつけ込み多額の寄付金を強要する活動は邪教そのものである。
・反省や努力、修行を否定
真なる宗教は、反省や努力、修行を説く。反省や努力、修行を否定する宗教は邪教である
(悉皆「しっかい」成仏思想「修行しなくても仏になれる」の流れを持つ最澄「さいちょう」の天台宗、白光真宏会は邪教)
・教祖に奇行がある
邪教であるワールドメイトの教祖、深見東州にある「やきそばを意味不明にドカ食い(悪霊憑依で起こる霊現象)」
などの奇行、意味不明に信者に怒り出す教祖(悪霊現象でそうなる場合が多い)、
座禅を組んだままぴょんぴょん跳ねる(動物霊「悪霊」に憑依されて起こる霊現象)
セクハラをする教祖(教祖として万死に値する行為)、無理難題を押し付ける教祖、
こういうところの宗教団体は邪教と見てよい。
ただし、人のうわさの中にはウソ偽りで教祖、教団を誹謗中傷する場合(幸福の科学がこれに当たる)があるので
上記の8つの条件をクリアした後で、最後の条件をクリアしているか教祖を自分の目で確認するとよい。
2ちゃんねる幸福の科学スレの悪評はほぼ全部ウソであることに注意!!!!
※幸福の科学では、これらのグッズは恐怖や不安をあおってモノを購入させる行為、強制購入させる行為、
布施の強要は邪妙説法と言って幸福の科学では堅く禁止されている。
全て、【信者自らが自分の意思で購入しているものだ。】また、幸福の科学では【活動の強要は一切ない。】
強制購入、活動の義務は一切ないのが幸福の科学の特徴である。 ご安心を。
また、入退会は原則自由であり、やめたい人はいつでも退会できる。
教祖大川隆法氏の講演は必ず人があふれるほど満席になるし、支部でも人が混雑する。
拝聴料はさすがに有料である。3つの冊子月刊誌、ヘルメス・エンゼルス、ヤングブッタは
支部に行けば誰でもタダで手に入れることができる。
ヘルメス・エンゼルスは子供向けだがバカにはできない代物だ。
これが3つの冊子の中で一番優れているのである。
大人顔負けのすばらしいことが書かれまくっている。
子供の教育には超超最適である。
かといって他の冊子派大したことではないかといえばそうではない。これもかなりタメになることが
書かれているのである。支部に行ったら絶対3つの冊子は手に入れよう!!!!
かなりお得だぞ!!!!
【子供にとって大切なこと】は特に子供向けの教育には最適。
これも、子供向けだからと言って甘く見ていると痛い目にあうゾ。
大人でさえ、耳に痛いことが書かれまくっているし、かなり勉強させられまくるぞ!!
苦しいことや困ったことがあればどうすればいいのかな?(ヘルメス・エンゼルズ2008年NO143)
一番目に、「悪魔は、正直でうそをつかない人を嫌う。」とお話したね。二番目に、「悪魔は、
勤勉な人、こつこつと努力する人を嫌う。」とお話したよね。
では、悪魔が嫌う人の3番目はどういう人かというと、明るく積極的な考えをする人、どんな苦難や
困難の中にあっても、自分のできることを見つけ出そうとする人だ。そういう心の傾向性を持ってる人、
常にそういう考え方をする人を、悪魔は嫌うんだ。
悪魔は、暗くて、じめじめした人が好きなんだ。悲観的で、「自分はダメなんだ。
自分の未来は真っ暗で、自分にはもう可能性がないんだ。」とぐちを言う人、そういう人と
仲間になりたいと思っているんだよ。雨の日や嵐の日、風の吹く日も、晴れの日と同じような
心を持って生きようとしている人は、悪魔にとって苦手な人なんだ。
雨が降れば、それを言い訳にしてサボりたくなる人。あるいは、自分にとって都合の悪いことや
逆風になること、勉強や仕事のやる気をなくさせるようなことが目の前に現れたら、
「待ってました。」とばかりに、すぐに、それを人生を暗くする材料に使う人。こういう人が、
悪魔にとっては仲間にしやすい手ごろな人なんだね。
ところが、【どんなに苦しくても、その中から可能性を見つけ出して、明るく積極的に生きていこうと
している人は、悪魔にとっては非常に付き合いにくい人なんだ。】
たとえば、「お金がない。」と言う場合を考えてみよう。
そのとき、「お金がないために、自分は不幸なんだ。」と考えたなら、不幸の内容は
いくらでも作ることはできる。
「お金がないためにおいしいものが食べられない。」「お金がないために遊べない。」
「お金がないために、よい学校や塾に行けない。」「お金がないために結婚相手に恵まれない。」
「お金がないために車が手に入らない。」「お金がないために、よい家に住めない。」など、
いくらでもでてくるね。
「お金がないために、できないことがある。」というのは、そのとおりだろう。どんな人も
お金を無限に持っているわけではないからね。お金というものはよい仕事をして、人に認められたら
それにつりあった分が入ってくるものなんだ。
「お金がないために、自分は不幸なんだ。」と考える人は、「お金がないのだから、自分が不幸なのは、
仕方がないんだ。当然なんだ。」と考えてるわけだ。要するに、貧乏であることを恨んでいるんだね。
また、人間関係でうまくいかない。」と言う場合もあるね。
たとえば、「友達ができない。」「親が自分に対してつらく当たる。」「先生からひどい扱いを
受ける。」「会社の上司が自分をいじめる。」「会社の友人たちが自分を仲間はずれにする。」
「会社の後輩が自分をバカにする。」などということがある。
そのように、「人間関係でうまくいかない。」ということで、人生を恨んだり呪ったりすることだって
できるだろう。あるいは、「夫婦の仲が悪い。」と言う場合に、「夫のせいでじぶんはうまくいかない。」
「妻のせいで自分はうまくいかない。」と言う言い方もできるかも知れない。
うまく行かないことの理由はいくらでも作り出せるんだけど、そのなかで、
【いま自分は何ができるか。】と言うことを、明るく考えてみることが大切なんだ。
【与えられた材料、いまある材料のなかで、何ができるか。どう戦えるか。】ということを
考えて欲しいんだ。
そして、わずかな可能性の中からでも、自分の生き筋、人生の筋道というものを
見つけ出していくことが大事だね。
人生をムダにしない生き方、どんなふうに生きることなのかな?(ヘルメス・エンゼルズ2008年NO144)
「悪魔の嫌うこと」という題でお話ししてきたけれども、今回が最終回だ。
前号では、「苦難や困難の中にあっても、明るく積極的な生き方をする人を悪魔は嫌う。」という話をしたね。
けれども、「こんなひどい状況の中で、どうして心が明るくなれるのか。どうして積極的になれるのか。
暗く消極的になって当たり前じゃないか。」と言う人も多いだろう。
でも、「そういう人は、凡人じゃないのかな。」と私は思う。
「暗く消極的になって当たり前。」と言うことは、ちょうど、「川の水は上流から下流に流れているんだから、
川の中にいたら、下流に流されるに決まってるじゃないか。」と言ってるのと同じなんだ。
でもね、川の魚は、上流から下流に向かって泳いでいるだけではないよね。同じ所で泳ぐこともあれば、
上流に向かって泳いでいることもある。川の魚は、流れに逆らって上流に泳いでいくこともできるんだ。
そのように、「たとえ、川の流れは、上流から下流に向かってしか流れていなくても、そこにいる魚は、
ただ流れに流されるのではなく、上流にも泳いでいけるし、その場で泳ぐこともできるし、下流にも泳いでいける。」
という自由を持っている。だから、川の魚には彼らなりの幸福があると言えるんだ。
もし、「川の魚は、流れの通りに川下にしか泳いではいけない。」と言うのなら、川には魚は一匹もいなくなるだろう。
なぜなら、最後はみんな、海に流し込まれてしまうことになるんだから。
それは、、結局、川のなかには生き物がいられなくなることを意味してるんだよ。
人の人生においても、これと同じことが言えるんだ。人生には、苦難や困難、都合の悪いことはたくさんある。
でも、それを言いわけにして、「だから、自分はダメなんだ。ダメで当然なんだ。」と思ったならば
、人生を生きる人はいなくなってしまうだろうね。
「人は、生まれてきたら、みんな流されてしまい、人生は失敗になり、地獄に落ちる。」ということであれば
この世に生まれてくること自体に、もはや何の値打ちもなくなってしまうと言えるんだ。
どうか自分を鍛えて下さい。苦しいときや悲しいとき、つらいときに、踏みとどまって、勇気を奮い起こし、
