仏教 議論スレッド 10

このエントリーをはてなブックマークに追加
8084/6
 次に、縁起の因果関係が「時間的」か「空間的」かということについて少々述べておこう。
わが国ではいつも問題になるものであるが、これは多因多果ということと合わせて考えるべきであろう。
上記の定型句を見れば、ここには「縁―果」の「有」「無」、及び「生」「滅」が説かれているだけである。
その内容は、註釈(UdAna-A p.38f)を尊重するならば
「無明をはじめとする縁があるゆえに、行をはじめとする果が生じる。
無明をはじめとする縁が生じるゆえに、行をはじめとする果が生じる。
無明をはじめとする縁がない(=道によって捨断される)ゆえに、行をはじめとする果がない(=起こらない)。
無明をはじめとする縁が滅する(=道によって得達法性がもたらされる)ゆえに、行をはじめとする果が滅する(=起こらない)」
ということである。また、「あるゆえに」とは「ないことがないゆえに」、「生じるゆえに」とは「滅することがないゆえに」、
「ないゆえに」とは「あることがないゆえに」、「滅するゆえに」とは「生じることがないゆえに」と解せられる。
付言すれば、「あるゆえに」(sati)とは、現にある「縁の状態」を語りつつ、縁起の「無効性」(avyApAratA)を、
「生じるがゆえに」(uppAdA)とは、「果の生起に向かう状態」を説きつつ、縁起の「無常性」(aniccatA)を示すものにほかならない。
なお、ここで「ゆえに」と訳すのは、原文における於格(Loc.)、奪格(Abl.)の形が「原因」(hetu)を表すことによる。