>>476 1:《「時間性」の排除された「相依性」》ということであれば、
「含まない」と私は言い切ります。
*(ただ、(何であれ)『「時間性」を含まないということがあり得るのか?a』とも思ってますがねw)
2:これは、私には答えられません。
龍樹の縁起が、どこまで相依性を含んでいるのか(或いは含んでいないのか)、
そこまで突っ込んで中論と格闘してませんので・・w
*(ただ、たとえ中論であっても、
(→論理的同時性、相支える形での論理的関係性bは認めたとしても、―これは初期仏教でも同じ―)
それを越えた(「汎用的なもの、何でもアリ的なものとしてc」)『「相依」と言う必要はなく、「縁起」だけで十分ではなかろうか?』
とは思っていますが・・w)
※
a:たとえば、繰り返し・円環・の問題です。
「同じ場所に立っていても、トラックを走っていないことと1周とでは違う」というようなものです。
或いは、可逆性の問題です。
「友人と楽しく会話する時、以前と変わらず、全く同じく“楽しい”としても、喧嘩をする前と後とでは違う」ようなものです。
b:たとえば、
《「苦の滅」と「涅槃」》、《「教える側」と「教わる側」》、《「右」と「左」》、《「勝ち」と「負け」》、
*(例の挙げ方に、今一自信無し)
c:隠居が例に挙げるもの殆ど全て。
*(つーか、咄嗟に思いつかないだけw)
>仏教の認識論は常に時間軸が前提となると思うが?
少なくとも私は、「時間軸を抜いて仏教はない」と考えています。
もし、抜かれたものとして何かあるなら、それは仏教ではない、と・・。(普通に哲学の一種であるだけでしょう。)
少なくとも、「縁起」ではない、と・・・。
>>478 そうかな・・。「主体」の性質(定義条件)及び登場する文脈に依存して、「この場合は〈ある〉〈必要〉、この場合は〈無い〉〈邪魔〉」
って感じのつもりだが・・。 ちょっと考察し直し中&作文中w