もう一歩、前向きに歩いてみることです。
「疲れた。」と思ったときに、【もう一度努力できないか。】と言うことを考えて欲しい。
「自分には、この問題は解けない。」と思ったときに、【もう一ねばりしてみるんだ。】
「自分には、これ以上の努力は無理だ。」と思っても、【もう一回、チャレンジしてみよう。】
「あらゆる方法をためし、もう手立てがない。」と思ったときに、
【でも、まだ何かヒントがあるかも知れない。】と考えてみよう。
【簡単にあきらめてしまわないことが大事だよ。】
悪魔が嫌うこと、つまり、悪魔の仲間にならないための方法は、
【明るく積極的な心の持ち方を大切にする。】ということだ。そして、
【どのような立場にあっても可能性を見い出していく。】ということだね。
インドの釈尊も、そのように教えている。「ゴミ捨て場のような所や、泥沼のような所に、
きれいな蓮(はす)の花が咲くであろう。」と釈尊は説いたんだ。
汚い泥の中に、そこにある材料からはとても考えられないような、みごとな蓮(はす)の花が
咲き乱れて、【天国のような景色ができてくる。】不思議だね。
【【【蓮の花のように、どのような材料のなか、どのような環境のなかにあっても、きらりと光る人生を
生きることが、とてもとても大事なんだ。】】】そういうことを考えて欲しいと思う。
「悪魔の嫌うこと」と言う題で、三つの考え方についてお話してきたね。これ以外にもたくさんの
考え方があるけれども、あまりいろいろなことを言っても難しくなるだろう。
最後に、もう一度、まとめ直してみよう。
一番目は、【うそをつかない正直な生き方をしよう。】ということ、
二番目は、【こつこつと努力する、勤勉な生活をしよう。】ということ、
三番目は、【どのような立場にあっても、最後まで希望を捨てずに、明るく積極的な生き方をしよう。】
ということだ。
こういうことを心がけて欲しいと思う。そうすれば、悪魔は君たちから遠ざかり、天使が君たちに
ほほ笑みかけることになるだろう。
人生はこの世だけではない。死んだあとも、この世を去った世界で、魂の生活は続いているんだ。
その死後の生活のためにも、今世(こんぜ)の人生をムダにしないことが大事だね。
今世(こんぜ)の人生を大切に大切に使い、ムダにしないで欲しい。両親からいただいた体を
ムダにしないでほしいんだ。
そして、【世間の多くの人々が自分を生かしてくれていることに対して、感謝の気持ちを持とう。】
また、【仏(ほとけ)や神がこのような大切な修行の機会を与えてくれた。】ということの喜び、
【今世、この時代に生まれて、人間として生きられる。】と言うことの喜びを深く知ってほしい。
それが、【君たちが美しい人生を生きるための秘訣でもある。】(終わり)
「頭がよいから成功する」とは言えない。「幸福の法」P163ページ
それでは、その高学歴の人のなかでも成績がよければ幸福かというと、そうでもありません。今度は
「成績がよいのに、なぜ自分は出世しないのか」「成績がよいのに、なぜ自分に対する評価が悪いのか」
「成績がよいのに、なぜ自分はお金が儲からないのか」などという悩みがあります。
この悩みは、かなり大きいのです。
これは、よくある普遍的な悩みであり、「勉強ができればできるほど、お金がたまらない」と言うのは
一つの法則です。勉強がよくできる人は、たいていは、お金が儲からないのです。
逆に、勉強をあまりせず、上手に遊んで人生経験を積んだ人のほうが、学校を卒業してから、
お金が儲かるようになります。
不思議なもので、勉強については、ほどほどに手を抜いて、クラブ活動ばかりしていた人や
アルバイトばかりしていた人、海外旅行ばかりしていた人などが、社会に出てから、なぜか、
うまく出世したり、横歩き≠オたりしながら収入を上げていくのです。
ところが、一生懸命勉強した人ほど、学者になったり公務員になったりして、
収入が先細りになっていきます。
たとえば、公務員になったら、国民の税金で給料をもらっているので、それほど
収入が高いわけではありません。公務員の収入が民間より高ければ、国民に重税感が
出るので、公務員の収入は、民間より低いことを前提にしています。そのため、
収入が民間より低いということで、悩みがあるのです。
大学の先生でも、日本では、十年間、論文一つも書かなくても、もつのです。
私の大学の旧師にも、17年に一冊しか本を書かないと言う人がいました。
なかには、「抗議録のノートを本にしてしまったら、抗議をすることができなくなるので
、定年退官のときに初めてそれを活字にする」という人もいました。
それまではノートのかたちで隠しておかないと、毎年の抗議ができないのです。
本にして出したら最後、新しいことを言わなければいけなくなるので、そうはせずに30年間、
同じ講義をし、定年退官のときに、やっと本にして出すのです。
このような人は、はっきりいって怠け者です。こういう怠け者の給料は上がるわけはないのです。
一方、給料が高い民間会社ではどうかというと、実際に、切磋琢磨し、日進月歩で研究開発をしています。
したがって、「頭が悪いから失敗する。」「頭がいいから成功する」ということは、
必ずしも一律にいえるものではないのです。
現代においては、学歴ピラミッドができているので、数としてみたら、勝者よりは敗者のほうが、
率は圧倒的に多くなります。ただ単に学歴や試験の勝敗だけでいけば、大抵の場合、7,8割の人は
敗者に入るのです。そのため、それだけで人生の幸・不幸というものを考えたら、不幸な人ばかりに
なります。しかし、それは現実には正しい判断ではありません。
学歴や試験での勝利は一つの手掛かりではあるのです。その自分が得たきっかけを手掛かりにして、
さらに努力していけば、成功への道になります。しかし、そこであぐらをかいたら、それで終わりであり、
大したことはないのです。やはり、汗水垂らして働く人のほうが、その後、成功していくのです。
そういうものなので、学歴評価的なもの、あるいは学力評価的なものを絶対視してはいけません。実際、
それで勝者になった人でも、その後は苦しんでいることがあるということは、
知っておいたほうがいいでしょう。それを知ったほうが、敗者になった人も、たぶん心は安らぐと思います。
学生時代に勉強しすぎた人の場合は、「学生時代に遊んでばかりいた人が、社会に出てから、なぜ、
あれほど出世したり、お金が儲かったりするのか」ということが不思議でならず、それが苦しみのもとに
なっています。しかし、【その遊んでばかりいた人は、試験に出ない範囲のところで仕事をし、
試験に出ない範囲の能力が評価されているので、それは仕方がないことなのです。】
そういう意味で点は公平であり、ある人に対して、何かの才能を与えたら、ほかの才能は与えないものです。
そのため、「自分には、この才能はない」という場合、
【【【その人には何かほかの才能があることがよくあるのです。】】】
したがって、【【【才能というものは、どこに埋もれているか分からないけれども、
いろいろな人が、それぞれ才能を持っているのだ】】】ということを知らなければいけません。(終わり)
今日を生き抜け(月刊誌より抜粋) ※1番から全て幸福の科学の教えです
悩みの中にある時、
過去のことを思いわずらうのは、もう止めにしよう。
過去は過去。もう過ぎ去ったのだ。
大切なことは、その思いわずらいによって、
今日を生きるエネルギーをすり減らさないことだ。
【過去の失敗や、判断の誤りが一体どうしたというのだ。】
【他人からいろいろと酷評されたからといって、それがどうしたというのだ。】
あなたは今日も生きている。
あなたは昨日(きのう)の時間を使うことも、明日の時間を使うこともできない。
あなたが手にしているのは、今日の二十四時間だけだ。
【あなたに必要なのは、今日の糧(かて)。】【あなたに必要なのは、今日の仕事。】
【ならば、今日一日を生ききれ。未来など何だ。】
【明日の仕事は明日やればよい。】【今日を全力で生き抜くのだ。】
浮上する心 ※1番から全て幸福の科学の教えです。
事実だけを見つめたら、実人生が、とても重く、暗く、感じることがあるだろう。
自分自身が情けなく、恥ずかしく、
塩を振られたナメクジのように、消えてしまいたいこともあるだろう。
実際、何人かに一人は、自殺したい衝動にかられたこともあるだろう。
