635 :
餓鬼道ぼったん久しぶりw:2011/09/16(金) 20:38:41.26 ID:zjenIbXY
餓鬼道=ぼったん、今日感じる日々w
ほめてくれええw、ぼくちゃんはえらいのだあwと思うぼったんの日々の妄想w
636 :
餓鬼道ぼったん久しぶりw:2011/09/16(金) 20:42:33.03 ID:zjenIbXY
たろすけ=修羅道
こういう感じかもw、
ぼったんは余裕のポーズで餓鬼道w
とはいえ、ぼったんは僕ちゃん偉いのだw餓鬼道で自己を直視せずに
余裕の、居ぬ、レスの無駄だ、と言う、余裕のポーズで自己防衛できた気分妄想ww
637 :
餓鬼道ぼったん久しぶりw:2011/09/16(金) 20:50:19.23 ID:zjenIbXY
ぼったん、たろすけ、は自分自身を騙すのが得意だねw
習慣なんだろうなw
純粋と言う言葉よりも遠い、虚栄、見栄、虚勢、空虚、ていう言葉のイメージがよく似合うw
638 :
餓鬼道ぼったん久しぶりw:2011/09/16(金) 20:57:29.67 ID:zjenIbXY
宗教戦争と言うのも、案外、純粋な精神の喪失、虚栄、見栄、虚勢、が原因かもなW
純粋さ、正直さが、無い奴は、
ぼったん、たろすけのように、
どこまでも虚栄、見栄、虚勢、空虚の世界で自分自身を騙して、他者と関わる、
詐欺師にまともな人間関係困難なのも良く理解できるなW
自己の病的な欲望を基本として詐欺行為をするんだろうなW
うーーん、ぼったん的餓鬼道W
639 :
餓鬼道ぼったん久しぶりw:2011/09/16(金) 20:59:41.99 ID:zjenIbXY
ぼったん、たろすけによれば、たぶん、禅の基本は虚
栄、見栄、虚勢、空虚の世界で自分自身を騙すことから始まるのだろうW
640 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/16(金) 21:35:35.10 ID:vwYAoudq
盤珪禅師「うす引き歌」?「本心歌」
不生不滅の本心なれば、 地水火風は仮の宿?
(不生不滅の本心が宿るこの身体は地水火風の四大元素からなる仮の宿のようなものだ。)
?
生れ来りしいにしえ問えば、何も思わぬこの心?
(我が身がこの世に生まれて来た昔を考えると、何も思わない無念無想の清浄本源心と共に誕生したのだ。煩悩はその後に身につけたもので元々は無かった。)
来る如くに心を持てば 直にこの身が生如来?
(この世に生まれて来た昔の無心な清浄心に立ち返れば、そのままこの身が生き仏である。)
迷い悟りはもと無いものじゃ、親も教えぬ習いもの?
(不生の本心は親から教えられて習うようなものではなく、迷いや悟りも元々無いものだ。)
?
無為の心はもとより不生、有為が無き故迷い無し?
(不生の本心には元から、はからいや変化はないので心に迷いも無い。)
嬉しめでたや老せぬ君に、尋ね会うたりゃ我ひとり?
(嬉しく目出度いことに、不老不死の不生の本心に遂に会うことができたが、会って見ればそれは 真の自分自身であった。)
仏道修行をつとめし後は、何も変わりは得ぬものぞ?
(仏道修行に励んだ結果、悟ったけれども以前と特に変わりはない。)
?
奇妙不思議は一つも無いぞ、知らにゃ世界が皆不思議?
(悟って見ると、世界の一切がありのままに見えてくる。そこには奇妙で不思議なことは一つも無い。むしろ悟る前の方が皆不思議に見えたものだ。)
?
悟ろ悟ろとこの頃せねば、朝の寝ざめも気が軽い ?
(この頃は悟ろう悟ろうと求める心が止んだので、朝もすっきりと目覚め心も軽いものだ。)
641 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/16(金) 21:36:19.57 ID:vwYAoudq
>>640 安く養う浄土はここよ、五万五万の億も無し?
(安養浄土(=極楽浄土)は、お経に説かれるように、西方十万(五万五万)億土の遠くにあるのではない。煩悩苦患が無い真の極楽浄土は今この我が身にあるのだ。)
?
安養浄土はここより外に、五万五万の億も無し?
(安養浄土(=極楽浄土)は、お経に説かれるように、西方十万(五万五万)億土の遠くにあるのではない。 今ここにあるのであって、この身の外にあるのではない。)
?
五万五万の億も無し、安養浄土はここじゃもの?
(安養浄土(=極楽浄土)は、西方十万(五万五万)億土の遠くにあるのではない。 今、この身にあるのだから。)
?
我と浄土をたづねて見たら、けつく仏に嫌われた?
(真の自己と浄土を外に求めて尋ねたら、見当外れのことをするなと仏にきつく嫌われたものだ。)
?
因果歴然わがなすことを、知らで迷うは身のひいき?
(因果の法則を知らずに、悪業を重ねて迷うのは我執・身びいきからくるものだ。)
?
仮の火宅に心を止めて、我と燃やして身を焦がす?
(火宅に喩えられるこの世の五欲(財産欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲)に執着し追い求めるのは、我と我が身を燃え焦がすようなものだ。)
惜しや欲しやと思わぬ故に、いわば世界が皆わがものじゃ?
(この世の五欲(財産欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲)への執着から離れてみれば、この世界の一切が我がものとなる。)
?
昔思えば夕べの夢じゃ、とかく思うは皆うそじゃ?
