吉祥寺キリスト集会の現実を語ろう Part6

このエントリーをはてなブックマークに追加
775道しるべ
>>768
聖書の基は「契約書」だよ

モーゼの十戒は神と人との契約であって、1、神の自己紹介「私はお前達の神YHWH」であり、
2、過去の歴史と与えた恩恵「お前達をエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである」
3、契約条項の第一条「お前は私のほか何者をも神としてはならない」以下の契約条項として十の戒めがあり、
4、その証拠として「二枚の石の板にきざまれた契約書」が与えられた。
5、契約を守った場合、破った場合は「見よ、私は今日、お前達の前に祝福と呪いを置く。
もし今日、私がお前達に命ずるお前達の神YHWHの命に聞きしたがうならば、祝福を受けるだろう。
お前達の神YHWHに従わず私が今日お前達に命じた道を離れ、お前達の知らなかった他の神々に従うなら祝福を受けるだろう
上記のように聖書の契約は、「上下関係の契約」だが、それは絶対者なる神との契約を絶対に守ることが「信仰」
すなわち、「神への忠誠」であるから、その意味は、日本人のいう「信仰」「信心」とは言った言葉と非常に違う。
(カトリックの聖人とは、マザーテレサのように神への忠誠を果たすことは当然であるとし、新約聖書の掟を実行した人々だよ)
契約は、A上下契約 B相互(対等)契約  C履行契約 D保護契約と四種類あるが、神との上下関係が基となっているから契約宗教と呼ばれるが、
後になると政治体制を「神との契約」とする見方が明確に出され、「憲法絶対」のように「神との契約」が基本法となっているわけだ。
日本の歴史には、上下関係の契約の概念が無いこともあって(天皇や城主との間の契約を死んでも完全に履行するのが忠だという発想なし)
カトリックの書物(新約聖書)には契約という言葉が幾度も使われていても、日本人がキリストが何処と契約したかつかめない理由は、
日本人が諸外国に比べて契約に疎いこともあって、聖書全般が「契約」で成り立っていることを理解しづらいからだろうね。