仏教 議論スレッド 8

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258神も仏も名無しさん
縁起する諸法に「スパンの区分を見ない、楔を打ち込まない」というスタンス・視線を取った時、
その時初めて「生起なし」「因果なし」「苦楽なし」と言い得る訳で、
おそらく中論はそれを言っているだろうし、初期仏教に於ける涅槃(ウダーナ8.1-4)も同様だろう。
ここを忘れると、「自身が〈恣意的に〉〈分別している〉にもかかわらず、他の分別を批判する」という
隠居や宝珠の言辞となる。
隠居は、『(実体を認めるということは自性を認めることに他ならないわけだが)、実体と実体の関係という分別・区分が、
上で触れたようなあらゆる分別・恣意性の消失している(滅している)ところの「空」「中道」に反していることに気付かない』。
宝珠は、『諸行(一切・有為)でない意識として〈真我〉等何がしかを、無為のカテゴリに含めて想定しているが、
意識的な要素は勿論、上で触れたようなあらゆる分別・恣意性の消失している(滅している)境地が涅槃なのであって、
《彼が言う全ての要素は、全て有為なるもの》であることに気付かない』。