(昔思い迷っていたのを今思えば、はかなく消える夢のようなもので、本物ではない)
その解説はまるでなってないからつけんほうがいいよ。
643 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/16(金) 21:40:25.12 ID:vwYAoudq
不生とは、
分別しない、
である。
644 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/16(金) 21:41:53.27 ID:vwYAoudq
645 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/16(金) 22:28:00.13 ID:vwYAoudq
白隠禅師 坐禅和讃
白隠は禅を庶民にも分かり易く説いた。
衆生本来仏なり、 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。
衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ、
たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。
長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。
六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇地なり。
闇地に闇地を踏みそへて、いつか生死を離るべき。
それ摩訶衍の禅定は、称嘆するに余りあり。
布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、
其品多き諸善行、皆此の中に帰するなり。
一座の功をなす人も、積みし無量の罪ほろび、
悪趣いづくにありぬべき、浄土即ち遠からず、
辱くも此の法を、一たび耳にふるゝ時、
讃歎随喜する人は、福を得ること限りなし。
いはんや自ら廻向して、直に自性を証すれば、
自性即ち無性にて、既に戯論を離れたり。
因果一如の門ひらけ、無二無三の道直し。
無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず、
無念の念を念として、謳ふも舞ふも法の声、
三昧碍礙の空ひろく、四智円明の月さえん。
此時何をか求むべき、寂滅現前するゆえに、
当処即ち蓮華国、此の身即ち仏なり。
646 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 03:02:43.09 ID:543zgvTD
647 :
素人A:2011/09/17(土) 06:18:26.12 ID:u8Eay5kR
続き書かんといかんのか.制感の行私は実行しているのか?全然出来不出来。でも毎日寝ているし
深く寝ている時もある.どうせネタだし面倒だけど次行こう。 〔凝念〕三の一 凝念とは.心を
特定の場所に縛り付けておくことである。
これから前章につづいて.・・この三部門はヨーガの内的部門であって.総称して綜制という.綜制
に属する三部門は一続きの行法体系をなしていく.実際は区別出来ない。さて凝念は制感とは反対に
積極的な心理操作であつて.特定の場所を選んで.そこえ心を縛りつけておくことである。・・この
心理操作は意の働きによつて行われる。「場所」という語は.凝念の対象が具体的なものであることを
示している。例えば.鼻の先.へそ.心臓.などの体の一部や.外界のある事物などが注意集中の対象
に選ばれる。「縛りつける」というのは露骨な表現であるが.心を動かぬように固定することである。
凝念からの部門に入るには.制感の行がじゅうぶんに修習された後でなければならないことは断るまでもない。
私の仲の制感終えたほとけは私を凝念しているのか?何故かいまここの此処の場所に縛り付けられている?
修行じゃ?まあ善いか。そんなにがん張らないまあぼちぼち。あとは他外あしたに続く
第一に無念を打ち立てて宗旨とし、無相を本体とし、無住を根本とするものである。
無相とは、かたちを認めながらそれに執われないこと。
無念とは、ものを思 いながら思いに執われないこと。
無住は人の本性であるから、世間の善悪や、美醜、もしくは、怨みと親しみ、
言葉の刺激やだましあい、すべてそれらは仮の姿で実体のないものと考えて、
あだを報いようなどと思わず、一瞬一瞬の意識のうちに、過ぎ去ったものを思い浮かべないことである。
もし過去の意識と現在の意 識と未来の意識とが一瞬一瞬に連続して断ち切れるならば、それを束縛という。
逆にすべての存在に対して、一瞬一瞬に意識が執われないならば、それこそが束縛がないことだ。
これを無住を根本にするというのである。
諸君、あらゆる かたちに執われないことを無相という。
ほんとうに姿かたちの執われを離れるときは、たちまちそのものの本体は清らかなありのままのものとなる。
これが無相を本体とするというのである。
諸君あらゆる対象に対して、心が汚れないことを無念という。
自己の意識の上で、いつもあらゆる対象からわずらわされず自由であって、対象について心を起こさない。
もしまったく何ものも思わず、思いを全部除ききってしまうならば、
その人の最後の意識が断ち切れるときはそのまま死んでしまい、別の世界に生まれ変わるであろう。
修行者よ、よく考えよ。教えの意味を知らねばならぬ。自分が間違うのはまだしも、
間違いを更に他人に勧め、自分で迷って真意を見ないで、そのうえ仏の説かれた経文をそしるのだ。
だから私は無念を立てて宗旨とするのである。
諸君、何故無念を宗旨と立てるのであるか。
それは、ただ口先で見性を説いても、本性を見ていない人は対象に対して意識を起こし、その意識ですぐに誤った
考えを起こすため、あらゆる煩悩や妄想が、そこから出てくるからである。
自己の本性は本来これであると認めるべきものはなにもないのである。
もし認められ るものがあってみだりに禍福があるなどと説くならば、
これこそ人間の心を迷わす煩悩であり、因果を無視した妄見である。
というわけでここに説く教えは、無念を立てて宗旨とするのである。
諸君、無とは何がないのか、念とは何を念ずるのであるか。
無とは、主観、客観の対立がないことであり、人間の心を迷わす多くの煩悩の心がないことである。
念とは、ありのままの本性を念ずることである。ありのままであることは、つまり念の本体であり、
