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ここに、一因(kAraNa)から何らかの一果(phala)があるのではない。多があるのではない。多因から一があるのでもない。
ただ多因から多果があるのみである。なぜなら、多くの季節・土地・種子・水と称される因によって、
多くの色・香・味・などのある芽と称される果のみ生じるのが見られるからである。
しかし、〈無明という縁から諸行がある。行という縁から識がある〉とこのように【一因果の説明がなされるのは】、
【そこに意味があり、目的があってのことである】。というのは、世尊は、
説法の優雅さと教導される者たちとに相応しいように、
ある場合には主要なもの(padhAna)であることから、
ある場合には明白なもの(pAkaTa)であることから、
ある場合には共通しないもの(asAdhAraNa)であることから、
ただ一つの因と果を説くのである。すなわち、〈触という縁から受がある〉という場合は、主要なものであることから、
ただ一つの因と果を説く。なぜなら【触に従って受が確定するため、触は受の主要な因であり】、
また【受に従って触が確定するため、受は触の主要な果である】からである。
〈病気は痰より生じる〉という場合は明白なものであるから、一つの因を説く。
なぜならここでは痰は明白であり、【業などはそうでないから】である。〈比丘たちよ、いかなる善法も、
すべては不正な思惟を根本としている〉という場合は、共通しないものであるから、一つの因を説く。
なぜなら不正な思惟は諸の不善のものであり、
【(他の善などに)共通せず、所依や所縁などが(他の善などに)共通するから】である。
このように縁起は、【形としては一因一果を説くものであるが、その内容は「多因多果」でしかない】
とするのが伝統的な見方である。