だが、ここに、一つの技術がある。
【自分の心を励ますのだ。】【心を浮上させるのだ。】
では、どうやって、と、あなたは問うであろう。
【想念(おもい)こそ、魂の活動そのものだと知って、
善きことを、想い(おもい)、想い(おもい)、念じ続けるのだ。】
【自分は、素晴らしくなりつつある。未来は、明るくなりつつある。】と、
【繰り返し、心に刻みつつ、悲観的な言葉や感情は、受け入れないことだ。】
【持続的な想念(そうねん)は、必ず現実化すると、信じきることだ。】
※自分の思っていること、考えてることは物理的力があり、自分がかわいそうな人間だと思い続けると
本当にかわいそうな人間になり、自分は不幸な人間だと思い続けると、本当に不幸な人間になる。
逆に自分は素晴らしい人間だと思い続けると本当に素晴らしい人間になり、
自分は幸せな人間だと思い続けると本当に幸せな人間になる。
未来の「成長した自分」を思い描き、ウツを乗り越えよう
世の中においては、恥をかくようなことはたくさんあります。ただ、それでいちいち傷ついていたら、
何度自殺してもきりがないでしょう。ある意味で、人生は恥のかきとおしであり、恥の上塗りばかりなのです。
しかし、やがて四十歳を過ぎると、かつての自分と同じようなことをする人間を見るようになります。
二十代や三十代前半ぐらいの人で、愚かに見える人が次から次へと出てくるわけです。
若い人たちを指導できるようになると、何か自分が成長したような気持ちになります。
これが人生の楽しみの一つなのです。
三十代でウツになっている人に対して、すでにそれを乗り越えた四十代や五十代の人は、
生き方を指導することができるのです。これは楽しいことであり、だからこそ人生はやめられないのです。
したがって、ウツぐらいで参っていてはいけません。いろいろな新しい環境や立場において、
失敗は経験するでしょうし、恥もかくでしょう。
【【「穴があったら入りたい」という気持ちになることは、百回や二百回はあって普通です。】】
一回もなかったという人は少しおかしいのであって、自分を理想化して完璧な人間のように
思っているのでしょうが、そういう人は、ほかの人の気持ちがまったく分からない人である可能性が高いのです。
その意味で、「穴があったら入りたい」と思っている人は、
【ほかの人の視線や言葉などをよく感じ取っている、意外に素晴らしい人なのかも知れません。】
したがって、どうか、考え方を変えてください。「自分はいま、経験を積んでいるのだ。やがて、
いまの自分と同じような人たちを指導できるときが来るのだ」と言うことです。
時間に耐え、粘り抜いたら、やがて、そういう身分になれるのです。あきらめてはいけません。
【【【恥かいたとしても、すぐに忘れることです。忘れるということは、ありがたいことです。
人間は、次々に新しい経験をして、古いことを忘れていきます。
そういう意味で、忘却ほど素晴らしいことはありません。】】】
【【【悪いことは、すぐに忘れましょう。できるだけ早く忘れる人は、優秀な人です。
悪いことを長く覚えている人は、愚かな人です。】】】
【【【そして、たまにあったよいこと、ほめられたことなどは、長く記憶するようにしましょう。
それが優秀な人です】】】
【【【ほめられたら、長く記憶し、怒られたら早く忘れましょう。
これが、人生を明るく生き、長生きするための秘訣なのです。】】】 (終わり)
※ウツになってくると、「自分は欠点だらけで、長所など一つもない」と思い込むようになります。
そんなときは、週に一回ぐらい、「自分のいいところを見つける時間」をとってみましょう。
優れているところ、頑張っているところ、恵まれているところなど、見落としている「よい面」は
たくさんあるはずです。少なくとも、「過去の自分」より向上している部分は必ずあります。
「自分をほめる」という考え方は、「希望の法」第一章にも説かれています。
名選手は必ずしも名監督ではない (「希望の法」P237)
昔から言われていることですが、名選手は必ずしも名監督ではありません。
プロ野球で言えば、長嶋茂雄氏は、監督を長く務めましたが、なかなか成功しませんでした。
王貞治(さだはる)氏も、監督としての才能がきらめくまでには、ずいぶん時間がかかりました。
【一方、自分自身がそれほど名選手ではなかった人で、管理野球をしたりして、監督をして
かなりうまくいった人もいます。】【【【要するに、、そういう人は、選手の悩みや苦しみがよく分かるのです】】】
個人の能力がありすぎる人は、他人に対して、どうしても厳しくなります。そして、すぐ、
「この人は駄目だ」と思ってしまうのです。
ホームランバッターだった人は、ヒットはよく打つけれども長打をあまり打てない選手に対して、
「なんだ、大したことがないな」と少し見下げるようなところがあります。
ホームランバッターだった人から見ると、たとえばイチロー選手は、「打率が高い、出塁率が高いなどといっても、
いつもゴロばかり打っている"ゴロの職人≠ナはないか。ホームランはめったに打たない。
[ポンとゴロを打ってバウンドさせ、ピッチャーの頭の上を抜くには、どうするか]ということばかり
考えている」というふうに見え、もどかしく思えるでしょう。
したがって、そういうゴロの職人≠ヘ、選手時代にホームランバッターだった監督に就かないほうがいいでしょう。
さもないと、潰されてしまいます。そういう監督に就くと、「もっと思いっきり引っ張れ」などと
指導され、だいたい打てなくなり、打率は下がっていきます。「ゴロでも何でもよいから、塁に出ればよい」と
いうことならば、自分は自分の道を行くのがよいと思います。
【このように、才能ある人は、人を導く立場で成功するとは限らないのです。】
【逆に、選手として芽が出なかった人でも、自分がいろいろと苦労したり工夫したりした経験があると、
【【【選手の気持ちや悩んでいるところがよく分かるため、うまく導いていける場合があります】】】
選手と監督とでは、見ている目が少し違うのです。
【【【大勢の人を率いて成功していくためには、ある程度の悲しみや苦しみを経験することが必要であり、
それを経験していないと分からないものがあります。】】】
【【【「人の気持ちが分かるかどうか」ということが、「どれだけ人を引っ張っていけるか」
ということと関係してきます。】】】
【やることが、あまりにも、ドンぴしゃりと当たりすぎた人は、えてして冷たいことが多く、
人がついてこないことがあるのです。】 (終わり)
感性を磨き、「人の心を捉える力」を高める(希望の法P245)
予備校の人気講師には、受験時代に勉強がよくできた人よりも、むしろ、そうではない人が多いのです。
頭が少し悪く、苦しんで苦しんで、自分なりに勉強法を編み出したような人が
だいたい、トップの講師になっています。
「教科書や参考書は、多くの人が使ってるのと同じものを一冊だけ使い、それで、よい点を取り、
楽に受かった」というような人が講師になっても、その人の生徒は入試に受かりはしないのです。
そういう人に教えさせても、「みなさん、読んだら分かりましたよね」と言って終わりです。
「どうして、これがわからないのですか。さっき言ったでしょう」「それは2ヶ月前に言ったでしょう」
などという感じで、「なぜ、これが分からないか」ということが、その講師には分かりません。
名選手が監督になった場合と同じことが起きてしまうのです。
予備校に人気講師になっている人は、むしろ、「何年も浪人して苦しみ、その結果、頭の悪さを克服して、
元のレベル以上の学校に入った」というような人が多いのです。そのときに苦しんで苦しんで編み出した方法を、
自分だけのものにせず、今度は他の人に教えるわけですが、「さらに改良できないか」ということで、
その後、改良に改良を重ね、それで講師として人気を博しているのです。
そして、五千万や六千万もの年収を稼ぐようになります。東大の総長であっても、おそらく年収二千数百万円程度でしょうが
蝶ネクタイをし、金ピカの服を着て、予備校の教壇に立ち、一億円近いお金を稼ぐ人もいるわけです。
そういう人は、元はそれほど頭はよくないはずです。
【不思議ですが、頭のよい人のほうが収入が減っていき、頭の悪い人のほうが収入が上がっていくことがあるのです。】
