952 :
神も仏も名無しさん:2011/10/05(水) 21:56:06.88 ID:DF7fMelV
>>950 このスレは1と473とその他だから、たいして人数いないと思うよ。
同じ言葉を使っていながら人と人とは分かり合えないって事が
よく分かる良いスレだと思うよ。
953 :
神も仏も名無しさん:2011/10/05(水) 22:23:45.56 ID:547N6ZRQ
>同じ言葉を使っていながら人と人とは分かり合えないって事が
>よく分かる良いスレだと思うよ。
wwwwww 確かに
>>943 荒唐無稽どころかそれが世界の実相だよね。
その世界は行ったことあるからわかるよ。
そして無意識っていわれる意味がようやくわかった気がする。
我に実体(他に拠らずに独立して生起するもの)はない
といわれても、頭では理解できるけど、自身の存在全体で
理解できていない状態を「無意識の領域では・・・」といって
いるのね。
955 :
神も仏も名無しさん:2011/10/05(水) 23:38:40.78 ID:Hz6lrP+G
なんでみんな「裏ホラー」とかをヤラセ扱いするのだろう。
結論から言えばヤラセですね。
ってそのポーカーフェイスな断定が自己防衛に思える。
少なくとも無感動に言ってるわけじゃないだろう。
956 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 00:19:49.97 ID:Bv+XeiaO
ぺたぺたぺた
957 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 00:38:34.83 ID:azU5cUpa
ここにも来てるのか。すげーな。ゴキブリ野郎
958 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 01:10:36.09 ID:Bv+XeiaO
草履虫ぺたが、喚いてるぺたwwwwww
959 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/06(木) 08:44:35.67 ID:J73IGiI2
>>935 今思えばホントに眠っていたんだなあ、というのが素朴な感想です。
毎日が葛藤の連続でした。
全然役に立っていないのに、その思考を採用し、引っ張られ、自由を失っていました。
考えることで、問題を解決しようとしていましたし、解決できると思っていました。
960 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/06(木) 09:10:50.10 ID:fwZrQ5Bb
>>935 本が好きで、いろんな本から情報を仕入れていました。
これこそ真理だと傾倒した書物もいくつかありました。
知識欲は満たされ、真理を理解した気になり、自分が偉くなったような気分になっていました。
外部からの情報を得て、自我が「分かった」と言って静かになることと、「分からない」と言って問題を放棄して静かになることとは、
結局同じことであることに気づいてからは、外部からの情報に重きを置かなくなりました。(前者のほうがちょっとたちが悪いかもしれませんが・・・)
何かを理解することで精神が開放されるわけではなかったのですね。
これは、私にとって、天と地がひっくり返るくらいの気づきでした。
ターニングポイントだったかもしれません。
いろんなことを知っている私から、何も知らない私に切り替わりました。
一気に楽になりました。
「OK、もう、自分は大丈夫だ」と思いました。
でも全然大丈夫ではありませんでした。
あいかわらず、思考は私を苦しめていました。
観ることをやめた途端に私は自由を失い、混乱します。
だいたい「OK、もう、自分は大丈夫だ」と思って大丈夫だったためしがありません。(苦笑)
観ること、気づいていることは、義務であり、しなければならないことでした。
そして、どこまでも、それは、ノウハウであり、役に立つ道具であり、宝物でした。
私は道を手に入れた、と思い、それで満足してしまったのですが、問題は抱えたままでした。
知識を得て満たされるのも、ノウハウを得て満たされるのも、同じことですね。
それは、実際にそうである時にだけ有効であったわけです。
気づいているときだけ、私は開放されているのです。
そして、このような↑結論すら必要ないことに気づきます。
961 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 11:38:24.32 ID:R2MfUdY0
>>960 何か考える時に、まだ「言語を使った思考」は使ってるの?
言語を使わない思考に切り替わった?
それとも思考を使わずにヒラメキと気付きで対処してる?