念はすなわちありのままであることの働きである。ありのままの自性が念を起こすのであって、
眼や耳や鼻や舌に念ずる働きがあるのではない。
ありのままということは、人に生まれながら備わっている心があることである。
だから念を起こすのである。もしありのままということがないならば、
眼や耳やそれに映ずる物の色や形や音声はたちまち滅びてしまうであろう。
諸君、あ りのままの自性が念を起こすから、眼耳鼻舌身意の感覚器官は、
見聞覚知の働きをもちながら、さまざまの対象に汚されず、
しかも人が本来具えている本性はいつも自由自在なのである。
外の対象に対しては、はっきりとあらゆる姿かたちを認識しながらも、
内心には究極の真理をふまえていて微動だもせぬのである
(或る者が)「この頃お示しいただいた不生の理について、近頃は有り難くおぼえるようになりました。
しかしながら、凡夫心だからか、怒って腹が立つことが多いです。
これを止めようと思って、怒りの心を止めますけれども、また生じてしまい、ついに止むことがありません。
このようなことは、どのようにして止めれば良いのでしょうか」と問うた。
禅師の御返答は「その怒りを抑えることは悪い心得である。元から、この心は1つであり、
その1つの心から出る怒りを止めようと思うなら、一心が2つになり、
走る人を後ろから追いかけるようなもので、走るも自分、追うも自分となる。
この心を辿って申し添えるならば、茂った木の下を掃除しているのに、上から木の葉を散らすようなものである。
払い避ければ、サッパリとなるが、また後から散らすようなものである。
止めようと思うのが悪いのである。だからこそ、その起こる念に関わらず、ただ止めようとも思わないのが良いのだ。
止めようとも、止めまいとも思わないのが、不生である」と仰ったところ、彼の人はこの答えを納得し「さてもさても、ありがたや」といって去っていった。
>>629 盤珪さんが中国人の超元禅師から筆をもぎ取って
庭に投げ捨てた伝記は、なかなかエエ話やなー
と思ったけどね。「文字とか言葉ではないんやー !」
みたいに気合が伝わってくるというか、
印可もらってトーゼンというか・・
エスキモ−に生活保護法を適用したら、
いちどきにアル中が増えたのは有名な話である。
アザラシ漁でカツカツの暮らしを立てていたころの
エスキモ−には、酒など高嶺の花だったのだ。
大阪の寒山寺の宗徒だった超禅という男は和泉の庄屋で、
黄檗宗の龍渓和尚に参じて、なかなかの出来と褒められていた・・
http://www5a.biglobe.ne.jp/~oneness/ichi_hp2_261.htm
>>599 これは 「趙州狗子」 と同じで、
A. 俗物自我の場合
B. ほとけの感覚の場合
二つにパターン分けして説明してるに
すぎないのだ、ダレとは言わんけど、このAとBが
ごっちゃになって説明が分けわかんなくなっちゃってる
人たちいますよねー・・
そんでね、このAとBは頭の中のスイッチで
切り替えることができるわけでね、たとえばSPEEDの
ツインボーカルシステムとか、お遍路さんの同行二人の
本来もともとの意味がそれなんですけどねー・・
なんか前スレあたりで話題にした、従容録九十六に
あった九峰不肯の結論ですけど、この 「未夢見在」 の
動画見つけました、寝てはいるけれどまだ夢が
はじまっていないうつらうつら状態のことです。
クリシュナムルティが詩集でさかんに連発してたり、
鬼和尚も目覚めたものは夢を見ないのじゃ、とか
言ってるのでインドで流行ってるらしいんですが、
訳がイマイチの誤訳なんで正しい意味はこの
子犬師匠が教えてくれます。
(ねむたい子犬)
http://www.youtube.com/watch?v=Zx6abx84Y3E
お師匠様が、12月1日に、修行僧達に示していわれるには「私のところでは、
通常の平成が定座でありますから、あちこちのように『今日から定座』などと言って、
特別に必死に務めるようなことはないのです。
眠っている僧がいて、それを或る僧がビシッと叩いたのを、私は叱ったことがありました。
気持ちよく寝ている者を、どうして叩くのか。
眠ってしまえば、あの僧は別のものになってしまうというのだろうか。
(坐禅中に)寝ていろと勧めたりはしないですけれども、眠ったからといって叩くのは、違っているように思うわけです。
今の私のところでは、そのようなことはさせません。眠りなさいと言って、勧めもしませんが、眠っていても叩くことも叱ることもありません。
眠ることを、叱りも誉めもせず、眠らぬことを、誉めも叱りもいたしません。起きれば起きたまま、寝れば寝たままに、眠れば覚めた時の仏心で眠り、覚めれば眠っていた時の仏心で起きている。
眠れば仏心で眠り、覚めれば仏心で覚めていれば、不断の仏心ということになり、常にほかの物でいるというようなことは、しばしの暇もないわけです。
それを眠っていれば、ほかの物になるように思うのが誤りである。起きている時ばかりが仏心で、寝た時にはほかの物になるのならば、法の究極の所ではなくて、不断に流転してしまうというものであります。
皆が、仏になろうと思って精を出す。だからこそ、眠れば叱ったり叩いたりするが、それは誤りです。仏になろうというよりも、皆、人それぞれに親が産み付けたのは、(仏心の)他の物として、産み付けたわけではないのです。
ただ、不生の仏心で寝て、起きれば仏心で起きていれば、普段の生活から「活仏」であるわけで、何時か、仏でないということはないわけです。常に仏なのだから、
この他に、また仏になろうといってもあり得ません。仏になろうとするよりも、仏でいることが良い行為になって、(仏への)近道ですぞ」と。
656 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 17:09:38.56 ID:HUBlCd+t
坐禅と見性第58章 二は二ではない一の如し
http://unkar.org/r/psy/1213112495 457 :神も仏も名無しさん[sage]:2008/07/01(火) 13:44:20 ID:D5zYeFHX
趙州洗鉢
趙州、因みに僧問う、某甲乍入叢林、乞う師、指示せよ。
州曰く、喫粥し了りしや未だしや。
僧云く、喫粥し了れり。
州云く、鉢盂を洗い去れ。
其の僧省あり。
僧云く、某甲 乍入叢林、乞う、師、指示せよ。
州云く、喫粥了 や、未だしや?