なぜ収入が上がるかというと、結局、人気があるからです。【人気の元は何かと言うと、『感性』です】
【【【「どれだけ人の共感を呼ぶか。どれだけ人の気持ちを捉えるか」という、感性の部分が、
商売などでも成功する能力なのです。】】】
この感性の部分は、残念ながら、学校のテストでははかることができません。もちろん、デザイナーの学校や
音楽家の学校では、そういう方面の感性を測ることもできるでしょうが、それを別にすれば、企画や営業、
マーケティングなどの一般的な感性については点数で測れないのです。
これは実績で見る以外に方法はありません。点数で測れない、感性の力があるのです。
【【【頭がよいと思われていなかったのに、実社会を出てから成功していく人は、
人の心を捉える力が高いのだと思います。】】】
この「人の心を捉える力」というものは、どこから生まれるのでしょうか。自分自身の悩みや苦しみは
当然あるわけですが、まず、それについて考え抜き、煮詰めて煮詰めて、真珠のような宝石を
作っていく必要があります。それはアコヤ貝が、砂やガラスの破片などを粘液で巻き、
真珠を作っていくようなものです。【【【そうやって、自分を磨いて磨いて玉を作っていくのです。】】】
自分がただ苦しんだだけではダメなのです。自分が苦しんだ話だけをしても、ほかの人たちが逃げていくので、
それだけではいけません。「私は、これで失敗をしました」ということだけでは普通の話であり、
それ以上ではないので、誰も話を聞いてくれません。
苦しんだり失敗したりするのはかまわないのですが、その中から何かを掴み取り、何か非凡なものを
抽出していかなければならないのです。【【【自分がつかみ取ったものが、どれだけ人を動かしていけるか。
どれだけ人の心をつかんでいけるか。どれだけ人を引っ張っていけるか】】】ということが大事です。
これによって値打ちが出てくるのです。
したがって、「自分は知性や理性が、そう大したことがない」と思う人は、感性の部分を磨いていくべきでしょう。
【【【感性の部分には大きな力があり、大勢の人をつかまえる能力があります。】】】
今はやりの商品系統でヒットを出す方法などは、感性の能力を抜きにしては語れないでしょう。
いくら理詰めで行っても、売れないものは売れないのです。
【感性にも、磨き方によって実力の差がある】ということを知らなければいけません。 (終わり)
4.夢(天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)神示集より抜粋)
夢というものについて、語ってみたいと思う。夢は偉大なるかな。夢には何らの限界がない。
夢には何らの滞りがない。夢には何らの障害がない。夢は自由である。夢の中では想像は自由にはばたいてゆく。
夢の中で諸君は風になることもできる。太陽になることもできる。月になることもできる。
野に咲く美しい草花になることもできる。大海を陽気に泳ぐイルカになることもできる。
海の底を歩くこともできる。土の中を潜ることも、空を飛ぶことも自由自在である。
夢の中には老若男女はない。年老いし者も若くなり、若き者も年老いて見える。
男は男としての力を発揮し、女は女としての力を発揮し、
そして、おたがいにおたがいを美しき者として見ることができる。
夢は幸いである。幸いであるから、夢よ、夢の中にはすべてがある。夢にはその限界がない。
夢にはその果てがない。夢とは何と神に似たものであろうか。
神に限界があるであろうか。神に果てがあるであろうか。神に行動の制限があるであろうか。神の想いには果てがない。
(続き)
【【【人間よ、夢の持つ本当の意味を知れ。夢は、汝が夢をみることができるということは、
汝に神と同じく創造の自由が与えられているということなのだ。こうした貴重なる体験が夢であることを知れ。】】】
【【【夢の中で飛翔せよ。夢の中で自己を拡大せよ。夢の中で大いに生きよ。夢の中で自らを限定するなかれ。】】】
【【【夢の中で自らをとらわれの中に置くことなかれ。自らを解放せよ。自らを伸び伸びと生きよ。】】】
大いなる大河として、大いなる大気として、大いなる大地として、
大いなる慈悲の中に、【【【大いなる夢を抱け。夢は果てることがない。】】】
【【【人間よ、必ず、心の中に夢を持て。】】】
【【【夢なき時、汝は死したのである。夢なき時、汝は老いたのである。】】】
【【【人間よ、老いこんではならない。永遠の若さを保て。】】】
【【【永遠の若さとは、すなわち、夢を抱く力である。夢を想う力である。】】】
【【【夢の中に限界が現れた時に、汝の限界もまた画されるのだ。】】】
人々よ、現実だけに悩むな。夢の世界において現実を脱せよ。大いなる夢の中に生きてゆけ。
汝、自らの夢を想え。日々、自らを点検し、自らの夢の卑小なることを嘆け。
自らの夢のあまりにも現実的なることを嘆け。【【【自らのその力を限定するなかれ。】】】
なぜ、何ゆえに自らの力を限るのであるか。何ゆえに。
【【【人々よ、夢には法則があるということを知れ。】】】
【【【心に描いたそのビジョンは、たちまちにして成就しないからといって嘆いてはならない。】】】
【【【あきらめてはならない。中断してはならない。】】】
(続き)
【【【あなたがたの努力は、その夢を替えてしまわないことだ。】】】
【【【一日や二日、その夢が実現しなかったからといって、それがどうしたことがあるのか。】】】
【【【世の失敗者たちの嘆きの多くは、自らの夢を捨てた時に始まっておるのだ。】】】
【【【しかし、彼ら人生の失敗者の多くは、自らが自らの夢を捨て去ったということに気付いていないのである。】】】
【【【汝ら現実主義者となることなかれ。汝ら結果主義者となることなかれ。結果を恐れるなかれ。】】】
【【【むしろ夢を持続し得ぬ自分を嘆け。結果を求めてはならない。】】】
【【【結果は与えられるであろう。与えられる時に黙って受け取ればよい。】】】
汝らが祈りはすでに聞き届けられているということを知れ。そうした祈りと願いが出るということ自体が、
すでにそうしたものが必要であるということの意味であったのだ。さすれば、それを受けよ。
受ける時に、ひっかかりのない自分であれ。とらわれのない自分であれ。
【【【夢を持続せよ。その夢の実現にはしかしこだわるな。その時期を限るな。その方法を限るな。】】】
【【【やがてあたえられるであろう。与えられるものを大いなる感謝の気持ちでもって受け取ってゆけ。】】】
【【【それが人生の秘訣である。】】】
(続き)
【【【夢は自らの水先案内人であるということを忘れるな。水先案内人の姿を見失ったとき、
汝の船もまた舳先を失ってしまうのだ。水先案内人は、常に、船の舳先に立っているということを知れ。】】】
【【【水先案内人は、水先案内人であるということにおいて、汝より先に進むこととなっておるのだ。】】】
【【【心の中に描いた夢を、その想いを持続せよ。把持せよ。断じて投げ捨てるな。】】】
【【【そうして、夢がすぐさま実現しないからといって、それをあれこれと気にやむな。】】】
【【【汝が心の中に描いたる夢は、地上を去りたる霊天上界において、
数多くの高級諸霊たちによって確かに見届けられているのだということを知れ。】】】
【【【夢を実現する力は、汝らだけの小さな力ではないということを知れ。】】】
【【【夢を描いた時、その夢の実現を助けるべく、高級諸神霊が日々働いているということを知れ。】】】
【【【さすれば、夢を抱くことに努力せよ。】】】
【【【抱いた夢を次には持続せよ。その夢を実現するのは、汝らだけの力ではない。】】】
【【【汝らが心にて描いたる夢は、そうした大いなる高級神霊たちの力によって、やがて適当なる時に、
適当なる方法によって実現されていくであろう。このことを疑ってはならない。】】】
5.勇気(天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)神示集より抜粋)
【【【諸君よ、しかし、夢を夢として実現していく過程において、諸君は怠惰な人間であってはならん。】】】
【【【決して、夢を抱きなさいということが、怠惰であってよいということではないということだ。】】】
これは、一日中、毎日を布団(ふとん)の中で過ごして夢ばかりを描いておるということではない。