962 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 16:32:44.73 ID:sluiFj0J
>>1 悟りって、分かる、分かるんだが、それらの話は
自我がないと分かって、全て一つだった、と分かった
で、それでそれから先は?
普通に会社で一生懸命生きてます、とかいうそういうところ側の話ではなくて
全て一つの側のこと
その先はどうなってるの?
全て一つのその一つのは、何がどうなってそうなってるの?
963 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 21:35:41.74 ID:2j3+lin7
>>962 純粋な意識だけ持って、全てマルっと元通り。
964 :
v・。・V わん♪ ◆WhiteFoxEM :2011/10/06(木) 21:59:23.22 ID:+99dIEUD
965 :
神も仏も名無しさん:2011/10/08(土) 11:10:10.68 ID:NCJx2USp
amaさんの言うようにただ「観る」だけで人々が悟りを啓けたら
大いに困る人達が世の中には沢山いるだろうな 現在の政治商業組織宗教体制は間違い無く崩壊する
現在の社会の大部分は人々の不安の上に基礎を置いてるからね
でもamaさんや今後増加の一途をたどる覚者達を止めることは不可能だ
ただ「観る」だけの人々をどうやって止める?
実に愉快だ
どれ、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズでも読み耽るとするか
967 :
v・。・V わん♪ ◆WhiteFoxEM :2011/10/08(土) 18:45:26.86 ID:mPc0J/Lg
968 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/08(土) 22:17:03.10 ID:3WyQeARp
>>936 > amaさんに聞きたいのですが、念戒定って修められてます?
> 自我の育成(飼い慣らし)ってどうされています?
仏教についてあまり詳しくないので用語などは分かりません。
「念戒定」というのは分かりません。
「自我の育成(飼い慣らし)」というのは、役に立たない思考に引っ張られないようにすることのように受け取れます。
これは、実にシンプルで、役に立たない思考に気づきそして手放す、これだけです。
役に立つ思考を選ぶには、役に立たない思考を手放す必要があります。
思考が相反するとき両方を採用することは出来ないのですね。
私がやっていることは、今というこの瞬間をいつも新しく生きること、です。
目を覚ましていると、役に立たない思考が良く見えます。
そして、役に立たない思考を、自分で何とかしようとしないことです。
何ともできないことに気づくことです。
これがまた出来ないときはホントに出来ない。(苦笑)
その意味では、逆に何とかしようと四苦八苦することも役に立ちます。
人の話を無条件に採用するのではなく、自分で実際にやってみることが私にはとても役立ちました。
考えうるありとあらゆることをやってみて、それでもどうすることも出来なかったとき、
やっと自我(私)はあきらめました。
そして、そのような過程を通じて、私は私でないものに問題を明け渡すことに成功したのです。
このように書いてみると「自我の育成」とは違うような気もしてきました。(苦笑)
私に分かることは、今という瞬間瞬間を新しく生きると、さまざまな思い込みから解放され、精神は自由に活動するということくらいです。
断言が無いときだけ、私は自由です。
(この↑断言も含めて)
969 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/08(土) 22:19:30.94 ID:3WyQeARp
>>936 > 一日、何時間ぐらいニルヴァーナの状態に戻れますか?
> あるいは、最後に戻ったのは何年前ですか?
