仏教 議論スレッド 10

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957不説 ◆AnATTa/dJc
>>949>>952 セブン氏
「無い」というか、涅槃の境地(に到った後の状況)については、沈黙して積極的に語ろうとしない、
というのが、パーリ仏教(ブッダゴーサ以降のテーラワーダの伝統)ではないでしょうか?
馬場氏の論文を読んだのは随分前なのでかなりうろおぼえですが、そのようなことも述べられていた
ような気もします。
馬場氏の論文についてはともかく「語らない」=「見解自体がない」と見做すのには、私は賛成でき
ません。ブッダゴーサ長老は意図的にブッダが語らなかった“より高度な境地”について言語化する
ことを避け、そのようなことを語るため増設される後付け経典によって、古い経典の存在が希釈化さ
れ、結果軽んじられ、はてには歪められてしまうような歴史の流れになることを予見し、楔を打ちた
かったのだと思います。

伊勢神宮のように、式年遷宮によって定期的に更新するのも一つの在り方ですし、法隆寺のように、
最古の木造建築としてできるかぎり大切に伝統し維持しようとするのも一つの在り方。前者が大乗
の流れとすれば、後者が上座部の流れに例えられることになると思います。

私自身の選択としては和魂漢才・和魂洋才というのが日本人的だと思うので、時代の流れに合わせ
て柔軟に変遷する伊勢神宮式ライフスタイルが、俗世日本人として相応わしいんじゃないかと。だ
から、国際化時代だから、外国から上座部を直輸入(それも個人輸入)できる時代になったから、
派生商品を買うまでもない。一方一仏教徒としては釈尊の伝統に忠実でいられるから、ここは法隆
寺式でやはり上座部は最高! となる。──という感じですかね。