そうではないだろうか。あの樫の木の大木であっても、毎日毎日、木の根から水と、そして養分を吸い取るという、
こうした作業を忘れてはいないのではないのだろうか。土の中にしっかりと張った根が、
土の中にある水分と養分とを休みなく吸収しているのではないであろうか。一本の木でさえ、
そうした日々の努力を怠ってはいないのだ。一本の木でさえそうなのだ。
【【【さすれば諸君よ、日々怠ることなき自分であれ。】】】【【【そうして、自らが伸びてゆき、
自らが向上してゆくということに対して、勇気を持ってゆきなさい。】】】
【【【勇気は、これは草薙の剣(くさなぎのつるぎ)でもあるということを知れ。】】】
かつて日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に出た時に、今の静岡県といわれるところで、
地方の豪族に取り囲まれ、そして草むらの中で火を放たれた。そして彼ら日本武(やまとたける)の軍勢が、
火の中にてまさに焼け死なんとした時、日本武尊がその鞘(さや)より抜き放った草薙の剣でもって、
一面の草を薙(な)いで薙いで薙いで薙ぎ倒して、切り倒した時に、一陣の風が吹いて、
火は敵の方へと燃え広がり、敵を蹴散らしたことがあった。
それは、風というものが、確かに、日本武尊に勇気を与えたのかも知れぬが、
しかし、その事実の前に、鞘を払って敢然と剣でもって草を薙ぎ払ったという、
そうした決然たる勇気がそこにあったということを忘れてはならん。
【【【自らの運命を切り拓かんとして、決然として草薙の剣を抜き放ったその意志が、
決意が、天の助けを呼んだということを忘れてはならん。】】】
(続き)
諸君よ、諸君は人生の中において、敵に取り囲まれたかのごとく見えることもあるであろう。
山のように積み重なった障害や困難によって、形勢は不利に思われ、
諸君はもう座して死を待つしかないかのごとく思われることもあるであろう。
【【【しかし、そうした時に怯んではならん。決然として自らの鞘より草薙の剣を抜き放て。】】】
【【【そして勇気をもって、一面の草を薙ぎ払え。その時に、諸君を助ける一陣の風が東方より吹き来たるであろう。】】】
【【【そして、諸君に運命の血路を開いていくであろう。】】】
【【【諸君よ、夢を抱けということは勇気を持たなくてもよいということではないのだ。】】】
【【【人間は、決然として立ち上がらねばならぬ時は、仁王(におう)のように立ちはだかって、
自らの運命に立ち向かってゆかねばならん。自らの退路を断て。自らの退路を断って、決然と前に進んでゆけ。】】】
【【【一本の剣を持って自らの道を拓いてゆけ。】】】
【【【それだけの気概と努力がなければ、決して大いなる運命の開拓ということはできないのである。】】】
そうした一条の勇気が、やがて諸君を大いなる偉人への道に導いてゆくのである。
【【【諸君よ、勇気がある人間となれ。これは独り男性だけに言っておるのではない。女性にしても然りである。】】】
女性にして勇気のある女性が現れた時に、困難から人びとは救われるのである。かのフランスの百年戦争のときに、
フランス軍がまさしく壊滅せんとしておった時に、オルレアンの少女、十六歳の少女ジャンヌ・ダルクは、
フランスの三色旗を持って敵陣に突撃をしていった。
その時に、疲労困憊(ひろうこんぱい)しておったフランス軍兵士たちは、
「負けてはならん。あとに続け」と、疲労の中から勇気をふり絞って立ち上がり、そしてフランスの国を守ったのではないか。
フランスの国を守ったその力の源泉は、十六歳の少女の勇気ではなかったのか。
【【【女性であるからといって軽視してはならん。】】】
【【【あなどってはならん。時に男性以上の力と勇気が女性に溢れることがある。】】】
【【【その勇気が、世の男性をも奮い立たせることになるのだ。】】】
(続き)
【【【女性であるということによって、後込みをするな。挫けるな。怯むな。
【【【女性だからといって、後備兵とならねばならんという理由はない。】】】
【【【女性であるからといって、決して男性のお尻についていかねばならんわけでもない。】】】
【【【オルレアンの少女のごとく、敵陣の包囲網を突破する女性が世に現れてもよいのだ。】】】
その時に、大いなる真理の嵐が湧き起こってゆくであろう。私は、男性のみならず、
女性の中にも勇気をもって立ち上がる人が、数多く出ることを希望するのである。男性のみの勇気では足りない。
女性にも勇気があってこそ、初めて大いなる試練というものを乗り切ってゆくことができるのである。
【【【力を二倍にも三倍にもしてゆくためには、勇気のある人が一人であるよりも二人であったほうがよいのだ。】】】
【【【主人だけが勇気があるのではなくて、妻も勇気があったほうがよいのである。】】】
【【【夫婦そろって勇気があってこそ、初めて大いなる仕事ができるというものだ。】】】
【【【日本の女性に告ぐ。ご主人のみが真理伝道の使者だと思うな。真理伝道の使徒だと思うな。】】】
【【【その夫の仕事を妨げることが女性の役割だと思うな。遠慮することだけが女性の役割だと思うな。】】】
【【【共に決然として立ち上がれ。真理の使徒は一人より二人のほうがよいのである。】】】
一丸となって道を拓いてゆけ。そうした勇気がなければ、本当の救世の偉業というものはできんのである。
この事実を忘れるな。【【【男子も女子も勇気ということを、その草薙の剣というものを抜き放て。】】】
【【【そして、敢然と運命の障害に立ち向かってゆけ。これが非常に大事である。】】】
3.決意(天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)神示集より抜粋)
さらに、次に大事なことは、決意ということだと思う。
確かに、人生の途上においては、心ゆらぐことが必ずある。そして、行く手をはばむものが、
立ちはだかるように見えることもある。自らを害さんとしているように見えることがある。
敵として現れるように見えることもある。 しかし、決してそうしたもの、
見せかけにとらわれてはならんのである。見せかけにとらわれて、そして敵を敵として闘っておったのでは、
自らの苦難というものは、増すことはあっても減ることはないのである。
ここで大いなる決意が、私は必要であろうと思う。我は今、運命の川を下らんとしておるのである。
そしてこれは、我が仕事であり、我が使命でもあるのだ。さすれば、その途上において、
なにゆえに我を塞(せ)き止めんとするものが現れる必要があるであろうか。
そうした必要がある積極的なるものはないはずである。決してない。
なぜなら、【【【この旅は、神によって許可された旅であるからです。神によって認められた旅であるからです。】】】
さすれば、諸君は、ここでひとつ大いなる決意をしなければならんと思う。
それは、【【【神の子(私たちのこと)には、不可能はないということだ。】】】
【【【神の子には、困難はないということだ。】】】【【【神の子には、苦難はないということだ。】】】
【【【神の子には、挫折はないということだ。】】】こうしたことをしっかりと、心に刻んでおく必要がある。
自らの人生といっても、それは殻(から)を被(かぶ)った自我の人生ではないのである。
自らの人生といっても、それは、神の子が、一人ひとり岐(わか)れて川下りをする姿なのである。
自らもまた神の子なのである。神の子が、神の自己実現をせんとしておるのである。
(続き)
しかるに、【【【いかなる困難がそこにありえようか。いかなる邪魔ものが現れようか。】】】
【【【邪魔ものと見えしは、これは目の錯覚であろう。こう思わねばならぬ。】】】
それはそうである。川を下っておって、岸辺に立つ案内人がおって、
「これから先には、こういう川の流れになっておるよ」と、手を振って言っておるのを見ても、
自らの心が被害妄想の心であれば、彼が手を振る姿が、すなわち、彼があなた方に石を投げようとしておるか、
弓を射ようとしておる姿に見えないとは限らない。あるいは疑ってかかるならば、
彼らが言っている言葉は罠(わな)であって、全くその逆ではないのかと疑ってかかったならば、
人間の心に永遠に、救われる安らぎというものはないということだ。
したがって、まず我われは、いや、少なくとも地上にある諸君は、自らが神の子であり、
神の子としての自己実現をなさんとする決意をする必要がある。