ニルヴァーナというのがこれまたよく分かりませんが、悟りと同じ意味だとして。
計ったことがありませんので正確には分かりませんが、
その日その日でかなりバラツキがあると思います。
どうでしょう・・・1日のうちで5〜8割程度でしょうか・・・。
970 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/08(土) 22:21:22.42 ID:3WyQeARp
>>936 > 悟りを開くことよりも、悟りを保ち続けることのほうが難しいですよね。
おっしゃるとおり、悟りを保ち続けることは至難の業です。
なぜなら、保ち続けられるものではないからです。
私(自我)は、保ち続けられないものを保ち続けようとするのです。
当然それは徒労に終わります。
「悟りを開くことよりも、悟りを保ち続けることのほうが難しいですよね。」
という表現は言い得て妙です。
実に深いです。
私に出来ることは、悟りを開くことだけだからです。
それは、具体的には、私でないものに私を明け渡すことです。
私でないものに私を明け渡しておきながら、同時に(直後に?)、明け渡すのを拒みます。
私が悟りを継続しようとするということは、そういうことです。
私が主人でいたいのです。
完全に矛盾しています。
分裂しています。
悟りは、1回ぽっきりのものです。
2回目はありません。
ましてや、継続などありえないのです。
前にも悟ったことがある、とか、悟り続けている、と言っているのは私(自我)です。
もし、悟り続けていると思えるなら、私は過去を生きていることになります。
今という瞬間にはあまりにも何も無い。
もちろん時間も無い。
971 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/08(土) 22:24:52.31 ID:3WyQeARp
>>970の続き
別の観点から観てみます。
私(自我)は、悟りを拒みます。
よく観てみると、どうも恐怖が原因のようです。
人は未知のものを恐れます。
悟りは私の知らないものだから怖いのです。
そして、それは、私(自我)の死でもあります。
怖いのは当然です。
知っているところに、既知の領域に、私はいようとします。
それは、過去ですね。
ですから、今という瞬間から離れ、過去に戻るのでしょう。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とはよく言ったものです。
飛び込んでしまえば、未知の領域には、私を縛り付けるもの(断言)が無いので、
とても心地よいことが分かります。
悟ることは、その寸前までが最も難しく、一旦飛び込んでしまうとあまりにも簡単なことなのですね。
972 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/08(土) 22:32:49.53 ID:3WyQeARp
>>971の続き
継続は力なり、という言葉がありますが、悟りの継続にこれは当てはまりません。
継続させようとする思考が覚醒を邪魔します。
そもそも悟り自体が継続できるようなしろものではないのです。
継続は過去の繰り返しであり、思考はそれを持って来ようとしますが、悟りは今という一瞬一瞬にしかありません。
悟りは、努力や根性で得たり継続したりするものではないのですね。
精神(自我)がそこは怖くないという結論を出し、継続と言う観念から自由になったとき、今と言う永遠を生きることが出来ます。
私は、いつでも初めて悟ります。
973 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/08(土) 22:36:36.11 ID:3WyQeARp
974 :
v・。・V わん♪ ◆WhiteFoxEM :2011/10/09(日) 00:48:17.96 ID:9MNPZV/M
975 :
473 ◆xIpfQokPjM :2011/10/09(日) 02:12:02.21 ID:90N3Fbrz
>>973 どんなものもこんなものもないよ。
あなたが特殊な定義で悟りという究極を示す言葉を使うものだから、便宜的にその上位概念として
光明を持ってきただけで、このスレッドだけ、あなたと私の間でだけその時定義したのが光明ということばであって、
他の人が他の状況で定義した光明とは全く関係がありません。
普通悟りと光明は同じ意味で使われるのですが、瞑想や覚醒や一瞥に値するものを悟りという言葉で通すものだからややこしくなるのですね。
言葉ではなく中身の、認識のやり取りができないということはどういうことか。
言葉を自分の定義でしか使えないで肝心の意思の疎通ができないのは言葉の夢の中に浸りきっていることの証か。
私とてその不自然と不自由にもがいている。
