>>79からの続き
大聖人は、同じく『木絵二像開眼之事』で次のように仰せです。
「法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち
と・あらはしぬれば顕形の二色となれるなり。滅せる梵音声、かえつて形
をあらわして文字と成つて衆生を利益するなり。人の声を出すに二あり、
一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす。是
は随他意の声。自身の思を声にあらはす事あり、されば意(こころ)が声
とあらはる。意は心法、声は、色法。心より色をあらはす。又声を聞て心
を知る。色法が心法を顕すなり。色心不二なるがゆえに而二(にに)とあら
はれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御
意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思食(おぼしめす)
事なかれ。すなわち仏の御意なり」(468ページ)
通解:
(法華経の文字は、目に見えない仏の梵音声を目に見えるかたちとして顕わし
たので、顕色(色彩)と形色(形状)の二色となりました。滅した梵音声がかえっ
て形をあらわして、文字となって衆生を利益するのです。人が声を出すには二
つの場合があります。一には、自分自身は思っていないけれども、他人をたぶ
らかそうとするために声を出すことがある。これは随他意の声である。二には、
自分自身の思いをそのまま声にあらわすことがある。ゆえに意が声とあらわれ
るのです。意は心法、声は色法である。心法より色法をあらわす。また声を聞
いて心を知ります。色法が心法をあらわすのです。色心不二であるがゆえに色
法、心法の二つとあらわれて、仏の御意があらわれて法華経の文字となった
のである。法華経の文字は変じて、また仏の御意となるのです。ゆえに法華経
を読まれる人はたんに文字と思ってはならない。それは仏の御意なのです。)
(続く)
>>80からの続き
つまり梵音声は、木像や絵像という形のあるものでは顕わすことができません
が、文字によって顕わすことができます。そして、仏の御意(心法)も文字となっ
て顕わすことができるのです。
日寛上人の御形木御本尊(創価学会の御本尊)を見れば分かるとおり、仏像
などとは違い、文字で顕わされています。ここまで話せば、もうお分かりですね。
御本尊には、開眼供養などする前から、梵音声も心法も具わっているのです。
日顕宗では、すべてが満たされている御本尊に開眼供養をして何を入れようと
しているのでしょうか?
仮に日顕、日如の心を入れているとしたら、それこそ気持ち悪くて祈れません
よね。