【【【「我がなさんとすることは、すなわちこれ、神の子がなさんとするのである。
神の子がなさんとすることは、すなわちこれ、神がなさんと欲することなり。
さすれば、我が念い、実現せざることなかれ。さすれば、我が念い、通らざることなかれ。
さすれば、我が邪魔だてをするもの無し」】】】 こうした強い強い決意を持たねばいけない。
(続き)
特に、【【【「困難など無い」という信念でもって、あたってゆかねばならん。道を切り拓いてゆかねばならぬ。】】】
その時に、【【【困難と見えしものは、目の錯覚であったということを、諸君は知るのだ。】】】
【【【目の前に大きな岸壁が、立ちはだかったと思うけれども、実はそれは目の錯覚であって、
川面をゆらゆらと揺れておる陽炎であったり、川霧にしかすぎないのだ。】】】
それを、岩の塊だと思ったり、行き止まりだと思ったり、滝だと思ったり錯覚するけれども、
実際はそうしたものではない。
【【【諸君は、あらゆるものの中に善意を発見せよ。あらゆる人の心の中に、善意を発見せよ。】】】
【【【世の中は善きものしかないと思え。善きもののみが、世の中を創る実在であると思え。】】】
【【【善きもののみが創った世界であるならば、何らの苦難、困難があると思うな。】】】
【【【それがあるように見えておるのは、自分の目の錯覚であるのだ。】】】
彼らはみな、諸君を祝福せんがために集い来る人たちなのである。
たとい、彼らが残忍な手段や、また、皮肉な攻撃方法でもって、諸君をいじめたりまた、
困らしたりしているように見えることがあっても、それはそうではないのだ。
それは本当は、観世音菩薩が、諸君らに本当の悦びを与えるために、
方便としてそうしたことを、させておるのだということを知らねばならぬ。
(続き)
やがて、諸君らの敵と見えしものは、川下りが終わって陸に上がってみると、
なつかしい顔をして、諸君らを迎え入れてくれる友達なのである。
「あの時は、君の勇気を試すために、ああいうことをしたんだよ。
あの時には君の胆力をつけるために、ああいうことをしたんだよ。
あの時には君に勇気をそして信念を、確信を、信仰を得てもらうために、
ああいうことをしたんだよ」 彼らは口ぐちにそう語るのである。
結局、世の苦難・困難といわれるものは、諸君らの信仰心を強めるために、
方便として与えられているものだけであって、本当に諸君らを害せんとして
あるものではないということを知らねばいけない。それらは諸君が、
どれだけ神を愛することができるか、どれだけ神を信ずることができるかということを
試すための方便であり、試練でもあるということだ。これを知らねばいけない。
さすれば、善一元の世界を信ぜよ。さすれば、人々の良心を信ぜよ。
さすれば、環境が良くなっていくことを信ぜよ。
そうした中において、本当の人間の生きるべき道というのが、見つかってゆくであろう。
(続き)
人生の中において、退かんとして退かず、一歩も譲らず前進のみ続けるという気持ち、
こうした不退転の気持ちが生ずる背景には、
【【【まず高邁(こうまい)な理想があるということを知らねばいけない。】】】
【【【理想なき者は、容易に挫折するのである。 】】】
しかし、【【【理想ある者は、挫折すると見えしことがあっても、再び起きあがり、
立ち上がり、挑戦をしていくのである。】】】
【【【人生は不断の挑戦である。不断のチャレンジである。】】】
【【【起上小法師(おきあがりこぼし)のように、
七転び八起きというのが、本当の人生の姿であるのである。】】】
【【【七転び八起きをしていく背景には、
それはやはり、強い強い願い、希望、高邁な理想、高い高い目標、
これがどうしても必要なのだ。】】】第一段階として、
【【【どうしても高い理想の設定、これが必要である。】】】
【【【諸君らは、これ以上大きな理想はないというような理想でもよいのだ。
そうした理想を持ちなさい。】】】
【【【自分を自己限定してはならない。また、断じて自己否定してはならん。】】】
【【【自分はつまらんものであるとか、自分はくだらん人間であるとか、
自分の劣等感を助長するような言葉を、断じて発してはならん。】】】
(続き)
【【【諸君らは神の子であるのだから、神の子は偉大なのである。偉大な神の子が、
偉大な目標に向かって邁進してゆくのである。】】】
【【【そうした自覚というものを、決して忘れてはならぬ。】】】
【【【自分は学歴が足りないとか、自分は肉体が貧弱であるとか、自分は片親であるとか、
自分は病弱であるとか、自分は世の人びとに認められないであるとか、自分は話が下手であるとか、
自分は頭の回転が悪いであるとか、自分は目が悪いであるとか、自分は意志が弱いであるとか、
自分は根気がないとか、こうしたこと、否定的な言葉を出して、自己卑下するのはやめなさい。】】】
【【【そうした否定的な言葉でもって、自己弁護するのはやめなさい。】】】
【【【こうした自己弁護でもっては、決して道は開けないのだということを知れ。】】】
【【【自己弁護を捨て去ったときに、初めて道は開けるのである。】】】
【【【そうした弱い自分を肯定するな。弁護しなければならんような、
そうしたそうした弱い弱い自分というものを肯定してはいけない。】】】
【【【自分はもっと強いものだと知れ。そしてたとえ今、人びとに認められなくとも、
やがて時間を経て、自分は認められていくのだということを知れ。】】】
【【【それは、ちょうどあのウナギという魚が、どれほどつかもう、つかもうとしても、
手の間からスルリと抜けていくのに近い。そうした話だ。】】】
【【【どんな悪しき運命が諸君をとらえようとしても、
諸君は、そのなかからスルリと抜けていくようなウナギのような存在であれ。】】】
【【【どんな困難があっても、それをくぐり抜けていくという自覚を待て。】】】
(続き)
【【【川の水だってそうではないか。ある時は大洪水のような氾濫(はんらん)となり、
ある時は枯れた砂地の上を流れることができず、深く地下水として潜(もぐ)り、
また伏流水となり、また湧き水となって出てき、そして天に昇り、雲となって雨を降らし、
また川をつくってゆく。水は自由自在、融通無礙(ゆうずうむげ)に自らの運命を開拓しておるではないか。】】】
しかし、【【【諸君らは、この水の生命以上に偉大な生命ではないか。
【【【偉大なる自由意志を与えられた生命ではないか。】】】
【【【さすれば、どんな堰(せき)があってもそれを乗り越えてゆくような水であれ。】】】
【【【どんな砂地にあっても地下を潜ってゆくような水であれ。】】】
【【【どんなことがあっても空中に舞い上がってゆくような水であれ。】】】
【【【そうした自由自在の諸君であれ。固定観念でもって自分を縛るな。】】】
【【【自分はこんなものであるとか、自分の成功はこの程度であるとか、こうしたことでもって縛るな。】】】
【【【自分は自由自在に大空を飛びまわれる存在だということを知れ。】】】
【【【いくら偉大なる夢を抱いても、それで十分ということはないのだ。】】】
【【【諸君はその夢に、限りなく近づいてゆかねばならん。】】】
【【【そういう大きな夢を持っていくということ、これが何にもまして大事である。】】】
【【【まず、不退転の原理としては、夢を抱く、理想を抱く、そして理想の実現のために、常に目標に近づくという、
不断の努力を忘れないということ。日々の努力を忘れんということ。】】】
【【【どんな悪しき運命があろうとも、それからスルリと抜け出していって、
自由自在に生きてゆく。そういう諸君であれ。】】】
(続き)
不退転という言葉は、退かずという意味である。諸君は、常に直進せねばいかんものではない。
人生には曲がり角もあるであろう。地下を潜ったり、空を飛んだりしなければならんこともあるであろう。
要するに諸君は、前進あるのみの人生を送っておるのだ。
【【【不退転は退かずと言う。退く必要はない。新たな道を開拓せよ。】】】
【【【新たな道を開拓して、その道をまっすぐに進め。】】】
【【【そのなかに、諸君らの本当の幸せというものがあるのだ。】】】
【【【この道しかないとは思うな。自分にこの道しか自己実現の機会はないと思うな。】】】
今のアメリカの大統領(レーガン元大統領)であってもそうであろう。
彼はハリウッドの二流の役者にしかすぎなかったのではないか。