僧云く、喫粥了。
州云く、鉢盂を洗い去れ。
其の僧 省有り。
或る日のこと、一人の僧が趙州の前に出て来て、「某甲 乍入叢林、乞う、師、指示せよ」「私はつい近頃、当山に参りましたばかりの駆けだしの者でございます。これから、どう修行したら宜しいか、何卆お示し下さいませ」と挨拶した。
和尚、一見して「こやつ、自分で駆けだしの未熟者などと言ってるが、少々修行は出来てる奴、但しその悟りの匂いをまだプンプンさせている程度じゃわい」と看破したが、さりげなく「喫粥了や、未だしや」「もう食事は済ませてきたか、未だか?」と問われた。
この僧こう尋ねられて「喫粥了」「はい、済ませて参りました」と鼻をうごめかして答えた。
すると趙州、「おう、そうか。それじゃのう、使った鉢盂・飯茶碗をよく洗っておきなされよ」「鉢盂を洗い去れ!」と言われた。
こう言われて、この僧「省有り」で、今後どのように修行すべきかに就いて気がついたというのである。」
657 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 17:13:24.13 ID:HUBlCd+t
>>656 この問答は表面上、食事は済ませてきたか?
はい済ませて来ました。
それなら食器を洗っておけよ、という。
先ず「食事を済ませて来たか、未だか」とは、単なる食事のことではなく、「悟りを開いて来たか、どうじゃ」という探りであり、この僧さすがに問いの裏の意味を心得ていて「一応の悟りを得て参りましたという肚で、はい、食事を済ませて参りました」と応じた。
ここまで言えば、趙州が「鉢盂を洗い去れ、飯茶碗をよく洗っておけよ」といったのが、「悟りを開いたら、悟りの滓をきれいに洗い去っておけよ」という肚であることは、鈍いお主らにも分るだろう。
古来、「味噌の味噌くさきは上味噌にあらず。
悟りの悟りくさきは上悟りにあらず」と言われているが、確かにその通り。
悟りをひけらかしたり、悟りの臭みをプンプンさせているのは、まだまだ未熟な証拠じゃ。
どなたの作か知らないが、瓢箪の絵を描いて、それに「有る鳴らず無きまだ鳴らずなまなかに 些し有るのがポチャポチャと鳴る」と賛をしたお軸を拝見したことがあることを、今、提唱している間にフト思い出した。
瓢箪の口までタップリと酒が入っておる瓢箪は振っても音がしない。
酒が全く入っていなければ、勿論鳴らない。
それが酒が少々入っていると、いかにも酒が入っておりますぞと宣伝するかのように鳴る、というのである。
悟りが浅くわずかでありその滓がこびりついている間は本物ではない。
趙州和尚の「鉢盂を洗い去れ」の一語は、「悟ったら悟りの滓をぬぐい去ること、それが今後の修行の課題である、そのつもりで修行をなされ」という、まことに適切なお示しなのである。
禅の問答というものは、表面上は、木に竹をついだようにも見えるが、よく味わってみると、その裏に深い滋味のかくされていることが分ろう。」
☆彡
そうなのか。
同じ公案を同じくさとるのであるが、
公案を出すお師家さまのの問いがあり、答えがある、といえる。
わたしは、色即是空を問い、色即是空を答え、
ならば、と
空即是色を問い、
>其の僧省あり。
であると観た。
658 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 17:15:17.33 ID:HUBlCd+t
659 :
神も仏も名無しさん:2011/09/17(土) 17:39:12.03 ID:ZH9qDjma
660 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 20:00:31.93 ID:HUBlCd+t
661 :
たろすけ:2011/09/17(土) 20:13:40.17 ID:k7Rzc5Bp
>>627 > 他者への非難は自分から目を背けようとする行為であるから気を付けましょう。
では、覚醒してない者が一義を適応する時は、自らの悪行為(〜迷惑行為)を覆い隠そうとしている場合が
あるので、自らを省みて気をつけて下さい。
さて、何度も繰り返しますが
私はそちらの述べた内容を余りドウコウ言ってないですよ。
只、ソレの述べるタイミングとレス姿勢に納得出来ないから反応をデフォルトにしなかったんですよ。
663 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 21:07:29.65 ID:HUBlCd+t
趙州録
趙州 衆に示して云く、老僧 三十年前、南方に在(あ)りて、火炉頭(かろとう)、箇の無(む)賓主(ひんしゅ)の話(わ)有り。直(じ)きに如今(にょこん)に至るまで、人の挙著する無し。
趙州和尚、或る時、上堂して会下の大衆に向って、
儂は昔、三十年程以前になるが、南泉老師の下で修行し、更に南方の各地を行脚して廻っていた頃のことじゃが、「火炉頭に賓主無し」と言ったことがあった。しかし、その 後、今日まで、儂のこの語を本当に理解して挙揚しているものは居らんわい。
しかし「火炉頭に賓主無し」という語が面白いので、これを我流に解釈した私釈を披露して、久参の上士と更に世の識者の御示教とを乞おうと思う。
「火炉頭」というのは、火炉のほとりということで、火炉とは、暖炉・囲炉裏・大火鉢、今日ならばストーブなどのことである。
又、「無賓主」とは、賓主の別が無いということである。
臨済和尚に『賓主歴然』の公案のあることは、御承知のとおりである。
賓主とは客と亭主、客観と主観ということで、賓主歴然とは、差別が歴然としていることである。
大と小、長と短、男と女、老と幼などの差別がはっきりしていることである。
従って「無賓主」とはその反対に、差別が無く一味平等だということである。
「火炉頭に賓主無し」とは、炉端では長幼・男女などの差別が無く皆平等であり、睦み合っている。
炉は禅堂に常設されてはいるが、この炉が実際に開かれ火が入るのは陰暦の十月一日からで、翌年の三月の末には閉めることになっている。
冬になり寒くなると禅堂にもこのように炉が開かれるが、その炭火はほんの僅かでしかなく、しかもその側に寄って暖をとれるのは、修行歴の古いものや役位の者だけで、駆けだしの若い者などが寄りつくことは許されない。
その意味で、普通の場合においては「火炉頭 賓主歴然」である。
ところが冬の摂心会いわゆる雪安居の終る冬至の夜、いわゆる「冬夜」には、囲炉裏や大火鉢に炭火がドッサリと置かれ、長老と若僧、先輩と後輩との差別がなく、手をかざして暖をとりながら団欒するのがならわしである。
664 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 21:11:33.93 ID:HUBlCd+t
665 :
神も仏も名無しさん:2011/09/17(土) 21:43:24.82 ID:ZH9qDjma
いろいろなところでいろいろな断末魔があがっている
666 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 22:08:28.42 ID:HUBlCd+t
667 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 22:10:47.76 ID:HUBlCd+t
478KB/500KB を消費。
668 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 23:14:07.55 ID:HUBlCd+t
趙州録 庭前の柏樹子
_,. -―――- .,_
/ !二_'ヽ、` 、
/\ `¨´ ,.、ヽ
,'::::::::ヽ .!_| ', 修行僧 趙州に問う
i::::::::::::〉 i 如何(いか)なるか是(こ)れ祖師西来意(そしさいらいい)?