>>969-970 主体と客体があるならそれが俗であっても悟りであっても変わりのないものです。
また無時間無主体無客体の時間が半分以上で(まあ無時間なので外にしか時間はないですが)、主体がある時間が半分以下
というのは素晴らしいペースですね。
976 :
473 ◆xIpfQokPjM :2011/10/09(日) 02:31:33.63 ID:90N3Fbrz
>>970 悟りは体験ではないですよ。
保ち続けようとすると保てなくなるのは瞑想体験であって、
悟り(私の言う瞑想)は保とうとする表層意識はすでに静まっていてそういう心配はないです。
悟ったときに起きる瞑想体験への執着が無くても、深層心理から主権を奪い返そうとする思考が
無限に湧き出てくるのでそちらに知らぬ間に主導権を取られることが問題です。
悟りは体験ではないのでそれに執着する心配はありません。
悟りの状態の時に副産物として起きる体験への執着は苦しみをもたらします。
しかし、そもそも質問者は瞑想体験の次元にいるのであり、体験を脱して悟りそのものに一瞬でも触れた(ように見える)あなたとは
別の次元にいるのですよ。
あなたが悟りについてではなく瞑想について969970で語っているならそういうものだし、質問者に答えてもいますが、
それが悟りというのは嘘だし、悟りにそういう特性と障害があるというのも嘘です。
それは悟りでもなく瞑想でもなく瞑想的体験ですから。
というより今のあなたにとって悟りとは体験にすぎないのではないでしょうか。
(体験ならざる次元の一瞥はしているように見えるけど、これは結構一度きりでもう一度までが長い。人のこと言えないかもしれない。参考文献このスレのテーラワーダのリンク)
どうもこの質問者の次元と調子があっている。
970の「私」もそんなのは表層意識にすぎないのでありそこから言葉にならない数百数万の記憶と思考の集合体が熔けてゆくか主導権を奪い返すかの
言葉も形もない成り行きが始まるのです。主体と客体の関係が消えるか残るかの、、。
977 :
473 ◆xIpfQokPjM :2011/10/09(日) 02:33:21.51 ID:90N3Fbrz
悟りの状態の時に副産物として起きる体験への執着は苦しみをもたらします。 )
この文は不要ですし、そもそも中身が変です。
978 :
473 ◆xIpfQokPjM :2011/10/09(日) 02:35:17.00 ID:90N3Fbrz
瞑想について
訂正
瞑想体験への執着を脱し瞑想そのものの一瞥(あなたの言う悟りの一瞥)
を得るためのヒントとして
>>972 レスありがとうございます。お話よくわかりました。
私も悟りは一度開いています。
過去現在未来の時間も無いことなのもわかります。
無条件の至福も、全てが統一された状態もわかります。
ただ、自我の認識の上では、それらは過去の悟りの経験から
導き出している状態で、現在進行形の状態ではないのです。
そこで、頻度について教えてください。
悟りは一度だけしかなれないものですか?
それとも、行ったり戻ったりできるものですか?
ついでにamaさんの日常的な頻度について教えてください。
amaさんは毎回毎回、初めて悟りを開くことを毎日してますか?
毎日するなら朝1回夕1回とか風邪薬みたいな間隔ですか?
次が無いと言われても、結局は他にどうしようもないので、
再び悟りに至ることになるんでしょうけど、体を持ち、仕事をする
生きた人間としての日常の中でどうされているのかを知りたくて。
980 :
神も仏も名無しさん:2011/10/09(日) 14:28:57.17 ID:Xn6n22jC
なかなかいい質問だよねえ
981 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/09(日) 22:27:47.86 ID:rLcsbIPO
>>961 考えるときは言葉で考えたり、イメージで考えたりしています。
また、ヒラメキも気づきもあります。
982 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/09(日) 22:29:39.84 ID:rLcsbIPO
>>962 私がいます。
それはとりもなおさず私はいないということです。
単純明快です。
その先はどうにもなっていません。
すべてがひとつは、ひとつがひとつとしてあるだけです。
私達は問題を複雑にするのが好きです。
それは、裏を返せば、世界がシンプルだからこそ、真っ白だからこそ、
いろんな絵を描くことが出来る、つまり、問題を創造し、更には複雑にすることが出来るということです。
983 :
神も仏も名無しさん:2011/10/09(日) 22:39:21.97 ID:UG3YJLmw
>>982 そのひとつは、いつ、どのように、何から始まって、これからどうなるの?
私らは生きて死んで、それで?
