果たしてオウム・Aleph・ひかりは完璧か?212

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984神も仏も名無しさん
麻原の教義に聖無頓着というのがある。他者に非難されたり、自分にとって否定的状態にな
ることは、カルマが顕現化していることを意味し、落ちていくことを意味している。よって、自分
自身はそのような状態になっても焦らず淡々と物事を進めていけばよいとする。
 麻原の国選弁護人渡辺脩はこのような教義を説法している人間が、自分を非難しているというこ
とで他人を殺害するよう指示することは考えにくいとしている。(『麻原を死刑にすれば、それで
済むのか?』102-104頁)
 もう一つ、『麻原彰晃の世界 第1巻』189-193頁で、麻原が弟子への不信を見せているところが
ある。内容は、瞑想によって、自己の前世で、自分は阿修羅だったことが判った。しかし、阿修羅の
弟子というのは戒律を破るとされている。よって自分の弟子もまた、戒律を破るということである
。残念だが、そうらしい、という。
 先に挙げた聖無頓着は、修行者然とした教義ではあるが、現実社会では、弱いことは否めない。
敵対者からの非難を有難いと思うわけだから。そのような意識の齟齬が、麻原と弟子との間で起こ
っていったのではあるまいか。尊師は甘い、あれでは教団はつぶれてしまう。何とかしなくてはな
らない。そんな意識が弟子に芽生え、教祖の教義とは別の動きをするようになったのではないか、
教団の巨大化と麻原の視力悪化がその傾向に拍車をかけた…それはでもわからない。