.|::::::::::/ | }.: .|
|;=、::| ‐-ニ''_ー<、{_,ノ -一 |
!ハ.Y . ぇ'无テ,`ヽ}}}ィt于 `|
|.Y }. `二´/' ; |丶ニ ノ
ト、リ ヾ:、 丶 ; | ゙ イ
.l ` ,.__(__,} /
! `'゙! ,.,,.`三'゙、,_ /
,/´{ ミ l /゙,:-…-〜、 ) |
,r{ \ ミ \ `' '≡≡' " ノ 庭前の柏樹子(ていぜんのはくじゅし)。
__ノ ヽ \ ヽ\ 彡 ,イ_
\ \ ヽ 丶. ノ!|ヽ`ヽ、
\ \ヽ `¨¨¨¨´/ |l ト、 `'ー-、__
|
669 :
野孤禅スレです:2011/09/17(土) 23:32:46.30 ID:Izk1pmfE
ここはタイトルとは真逆の擬似似非の野狐禅を展開している糞スレである。
ポッタンと称する者が師家気取りを演じている。(本人曰、糞スレだから銀蝿が湧いてしょうがないと)
自己愛性人格障害のこの者は坐禅修行もろくにせず、名誉欲や偽善心、虚栄心など我執煩悩が旺盛である。
三昧と執着の違いも分らず、三昧であれば何でも禅と言い放って、もっぱら日々、競馬三昧、2ch三昧にのめり込んでいる。競馬や低俗なコピペを方々に貼付けては顰蹙を買うほどの俗物である。
本人は無師独悟とか称して、隻手の音を聞いた、その後次々と公案を透ったと大見栄を切っている。
しかし所詮、自分免許の浅はかさ。書込みからは証悟の片鱗すら伺い知ることはできない。
一例が「私は払子を立てた。これが私の禅です」と坊主の真似事が禅だと、恥とも知らず失笑を買っている。
そんな者がどこからか禅語をコピーしては、矛盾に満ちた皮相的で幼稚な取るに足らない曲解を書き込んでいる。
突っ込まれて答えられない質問には、恥隠しのはぐらかしや長文コピペで誤魔化すこと枚挙に暇がない。
またときに、尊大な我執による妄想妄念から、あられもない説法をしでかす。
「すずめさんがチュンチュンとこんにちは、タンポポさんがニコッとこんにちは」と幼児童話レベルの妄想が禅の悟りであると吹聴している。
しかも30年近くもこの有様というから愚かの極みで、恐らくボタンを掛け間違ったまま生涯を終るものと想像できる。
野狐禅に陥ったら、五百生間狐となって迷妄の深淵から抜け出せないというよい例である。
この様に我執に塗れた者が無我を語り、見性せぬ者が空を語るなど、入門者でも胡散臭さを感じて俄に信じる者はいないとは思う。
しかし中には、類は類を呼ぶ、同病相哀れむという諺通り、ポッタンを師とする者が現れた。
素人Aというポッタン酷似の者で、なにやら激しい妄想妄念を、誤字誤変換だらけで書き込んでいる。
最近は師への切替えが混乱し、妄想妄念も激しくなって分裂症も進んでいる様子である。
祖師禅とかけ離れたこの野狐禅スレに、間違って来られる入門者があるやもしれない。
しかし、よもやこの師弟に惑わされることはないと思われる。
万が一のため、ポッタンのように野狐禅に陥って人生を無駄にせぬよう警告の意味で記しておく。
670 :
野孤禅スレです:2011/09/17(土) 23:34:47.88 ID:Izk1pmfE
以前、ポッタン野孤禅の行き着く先が、禅に届かぬ絶望感と人格破綻であろうと指摘したことがある。
その兆候が、すでに”雪担氏との会話”の中にあり、ポッタンの性格が異常なものであることを紹介した。
その人格破綻の進み様が、最近の書込みに見れ取れる。
まずは、ポッタンによる無門関「久響竜潭」の書込みの中に、その徴があるので、それを見てみよう。
ポッタン曰 「まっ暗闇は、昼間の明るさの中で、色は、ひとつずつが他と区別して独立している。真っ暗闇に差し出された紙燭の灯りに浮き上がってきた世界はまさにリアル、色の世界である。
ふっと吹き消された世界は、何も差別できない無分別の世界、空である。空であるから、金剛経の注釈書を積みあげ、一句を唱えて引導を渡し松明で火をつけた。」 とある。
竜潭和尚の慧敏な禅のはたらきには気づかず、読み取ることができないポッタンの非力さである。
以前の眼横鼻直での 「眼は水平に自由を、鼻は縦に主体性を表す」と同レベルの、相変わらず皮相的で字面を追い掛けた解釈と幼稚さで、コメントに値するものは何もない。
そして 「だが、(途中略)この人は、空だけを見ただけである。隻手の音声で言うところの、片手の他人がたたく拍手の音を聞いただけである。ここから空即是色へと立ち戻らなければならない」 と続く。
吹滅の因縁を、見解とはいえない屁理屈でしか捉えられないのは、ポッタンの貧粗な力量なら仕方が無い。これでは、香厳撃竹の因縁も分かる筈もない。今は一応、失笑しつつも目を瞑っておくとしよう。
ところが、「師家である竜潭和尚の力不足である。 こうして徳山は竜潭和尚の法を嗣ぐことになった、と言うことであるが、空即是色が未だ透らずである。」
と徳山、竜潭和尚の力量を、ポッタン野孤禅師匠の比ではない、と大言壮語しているのである。
野孤禅を次々暴かれ、後が無いポッタンにとっては、徳山、竜潭の両和尚をコケにし、貶すことによって、ポッタン野孤禅師匠は偉大なり、と虚勢を張りたい気持ちの裏返しである。
ポッタンは、(愚かで悪いのは、ポッタン野孤禅を理解しない世間であり、我こそが大覚者なのだ)、とカルト教祖の論理を主張したいのである。
その伝でいくと、仕舞に全ての祖師方々否定してしまうのは間違いなさそうで、自我肥大のパラノイア(誇大妄想狂)は、深く々々、人格の破綻が進行しているようだ。
671 :
野孤禅スレです:2011/09/17(土) 23:36:49.09 ID:Izk1pmfE