984 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/09(日) 22:54:18.64 ID:rLcsbIPO
>>975 > どんなものもこんなものもないよ。
> あなたが特殊な定義で悟りという究極を示す言葉を使うものだから、便宜的にその上位概念として
> 光明を持ってきただけで、このスレッドだけ、あなたと私の間でだけその時定義したのが光明ということばであって、
> 他の人が他の状況で定義した光明とは全く関係がありません。
そうなんですか?
OSHOの話を持ち出していらっしゃったので、てっきりOSHOの言う光明かと。
985 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/09(日) 22:56:28.20 ID:rLcsbIPO
>>975 > 普通悟りと光明は同じ意味で使われるのですが、瞑想や覚醒や一瞥に値するものを悟りという言葉で通すものだからややこしくなるのですね。
そうですか・・・。
まあ言葉の定義は二の次ですからこの際何でもいいのですが、でも、一般から大きく外れるとこれは厄介ですね。(対話が成立しない。)
たしかに、怒りや恐怖が全く起こらない状態を悟りというなら、私のは、悟りではありません。
そこで、どの言葉を使うかですが、
心がパカッと開かれている状態、
頭がスコーンと突き抜けている状態、
ボーっとしていない状態、
色んな思考の動きが観えていて引っ張られていない(囚われていない)状態、
自分の中の恐怖がよく観える状態、
一切の前提無く観ている状態、
断言を持ったままではそこに至ることが出来ないそこの状態、
このような状態はなんと呼ぶのがふさわしいでしょうか?
瞑想?覚醒?
986 :
神も仏も名無しさん:2011/10/10(月) 09:24:51.88 ID:VycGMaKO
>1
悟るって、自分の心が消える事ではないですか?
悟りを開いたとして、仏との接触について書かれてる人が居ないけど
仏と会わずして悟りを得たと思ってるのでしょうかね? ナンセンス
988 :
473 ◆xIpfQokPjM :2011/10/10(月) 13:00:31.55 ID:SdJ0FcHP
>>985 言葉はどうでもいいですが、定義は対話において非常に重要です。
悟りや光明の定義?
はいくらか覚者の本があればわかりそうです。
寝ているときでも意識が途切れない。
体への執着がない宇宙全体そのものでありまた更に無である。
主体と客体の関係がない。
過去生への完全な覚醒。
覚者たちの語り方。
こういうもの、また各覚者さんたちと比べて遜色のない存在であれば悟りという言葉に
違和感はないかもしれません。
実は状態そのものを重視した覚者はあまりいません。
それらの状態は私たちの日頃の執着や日頃の苦しみという背景があってこそそのコントラストとして
頭がスコーンと突き抜けている状態、
ボーっとしていない状態、
色んな思考の動きが観えていて引っ張られていない(囚われていない)状態、
自分の中の恐怖がよく観える状態、
一切の前提無く観ている状態、
断言を持ったままではそこに至ることが出来ないそこの状態、
があるのであり、状態自体はそれが苦しみでも快楽でも無でも幻想に変わりはありません。
しかし静かな幸福、無をもたらすところのその無条件の中心をいかに見出すかについて覚者は語りました。
中心、原因である無条件のものではなく起きたことについて語ると、また起こることが難しくなります。
またそれへの執着が起き他の体験、社会的生活と対立もするでしょう。
989 :
473 ◆xIpfQokPjM :2011/10/10(月) 13:16:06.08 ID:SdJ0FcHP
また起こることがある程度コントロールできるレベルもまたあります。
これは表層意識の動機を静めて瞑想に至った(あなたのおっしゃる悟り)人であれば
そういったことをある程度自由に起こせるでしょう。
しかし、肝心なのは、その瞑想的な状態その自由のような感じの前提としてある、我々の無意識の活動であり、
また主体客体の2元性が作り出す不可避の悲喜劇の克服なのです。
この次元にいる人もいる人で状態にかまうより他に見出すべきことが残っているように思います。
≫このような状態はなんと呼ぶのがふさわしいでしょうか?
