>>314 >相依を時系列に乗せたのが因果であると。
そのような謂いも可能だとは思いますが、
>>315にあるように、
「時系列に乗らない相依は無い」という感じでしょうかね。
半歩譲って強いて言えば、
「時間性の排された相依」、それは「無為」であり「「涅槃」としての視座」であり、
(宝珠やカラスがよく引用したw)ウダーナ8.1-4、ウダーナ・ヴァルガ26.29のような謂いとなる、
(或いは、有為無為議論での宝珠へレスしたように)「有為でないもの」というだけでしかない、と。
(現代)大乗的に言えば「仏の視線・視座」「仏の見る世界」「悟りの世界」「悟りの視線」
に於いてのみ言い得る、ということです。
*(或いは、初期の長文中にある「スパンや事象の切り取りに関する件(くだり)」に触れた如くです。)
>つまり相依とはメタな視点なのでは?
「メタな視線が仏教のカギ」だと、1・2度書き込んだことがあると思う。
「勝義の究極はそれ(メタな視線)である」と言ってもいいでしょう。
まさに、そのようにメタな視線による世界が、「重々無尽の縁起」による華厳の法界でしょう。
或いは、曼荼羅もそうでしょう。・・・(この辺は自信無しw)
>それはどうしても必要か?
315にあるように、それ以外に認識は無いからです。
ですから、三法印(Dhp277等.にあるように、特に宝珠と対立するようにw、
『「一切」の範疇はどこまでか?「一切の外」は何か?「有為」とは何か?』という論点と繋がり、
涅槃とは別に「般涅槃」という概念を立てねばならなかったこと、五蘊を離れた成仏がありえないこと、
にも現れていると思います。「一切の外(ほか)は涅槃しかない」、と。
(ちょいと自信不足なんで眉唾レスということでw)