前回は、ポッタンの貧粗な力量を省みずに、雪担老師、更には古仏の徳三、竜譚和尚までも貶し、悟りが不十分と豪語したポッタン、その自我肥大異常性格を暴いた。今や、その自我肥大は止まる事を知らず、人格破綻へと、まっしぐらである。
最近、頻繁に使っているのが、無師独悟(独覚)とかいうポッタン造語である。
無師なのは、本人によると、人嫌いによると言っているので、普段の幼児並性向から、異論を挟む余地は全く無い。
しかし、独悟や独覚となると、悟ったものでも憚り多くて、なかなか口にできる言葉ではない。それを機会ある度に、常套句のように喧伝しているのは、自我の肥大化がどこまで進んで行くのか、の感がある。
本人は 「決して自慢、ひけらかしていってるものでは、ありません」と言い訳しているが、額面どおり受け取るのは安直である。
その言下に「お釈迦様も、沙羅樹の下で瞑想され、暁の空に輝く明けの明星を見られて悟られたのだよ、と言っています。と言うことで、私の無師独悟は、お釈迦様と同じ無師独悟の仲間です。」 と舌の根が乾かぬうちに、本心が別にあると言っているのである。
上から目線はポッタンの常であるが、ポッタンの無師独悟は、釈迦と同様に崇高なものだと、本音が透けて見える。
形は似ているが、内容は月とスッポン、魚目燕石である。
ここまで自我肥大が進行すると、悟りなど無論、望むべくも無い。 自我清算のない悟りがあろう筈もないからである。
しかも、過去スレでは時折、坐禅などいらぬ、と本音を吐露していた坐禅修行が嫌いなポッタンである。
歩み始めた第一歩から、自我清算の方向ではなく、自我増大に走ってしまったのがそもそもの間違いで、しかも正す者のない無師が致命的であった。
三十余年間、肥しにもならない糞知識を頭に詰込むだけで、坐禅修行を怠ってきた代償は余りにも大きく、そのつけが今になって回ってきたのである。
その期間を、自己に謙虚になって、まともに修行していたならば、ここまで自我肥大化していなかったであろうし、少しは悟りに近づいていたとは思うのである。
失った時間が取り戻せる筈も無いが、自我が強大になってしまった上、高齢の今になって、自我の清算など到底適わぬ事であろう。墓場まで野孤禅を連れて行くのは仕方ない。
賢明な諸氏には、決してポッタンの様な轍を踏まず、坐禅修行に力をいれて貰いたいと思うのである。
672 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 23:39:24.01 ID:HUBlCd+t
673 :
野孤禅スレです:2011/09/17(土) 23:43:32.14 ID:Izk1pmfE
無字は、初めて参禅するものに与えられる公案である。これがまた曲者で、中々透して貰えず、艱難辛苦、大変な苦労を強いられる。
それもその筈である。この世に生を受けて以来、永年染み付いた黒白つけたがる分別相対観念を根こそぎ絶つことを試されているのである。チットやソットのことで透過できる訳が無い。
昔、菴原の平四郎というものが、大憤志を発し勇猛の一機で妄想魔境に打ち勝ち、僅か三日で見性したらしい。これなどは稀で、我々凡夫は、昨日より今日、今日より明日、薄皮を一枚々々剥ぐように、自我を清算していくしかない。
そんな凡夫でも、日々努力を続ければ、因縁が熟した時、何かの契機に見性は訪れる。それは一瞬の出来事かも知れない、暫しの事かもしれない。
見性の深さも人による。大疑念のものは牛の大半を見るかも知れない。そうでないものは尻尾だけかも知れない。
臨済にしろ白隠にしろ再参して大悟したくらいだから、鈍根な我々凡夫は、一度の見性で一見便見の様には行かない。
見性体験は、将に身を削る、自我清算の修行があってのことである。修行も無く知識を詰め込んだだけの見性などありえなく、逆に我見を益々強めて遠ざかることにもなる。
ましてや、2chに入り浸り、互いに貶し罵りあい、自我を研いている様では、到底、叶わぬ事である。
また、一たび、我見我慢我欲を清算した後、見性して初関が透れば、無や空がガラーッと分かるものである。
世間には、無や空は観念、概念だから書物で学べば分かるものだ、と甚だしい勘違いをしているものがいる。
書物で無や空が分かり、こと足れりと済むなら、達磨が中国へ渡ることも無かったし、禅はとうの昔に滅んでいただろう。
書物に書いてある空や無の解説は、いわば薬の能書きみたいなもので、読んだから病気が治るわけではないのと同じである。
ポッタンは、「飲み屋の女から金色の炎が立ち上がるのを見た」とか「父親に、最近、世界が違って見える、と話した」などと、見性したかのような思わせ振りを語っている。
しかし上述から分かると思うが、強烈な自我が、一度も整理、清算出来ていない俗物に、見性などありえない。これは毎度お馴染みの、彼の虚栄心や自己顕示欲から来る作り話であろう。
仮に事実としても、何か脳の悪い病気に冒されているか、89をやった副作用か、あるいは何かの幻覚ではないのかと疑われるのである。
674 :
野孤禅スレです:2011/09/17(土) 23:45:33.70 ID:Izk1pmfE
以前、何処かのスレで、禅入門者が2chで真に悟りを得ている者か否かの見分け方を知りたい、という質問があった。
悟りを得ている者を見極めるのは、入門者には難しい。何をもって悟りを得ているかということからして難題である。
しかも、悟りの境地、境涯というものは、同じく悟ったものにしか窺い知れぬものである。
その上、ある者を悟ってると思っても、それは同じ境地にあるだけで、より悟ったものから見れば、未熟ということがよくあることだ。悟りに終着はなく、生涯の課題なのである。
また仏教知識を理路整然と捲くし立てるものが悟っている訳ではない。それは全くの別物である。
