仏教 議論スレッド 10

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したがって、この定型句は間違いなく【「縁」と「果」について説明するもの】であると解される。
そしてまたこれは、内容としては『自説経』からも明らかなように、「価値的縁起」と呼ばれる十二縁起のそれであり、
あれもこれもの「一般的縁起」などではないということ、【ただ簡略な表現の縁起】であるにすぎないということである。
伝統仏教には、縁起をその意味での「一般的/価値的」、あるいは「外的/内的」【と区別するわが国のような風潮】はない。
 また、この縁起において看過できないのは、あくまでも「縁」ということが言われ、「因」(hetu)ではないということである。
どちらも初期のうちはほぼ同義に用いられていたようであるが、【その範囲は異なっているように見える】。
「因」は直接的、限定的であるが、「縁」は間接的、包括的である。【「縁」は「因」を補うが、その逆は考え難い】。
その意味では、縁起は常に「縁」と「果」の関係を内容としているから、
本来は「縁果関係」のものとさえ言われねばならないはずである。
それは縁によって、すなわち種々の因によって種々の果があるという関係のものだということであり、
今問題の「因」と「果」の関わりから言うならば、【多因より多果がある】ということであろう。
この点を説明する『清浄道論』(Visuddhimagga,p.542)の一節を以下に紹介しよう。