しかしこの役者は、役者としては二流であったかもしれないけれども、
心のなかには偉大なる大統領というイメージを描いておったのではないのか。
彼は、本業の役者のほうでは、十分に活躍はできなかったが、
心のなかに描いておったイメージには忠実に、やがて大統領を演じておるのではないのか。
【【【さすれば諸君よ、まず心のなかに描くことから始まるということを知れ。】】】
【【【そして、その大きな目標に向かって邁進していく自分を知れ】】】
【【【決して退かず、あらゆる困難に対して退かず、自分はどのような手段を使ってでも、
どのような方法を使ってでも、この困難を乗り越えてゆく、そうした力強い自分であれ。】】】
海辺の、あの打ち寄せる大波を、どうしてそれを堰(せき)射止めることができるであろうか。
防波堤を造っても、その防波堤を乗り越えて来る波があるではないか。
波でさえ、あれだけの力を持っておるではないか。
【【【諸君は、もっともっと偉大なる神の子であり、神の生命である。】】】
【【【もっともっと力強く、あらゆる防波堤を乗り越えてゆかねばならぬ。】】】
【【【そうしたことを、肝(きも)に銘じなさい。】】】
5.断行(天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)神示集より抜粋)
さて、不退転ということに関して話をしてきたが、さらに次なる境地について、話をしようと思う。
これは、断じて行なうということだ。単に退かずというだけではいけない。
【【【断じて行なうべき時には行なう、という強い決意。これが大事だ。 】】】
【【【人間は決して、優柔不断であってはよくない。日和見主義者(ひよりみしゅぎしゃ)であってはいけないのだ。】】】
【【【決断すべき時には決断し、実行する時には実行しなければいけない。これを断行という。】】】
運命の女神には、前髪のみあって、後ろ髪がないというではないか。
【【【運命は、チャンスが巡ってきた時に、それを両手でもって掴(つか)みとらなければ、
すり抜けて行くと言うではないか。】】】
さすれば諸君よ、自らの今立たされている現状というものをよく知れ。
【【【そして、今が時ならば、今立つ以外にないということを知れ。】】】
【【【今が行動の時ならば、今行動する以外にないということを知れ。今断行する以外にないということを知れ。】】】
(続き
人生の中には、時を待たねばならんというときもあるであろう。
心の傷が癒えるのを待たねばならんというときもあるであろう。
【【【しかしながら、いつもいつもそうであってはならんのだ。】】】
川の水が、ゆったりとながれている時があるけれども、
いざせせらぎとなり、滝となったときに、
ものすごい莫大なエネルギーとなって流れ落ちていくように、
諸君らも平時は、平静に平静に流れていってもよいけれども、
【【【いざ、ここ一番という時になったら、底力を振り絞らなければいけないのだ。】】】
【【【「あれだけの力があの人にはあったのか」と言われるような、
そうした大いなる底力というものを発揮しなければいけない。】】】
【【【人生には、そういう時があるのだ。人生には何度も、断行せねばならんということがある。】】】
【【【断行せねばならん時には、判断が迷う時である。】】】
右にすべきか、左にすべきか、人生は常に選択と選択の積み重ねだ、と言った人もいる。
確かにその通りだ。人生のいたるところで選択はある。
【【【その時に、決定をせねばいかんのは、他ならぬ自分自身である。】】】
(続き)
この時に、諸君は心を澄まして神の声を聴け。自らの心を澄まし、
精神を統一し、呼吸を整えて、自らの心の中に、邪心がないかどうか、
邪(よこしま)な心はないかどうか。自分だけに都合のいい心はないかどうか。
自分の決めんとしていることが、、単に自分に幸せなだけではなく、
人々の幸せにもつながるものであるかどうか。
自分のなさんとしていることが、神の心にもかなうものであるかどうか。
こうしたことを、諸君は心に問え。そして自らの内なる心から、自らの内なる神から、
【【【「そうだ、その道でよいのだ。断じて行え」という声」が響き渡ってきたならば、もう諸君は迷ってはならん。】】】
【【【断じて行わねばならぬ。断じて行なわねばならぬ。あとをふり返ってはならぬ。】】】
【【【自分が渡ったあとに、その橋を焼き去れ。】】】【【【自分が上陸したあと、その舟を焼き去れ。】】】
【【【そして、諸君は前進のみあるのだ。】】】
本当にその道が神の意(い)に適(かな)うことであり、本当の意味で、究極的に人びとを幸せにする道であると思うならば、
【【【あらゆる困難を排して断行せよ。】】】
たとえば、このような私たちの霊言集、霊示集というものを、諸君らは世に問おうとしておる。
しかし、こうしたときにまた、これを認めない、邪魔だてする者も出てくるであろう。
また、あまりにも内容がすばらしいので、嫉妬をする人も出てくるかもしれない。
(続き)
しかし、【【【彼らの中傷を気にし、彼らの言葉に怯(おび)えたり、ためらったり、
そういうことをしては断じてならない。】】】【【【自分の心にのみ問え。自分の心に問うて、
これがまちがっていないことであるならば、これが本当に神の心に適うことであるというならば、
この世的なる一切の悪意を排除して、断行せよ。断じて行なえ。
【【【断じて書物を出し、断じて世に広げてゆきなさい。】】】
【【【躊躇(ちゅうちょ)してはならん。世間の常識に迎合してはならん。世間の人びとの声に妥協してはならん。】】】
【【【断じて断行せねばならん時はあるのである。】】】
世間の人びとが認めるようになってから、それを広げようとか、
世間の人びとに、何も害しないという約束事をぶつけてから、
こうした神理を広めようとか、こうしたことを考えてはならん。
そうした卑怯者であっては、断じてならん。
【【【自らの心に問うて、まちがいのない道でると思うなら、断固として、実践せねばならん。】】】
【【【諸君は今、ふり返ってみよ。世の偉人といわれる人たちの数かずが、どれだけ多くの困難にあったか、
どれだけ多くの人びとの嘲笑にあったかということを知れ。】】】
【【【しかし、嘲笑にあったとしても、自らが信じるものを真一文字に歩いた者が、
それが偉人といわれる人たちではないのか。】】】
【【【嘲笑にあって、そして断念した者を、人は偉人とは呼ばない。そうではないであろうか。】】】
(続き)
【【【世の常識が間違っておるならば、この常識を打ち砕いていくだけの、それだけの勇気を心にもたねばならん。】】】
【【【断じて行うということ、いろんな危険があっても断じて行うということ。】】】
【【【この勇気を、最後は、世の人々は認めて、称賛するに至るのだ。】】】
ところが、卑怯者はその途中で引き返していく。【【【こうした卑怯者に対しては、世の人々は称賛はしない。】】】
【【【しかし、彼らの声に耳傾けず、地球の果てまで行ってでも本物を探検した人に対しては、彼らはのちの世に、
大いなる称賛をもって迎えられるのだ。】】】世の人びとはそんなものである。
【【【時代の最先端を行っておる人間は、とかく様々な困難、苦難、あるいは、
人びとの失笑や嘲笑にあざ笑われることが多いのである。ただ、それに負けてはならぬ。】】】
【【【断じて負けてはならぬのだ。】】】
【【【そうしたこと、勇気をもって、断じて行なうということ。これを忘れてはならぬ。】】】
【【【それが何よりも大切なことであろうと思う。】】】
今日を生き抜け
悩みの中にある時、
過去のことを思い患うのは、
もう止めにしよう。
過去は過去。
もう過ぎ去ったのだ。
大切なことは、
その思い患いによって、
今日の生きるエネルギーを、
すり減らさないことだ。
過去の失敗や、
判断の誤りが一体どうしたというのだ。
他人からいろいろと酷評されたからといって、
それがどうだというのだ。
あなたは今日も生きている。
あなたは昨日の時間を使うことも、
明日の時間を使うこともできない。
あなたが手にしているのは、
今日の二十四時間だけだ。
あなたに必要なのは、今日の糧。
あなたに必要なのは、今日の仕事。
ならば、
今日一日を生ききれ。
未来など何だ。
明日の仕事は明日やればよい。
今日を全力で生き抜くのだ。