有余る知識を持つ理論家が悟っているのであれば、仏教学者は皆悟っていることになる。しかし現実はそうではない。
むしろ、自らの知識の呪縛にあって悟りを得られない方が多いかもしれない。
以前にも言ったことだが、知識は薬の能書きみたいなもので、能書きをいくら集めても、薬効が得られないのと同じである。悟りに知識は無用なのである。
一方、偽の悟りを見分けることは、入門者にも難しいことではない。
まず、偽者は悟りの心境にないので言葉も行為も軽く浮ついていることである。一端の理屈を語っても、こと行動や態度となると、如何に繕っても隠すことはできず、言葉について行けない。所詮、借り物の言葉でしかない。
例を挙げてみよう。ポッタンは、「区別しない」、「分別しない」と頻繁に口にする。(もっとも逃げ口上に使われることが多い)
しかし、本人はこの言葉の意味をよく承知してはいない。彼ほど区別しているものは珍しい位であるからだ。
彼はしばしば「マンゴー先生、素人Aという仏様に出会った」と語る。本人に好意的なものには、諂い卑下するが、逆に本拙稿のようなレスには、狗呼ばわりし異常なほど敵意をむき出し差別する。
また以前、何某から「悟っている」と煽てられては舞上がり、「あなたは仏様です」と手放しで喜んだ。かと思うと「勘違いでした。ポッタンは悟ってはいません」と取り消されると「あなたは悪魔のようです」と、手を還すようにコロッと態度を変えたこともある。
彼が他人の言葉に振り回され、私感情に振り回されるのは日常茶飯事であり、主人公々々々と説法するほど口程にもない。
この様に底が浅いので、言行不一致に注意を払えば、偽の悟りを見分ける簡単な方法の一つにはなるだろう。
675 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 23:47:33.29 ID:HUBlCd+t
>>669-671 居たのか 居ぬ
おまえの命も、例外なく短い。
いそげ。
問う、門前の痩せ狗にも仏性はございますか。
答える、無。
無頭児も、たまには考えるかー
答えをもってこい。
676 :
野孤禅スレです:2011/09/17(土) 23:47:34.88 ID:Izk1pmfE
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
||【このスレに来られた方へ】 ||
||★ここは野孤禅の本格スレです。まずそのことを充分、認識してください。 ||
||★野孤禅とはどういうものか、まともでない見本が満載です。 ||
||★ポッタン、素人Aと称するものの発言内容は、まさに野孤禅の見本といえます。 ||
||★素人Aとかいうものはポッタンの携帯黒子ですので、ご注意。 ||
||★この者達の自作自演が多々有ります。相手にならぬようご注意。 ||
||★同様に、かまって貰いたいが為のツリが多々見られます。相手にせぬようご注意。 ||
||★まじめな質問は別スレにてお願いします。 ||
||★誤って、禅の質問をしても、その回答はいい加減と思ってください。 ||
||★本スレの使用目的は、禅に関すること以外、ストレス解消、AAの練習等々、自由です。||
||★書き込む内容は、品格など一切問いません。 ||
||★あらしも排斥しません。 ||
|| 。 ∧_∧ ||
|| \(´・ω・`) いいかな・・? ||
|| ⊂ ⊂ )旦~ ||
||___∧ ∧___∧ ∧___ ∧ ∧__ ∧ ∧___| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|_______||
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧( ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
677 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 23:52:02.95 ID:HUBlCd+t
>>673-574 居ぬでも、いっこうにあるかなうやつもいる。。。
ぐるぐるまわって、めがまわるだろうに。
678 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 23:53:54.92 ID:HUBlCd+t
>>676 居ぬ
違うこたえお、まいかいいわなきゃな。
679 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 23:55:51.28 ID:HUBlCd+t
\ 趙州録
\ 童稚にして曹州の扈通院にて、師に従いて披剃するも、未だ戒を納めず。
. \ 便 ち池陽に抵り南泉に参じ、泉の偃息に値う。
. \ _______
\ r'´ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄`、::. ___
l} 、:: \ヘ,___,_ ______/::.__| .|___________
|l \:: | | |、:.. | [], _ .|: [ニ]:::::
|l'-,、イ\: | | ∧,,,∧ . |::.. ヘ ̄ ̄,/:::(__)::
|l ´ヽ,ノ: | | (´・ω・`) ,l、:::  ̄ ̄::::::::::::::::
|l | :| | |,r'",´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ、l::::: 泉問うて云く、近離何れの処ぞ?
