>>372 言語は、最も広い意味では慣習の一部だが、通常、両者は区別される。
慣習には、言語のほかに、共同体成員の共通の行動や思想を含む。
>>370 石飛氏が、中論全体の基調ともいうべき「相対性」にかかわらず、なぜ
「相互依存性」を認めないのか、理解に苦しむ。釈迦が「相互依存」を
説かなかった、という理由だけではないか。釈迦は「輪廻転生」はたっぷり
説いている。「相対」とは「二つまたはそれ以上のた対象の相互の関係だから、
「相互依存」でなければ、「相対性」も、従って「空」も成立しない。
対象同士が「お互いに影響を及ぼしあう」のが「相対性」である。
石飛氏が「因果関係」と解釈するのは、専ら釈迦の「業報論」を導くため
である。
>>371 「狂気」とは、共同体の成員の平均的認識、思考、感情、行動からの
著しい偏倚のことである。従って、平均的成員には、容易に判断可能。
聖書の時代からそうだった。イエスを直接に良く知る家族、郷里の人々、
ユダヤ教徒は、イエスを基地外と判断し、その旨を証言している。
>>369 時間を縁起概念に含めたら、少なくとも一体時間前の変化しない実体を
認めることになり、「空」は成立しない。
なお「法」については、釈迦が森羅万象を説くことは不可能で、しかも
「法」は番人に認識されない限り「検証」できず、従って釈迦の独りよがり
になる恐れがあるから、「法」とは「釈迦の教え」を超えるものであり、
釈迦も法には従わなければならない。