瞑想体験であり、また体験は幻想であるからこだわらないようにと説きます。
日々気づきと意識を研ぎ澄まし起こったことはこだわらないようにと説きます。
そして状態や体験を超えた記憶も表現もできない出来事の中心が起き、物事の認識や瞑想への在り方が全く変わったとき、
それを瞑想するではなく瞑想が起きたといいますし、また瞑想するという言葉以上光明以下という文脈で覚醒という言葉も使います。
しかし、なんにせよ文脈です、言葉は相手の定義への対応や、自分の文脈の中でどの言葉同士どの定義同士の対比で使うかによって意味は変わります。
言葉は相対的なものです、悟りを下位概念として使うことも上位概念として使うことも文脈と他の言葉の定義次第かと思います。
悟ったという言葉は自分が仏陀やoshoと同格と宣言しているようなものであり言葉の用法として乱暴だし、どうにも謙虚さというか怖いもの知らずだ。
文体も語る内容も明らかに彼らよりスケールが小さい。
とりあえず和尚グルジェフクリシュナムルティや他の宗教の文献をあさって、彼らには及ばない自分の位置を正確に言葉で表すにはどうすればいいか
研究しとくのが普通。
そしてそうすることで自分の現在の位置も解り、旅を続けられる。
もうここが終点だと思いたいかもしれないけれど。(でなければ悟ったとか言うかな)
>とりあえず和尚グルジェフクリシュナムルティや他の宗教の文献をあさって、
>彼らには及ばない自分の位置を正確に言葉で表すにはどうすればいいか
>研究とくのが普通。
研究しすぎちゃって、トラワレちゃうヒトもいるよねw。
「がんじがらめ」って自分じゃ気づけないのかなあ。
だからがんじがらめって言うのかもしれないけど。なんか気の毒になってきた。
991 :
v・。・V わん♪ ◆WhiteFoxEM :2011/10/10(月) 15:34:10.41 ID:0b++5UNU
992 :
神も仏も名無しさん:2011/10/10(月) 15:46:12.37 ID:cRjxlGZ4
>>987 >仏と会わずして悟りを得たと思ってるのでしょうかね? ナンセンス
何故?
993 :
神も仏も名無しさん:2011/10/10(月) 16:06:02.53 ID:SOLpJH2j
>>987 悟っても仏には会わないよ。
だって私が仏そのものだからね。
995 :
473 ◆xIpfQokPjM :2011/10/10(月) 17:22:21.30 ID:SdJ0FcHP
悟りに研究は不要ですが、過去の人とまた現在の人々がどのような定義で言葉を使っているかは研究しないと
意志の疎通が困難です。
またその定義の違いこそ異なる構造を持つ自我と自我の対立でありその関係性から多くの事を学ぶことができます。
996 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/10(月) 21:07:28.38 ID:m3J7CC5t
>> 976
> 悟りは体験ではないですよ。
それは自ら確認されたということでしょうか?
> 保ち続けようとすると保てなくなるのは瞑想体験であって、
> 悟り(私の言う瞑想)は保とうとする表層意識はすでに静まっていてそういう心配はないです。
473さんは、瞑想から出ることがないということでしょうか?
> 悟ったときに起きる瞑想体験への執着が無くても、深層心理から主権を奪い返そうとする思考が
> 無限に湧き出てくるのでそちらに知らぬ間に主導権を取られることが問題です。
473さんのおっしゃる瞑想体験とはどのようなことを指して言ってらっしゃるのでしょう?
瞑想との違いは?
473さんの瞑想は、悟りとほぼ同義ですか?
997 :
ama ◆BmUbLWewsM :2011/10/10(月) 21:14:17.21 ID:m3J7CC5t
998 :
神も仏も名無しさん:2011/10/10(月) 21:20:28.85 ID:uIN6Spm8
梅
松竹梅
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。