大川隆法著 『心の指針』「今日を生き抜け」
人間には無限の力がある
ほんとうは、ここで力が尽き果てたと思うときにも、心の底からふつふつと湧いてくる力があるのです。
そのようなものが地下水となってみなさんの身体のなかに流れているのです。
みなさんは、刀折れ矢尽きたと思うかもしれないけれども、まだその底に力が残っているということです。
地上からは水は涸れたように見えても、実は地下においては伏流水となって流れている。
このような地下の湧水があるということを知らねばなりません。
そうであるならば、いま困難のなかにある人も、力尽きたと思ったときにも、
自分の底の底にはまだまだ力があるのだということを、そして、
これを汲み出す必要があるということに気づかなくてはいけないと思います。
人間の力はそんなに有限なものではないのです。
人間の生命力の奥には、さらに本源の神へとつながる大きなパイプがあるのです。
そこから流れてきている力があるのです。
これは押しとどめることができない力なのです。必ず何らかのかたちで出てきます。
これがあるということを知ることが、勇気ある人生のひとつの出発点であると思います。
大川隆法著『光ある時を生きよ』第4章
勇気さえ持てば運命はどうにでもなる。
勇気があれば何だってできる。
言い訳を排し、勇気を元手にして戦うことだ。
勇気があれば、その一言が出る。
勇気があれば、手を差し伸べられる。
勇気があれば、立ち上がれる。
勇気があれば、ほかの人の命を救うこともできる。
自分の運命だって変えられるし、
人の運命も変えることができる。
それが勇気だ。
ユートピアの創造は勇気から始まる。
勇気を持った人が出てこなければ、
ユートピアなんてできない。
後の人々のために身を挺して戦う人が要る。
自分自身で刈り取ろうと思わないで、
自分自身が果実を手に入れようとしないで、
後の人々のために尽くす人が要る。
その人に必要なものが勇気なのだ。
大川隆法著『勇気の法』より
逆境において、ほんとうにいちばん偉い方というのは、この常勝思考を持っている方なのです。
逆境のなかにおいて、大きな天意、天の意志というものを読みとり、「この逆境が、
この挫折が、自分に何を教えんとしているのか」を読みとるのです。いや、読みとらねばなりません。
この天意、天の心を読みとり、「自分にいま必要なものは何なのだろうか。いったい、
この挫折や苦難は、自分に何を教えようとしているのか」??この部分を読みとって、
その後の自己の人格形成、その後の行動の成功原理にもっていける、こうした体験のある人には、
徳というものが生まれてきます。
そこに非凡な力が、光が、輝いているからです。
苦難のとき、失意のときに耐えるということだけでも非凡ですが、ほんとうに非凡な人というのは、
そのなかに天の意志を読みとって、自分をさらに生かしていく積極的な種を見出し、その種を育てていきます。
それがほんとうの非凡であり、そこに徳が生まれます。
大川隆法著『常勝思考』第三部
みなさんの人生の途上において、挫折、失敗、苦難というものが出てくることがあるでしょう。
しかし、大きな人生修行の目的というものを考えたときに、はたしてみなさんは、
それを避けて通ればすむのでしょうか。これを考えていただきたいのです。
そうした苦難や困難を避けるために、この世に生まれてきたのでしょうか。
この問いに答えなければいけないと思うわけです。
人生の目的を考えてみたとき、実際はそうではないことがわかるでしょう。
何百年か、あるいは何千年かに一度、この地上に肉体を持つ理由は、今世、この地上において、
新たな環境で、さまざまな人びとに囲まれて、新たな魂修行をしようということなのです。
その魂修行のなかには、決して、よいことばかりがあるのではありません。それを当然の前提として、
この地上に生まれ出てきているはずです。
この世に生まれてきたということは、ものごとがスイスイとうまくいくということばかりが
前提になっているわけではなく、いろいろな経験を積み、いろいろな紆余曲折を経ながら、
人格が一段と大きくなり、底光りしてくることを目的としているのです。そうした大きな
人生の目的というものを中心に考えてみると、この世の苦難や困難といわれるものの正体は、
実は違ったものに見えてくるはずです。これが、常勝思考という考え方の立脚点なのです。
大川隆法著『常勝思考』第四部
「決して乗り越えることのできない苦難・困難はない」ということも人生の真実です。
この世で起きる不幸というものは、ある程度、予想されていることばかりです。
予想されていないような事態など、ほとんどありません。それゆえに、この世で、
どのような不幸があったとしても、「乗り越えていけない」ということはないのです。
したがって、不幸な出来事のせいにしないことが大事です。「あのことのせいで、
自分の人生は駄目になった」と考え、その不幸を人生の最後まで引きずるのが、いちばん、
よくないことです。たとえ、不幸な経験をしたとしても、それを心の糧として、
素晴らしい人生を生き抜いていく努力をすることが、とても大事であると思います。
大川隆法著『ストロング・マインド』第1章
「日はまた昇る」という言葉は、言い古された言葉かもしれません。しかし、
この言葉は人生の真実であり、日は確かにまた昇るのです。
夕方、水平線に消え去った太陽は、十余時間の闇の期間を経て、確実にまた昇ってきます。
太陽は人びとに、没しても必ずまた昇ることを約束してくれているのです。
地上の全人類のうちで、「日はもう昇らない」と思っている人が一人でもいるでしょうか。
すべての人が、「日はまた昇る」ということを信じて疑わないはずです。なぜでしょうか。
それは、「きょうも、きのうも、おとといも、一年前も、日は昇った。また、十年前も、
あるいは自分たちの先祖の時代にも、日は昇った。したがって、あしたも、あさっても昇るだろう」と
思っているからです。
人生においても同じであり、どのような苦難や困難のときでも、日はまた昇るのです。
苦難や困難にある人に、ぜひ実践していただきたいことがあります。それは、自分の現在のあり方を、
第三者の目で冷静に見てみるということです。そして、「自分と同じような苦難や困難に陥った人が、
かつていなかったかどうか」と考えてみるのです。
大川隆法著『不動心』第1章
生命の力
ひとよ、春の底にある力を知れ。
この限りなき力を知れ。
黒き大地からは、雪を払いのけて
ふきのとうが芽を伸ばす。
雪の中にも咲き続けてきた梅の花は一層匂いを強くし、
桜のつぼみには心臓の鼓動を感じる。
芽を吹け、芽を吹け。
ありとしあらゆるものよ、生命の力を吹き出せ。
いつまでも失望しているのはいったい誰だ。
いつまでも嘆き悲しんでいる者よ、名をなのれ。
いったいいつまで冬ぶとんにしがみついているのか。
さあ、春である。
起き出せ、起き出せ。
春の太陽はあんなに高くまで昇っているではないか。
希望の芽を伸ばそうではないか。
大地を踏みしめ、春の香りをかごうではないか。
大川隆法著『光よ、通え』「生命の力」
行き詰まったとき、迷ったとき、道に迷って苦しんだとき、打ちひしがれたとき、
肉体的な生き方のなかにおける自分の限界を痛切に感じたとき、
そういうときには、祈ってください。
ほんとうの意味で、祈りこそが、あなたに与えられた、最初にして最後の手段なのです。
――大川隆法著『希望の法』序章より
みなさんの人生のことを知っているのは、みなさんだけではありません。みなさんの人生は、
数多くの天使たちによって見守られているということを忘れてはならないのです。
彼らの姿を私は数多く見ています。彼らは天上界にあって、地上にいるみなさん一人ひとりの人生を、
いつも見つめています。そして、みなさんが悲しんでいる時には、彼らもまた悲しみ、
みなさんが喜んでいる時には、彼らもまた喜んでいるのです。
そのように、自分と共に歩み、自分と共に生きている存在があるということを、
いかなる時も忘れないでいただきたいと思います。ときには、天使がみなさんを背負って
道を歩くこともあるのです。
みなさんは、目に見えるものだけを信じ、目に見えないものを信じないかもしれません。
しかし、目に見えないもののなかに、どれほど多くの愛が隠されているか知っていただきたいのです。
大川隆法著『愛から祈りへ』第2章