|l.,\\| :| | ,' :::::... ..::ll:::: 趙州云く、瑞像。
|l | :| | | :::::::... . .:::|l:::: 泉云く、還って瑞像を見るや?
|l__,,| :| | | ::::.... ..:::|l:::: 趙州云く、瑞像を見ず、祗だ臥如来を見る。
|l ̄`~~| :| | | |l:::: 泉 便ち起坐して問う、
|l | :| | | |l:::: 汝は是れ有主の沙弥か? 無主の沙弥か?
|l | :| | | ''"´ |l:::: 趙州云く、有主の沙弥。
|l \\[]:| | | |l:::: 泉云く、那箇か是れ汝の主?
|l ィ'´~ヽ | | ``' |l:::: 趙州 近前して身を躬 して云く、
|l-''´ヽ,/:: | | ''"´ |l:::: 仲冬厳寒、伏して惟るに和尚尊候万福と。
|l /:: | \,'´____..:::::::::::::::_`l__,イ:::: 泉 之を器とし、其の入室を許す。
l}ィ:: | `´::::::::::::::::::::::::::::::`´::::::
680 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/17(土) 23:56:52.33 ID:HUBlCd+t
681 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/18(日) 02:05:10.55 ID:j/Z2UqWD
>>668 三 倶胝竪指
倶胝和尚、凡有詰問、唯擧一指。
後有童子。因外人問、和尚説何法要。童子亦竪指頭。
胝聞遂以刃斷其指。童子、負痛號哭而去。
胝復召之。童子廻首。胝却竪起指。童子忽然領悟。
胝將順世、謂衆曰、吾得天龍一指頭禪、一生受用不盡。言訖示滅。
三 倶胝(ぐてい)、指を竪(た)つ
倶胝和尚、凡そ詰問有らば、唯一指を擧ぐ。
後、童子有り。因みに外人(がいにん)問ふ、
「和尚、何の法要をか説く。」
と。
童子も亦、指頭を竪つ。
胝、聞きて、遂に刃(やいば)を以て其の指を斷つ。童子、痛みを負(お)ひ、號哭して去る。
胝、復た之を召す。 童子、首(かうべ)を廻らす。 胝、却りて指を竪起(じゆき)す。童子、忽然(こつねん)と領悟す。
胝、將に順世(じゆんせ)せんとするに、衆に謂ひて曰く、
「吾、天龍一指頭の禪を得るも、一生、受用して盡きざる。」 と。言ひ訖(をは)りて、滅を示す。
682 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/18(日) 02:10:47.76 ID:j/Z2UqWD
十 清税弧貧
曹山和尚、因僧問云、清税弧貧。乞、師賑濟。
山云、税闍梨。
税、應諾。
山曰、青原白家酒、三盞喫了、猶道未沾唇。
十 清税(せいぜい)孤貧
曹山(さうざん)和尚、因みに僧、問ふて云く、
「清税孤貧、乞う、師、賑濟(しんさい)したまへ。」 と。
山云く、
「税闍梨(ぜいじやり)。」
と。
税、應諾す。
山曰く、「青原白家(せいげんはつか)の酒、三盞(さんさん)喫し了りて、猶ほ道(い)ふや、未だ唇を沾(うるほ)さず、と。」
683 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :2011/09/18(日) 02:15:28.47 ID:j/Z2UqWD
十一 州勘庵主
趙州、到一庵主處問、有麼有麼。主、竪起拳頭。州云、水淺不是泊?處。便行。又到一庵主處云、有麼有麼。主亦竪起拳頭。州云、能縱能奪、能殺能活。便作禮。
十一 州、庵主(あんじゆ)を勘す
趙州(でうしう)、一庵主の處に到りて問ふ、「有りや、有りや。」 と。
主、拳頭を竪起(じゆき)す。
州云く、「水淺くして是れ?(ふね)を泊する處にあらず。」 と。
便ち行く。
又、一庵主の處に到りて云く、「有りや、有りや。」 と。
主、拳頭を竪起(じゆき)す。
州云く、「能縱能奪(のうじゆうのうだつ)、能殺能活(のうさつのうかつ)。」 と。
便ち禮を作(な)す。
684 :
チゥ(* ^)(◎o◎)ポッたん ◆oOmXnN8feI :
十三 徳山托鉢
徳山、一日托鉢下堂。見雪峰問者老漢鐘未鳴鼓未響、托鉢向甚處去、山便回方丈。峰擧似巖頭。 頭云、大小徳山未會末後句。
山聞令侍者喚巖頭來、問曰、汝不肯老僧那。
巖頭密啓其意。山乃休去。
明日陞座、果與尋常不同。
巖頭至僧堂前、拊掌大笑云、且喜得老漢會末後句。
他後天下人、不奈伊何。
十三 徳山の托鉢(たくはつ)
徳山、一日托鉢して堂に下る。
雪峰(せつぽう)に、「者(こ)の老漢、鐘も未だ鳴らず、鼓も未だ響かざるに、托鉢して甚(いづれ)の處に向かひてか去る。」
と問はれて、山、便ち方丈に囘(かへ)る。
峰、巖頭に擧似(こじ)す。
頭云く、「大小の徳山、未だ末後(まつご)の句を會(ゑ)せず。」 と。
山、聞いて、侍者(じしや)をして巖頭を喚び來らしめ、問ふて曰く、「汝、老僧を肯(うけが)はざるか。」 と。
巖頭、密(ひそか)に其の意を啓(もら)す。
山、乃ち休し去る。
明日(みやうにち)、陞座(しんぞ)、果して尋常(よのつね)と同じからず。
巖頭、僧堂の前に至り、掌(たなごころ)を拊(ふ)し、大笑して云く、「且らく喜び得たり、老漢、末後の句を會せしことを。
他後(ただ)、天下の人、伊(かれ)を奈何(いかん)ともせず。」