仏教 議論スレッド 19

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775神も仏も名無しさん
それでは、一代の主張を見ていこうか?ww
一代の主張は、「輪廻も転生も、生まれ変わりもある。そして、地獄もあるし、天もある。
そこに住する神々も、勿論いる。ただし、それらは、

→『実体ではなく、空性である。だから、無常、無我に抵触はしないんだ。』
その論建ては、
→『今、我々が存在するこの世界も、我々も空でしょ?仮設されてるだけでしょ?でも、
我々は無明に眼を閉ざされ、それらを現実のものと思い込んでしまう。それと同じことです。
生まれ変わりも、天も地獄も神々も、我々のこの世界と同じように空性であり、仮設
されたものであり、≪同じ次元、同じレベル≫で、有り得る訳です。』

とまあ、こんなものだろ?    さて、ここで一つ疑義を提示しようw

『生まれ変わり、天、地獄、神々 ・・  これらを我々の世界、及びそこの存在、現象と
等価に評価しても良いものか?』    つまり
『この世界、存在、現象は空であり仮設されたものである』
→『よって、生まれ変わり、天、地獄、神々も同じよう仮設されてある』   ここに論理の飛躍はないのか?w
776神も仏も名無しさん:2011/08/13(土) 22:08:44.48 ID:M5NvPx+n
これは逆に言えば、「生まれ変わり、天、地獄、神々」が、「この世界、存在、現象」と(空性、仮設
という点で)等価であると主張するなら、≪この世界の諸存在、諸現象のように≫知覚、確認、実在証明等が
なされなければならない。
この世界の諸存在、諸現象は(たとえそれらが空性であり、仮設されたものであっても、その範疇で)
知覚、確認、実在証明されたものである。
それら知覚、確認、実証を(上記ふたつのものを等価と認識するのに)
全く不要、無意味なものとし、「全てが空、仮設されたもの」という一点で括り、その他の全ての差異を
考慮しないことは妥当であるのか?
仏典に記述のある存在、現象を「この世界と同じように」認識して、それらは真実であると主張するのであれば、
「針の山、血の池地獄」などは、どこかの場所に「富士山や琵琶湖」のように存在している
ことになるわけだ。 富士山や琵琶湖は、その存在場所を提示可能であるが、針の山、血の池地獄は、その存在場所
は提示不能である。これらを「空性、仮設」で括り、どちらも同じであるとして差異をみないことが
仏教的方向性であるなら、結局、「仏典に記述があるか否か?」のみが問題となり、それらは「方便、比喩」という
視点も遺棄され、「全て事実」ということになる。
釈迦は、脇の下から生まれた。舌が顔を被った。生まれてすぐに立ち「天上天下唯我独尊」と叫んだ。
これらを全て事実とするほどの全能性を「空性、仮設」という語に与えて良いものなのかい?ww