>>785 その辺は、メリットデメリットの計算式でプラスの値が出るかどうかじゃね?
「『(“この”)苦』を無くしたい」という、「自我に基づく“志向性”」であることは(縁起一代でもw)否定はできないだろう。
(それを「発心」「菩提心」「求道心」等、何と呼ぼうが、その本質は変わらない。)
自死が忌避される一つの大きな理由としては、
(そこにあるように)「短絡的である」ということになろう。
その行為により影響を受ける範囲を思慮・想像すれば、
それは《「仏道に適う、善なる(→他のためになる)行為」とはならない》という判断となろう。
また今一つは、《縁あって生じたこの命(≒肉体)を故意に損壊することもまた、そうはならない》という判断となろう。
なれば、(多大な肉体的痛苦は一先ず措いて)、少なくとも精神的苦悩は、
心の向きを変える(≒念を確立する)ことにより解決させることが、対外的メリットを生じさせる行為となる。
そして、求道の心が自我に発するものとしても、
行じることによる(これは出家者の行だけでなく、凡夫の日々の実践努力も含め)
これまでの悪縁の清算と良縁への酬いへ繋がるという点で、
(そして、行が進めば、最初の“自我に起因する”志向性もまた薄まり、消失するという点で)、
「悟りへ向う志向性」「苦の厭離」は許容される、と。
(「理論上は、的確に行じれば目の当たりに「安楽」を見ることができる」ので、
夢物語でない確かなゴールが、「ふさわしい方法で」目指される限りに於いて、
自我から発する動機は許容される、と。)
また、その初手の段階ならずとも、以降の日々が過ぎる中、
一挙手一投足を善なる方向へと選び取っていくのは、自我(自己)の志向性に拠らざるを得ない。
そこに加味される慈悲の分量が増えていくとしても・・。
そうした中、自我への依存は、上記慈悲に反比例するが如く低下するので、
初手及び助走として許容される、と。
(そこに確立されるのは、種々の感受に振り回されない「洲としての」自己である、と。)
>>785 >『その差異はどのようなものかな?』
上記793は、かなり晦渋だが、
《「仏道に適う、善なる(→他のためになる)行為」が、行じるにあたって為されるから》
とは言い得るのでは?
(「法の六徳・サンガの九徳」、或いは梵網経に於ける「如来の小戒・中戒」、
或いは沙門果経における「目に見える果報」なんかは、少し参考になるかもしれない。)
決して、そのまま「自己中心的ベクトル」が「保たれ」、「増幅され」るわけではない、と。
寧ろ減衰する結果を導くから、と。
日常、幾つもの行為が為されるわけだが、それら一つ一つが、上のような基準に照らされて、
「善き行為(涅槃に資する、他の爲となるもの)/悪しき行為(苦の因・縁となる、他を害する・迷惑となるもの)」
と、選別されるが如くに・・。
そこに、差異を見る、と。
(この辺は縁起一代の方が適任かもしれんなw)
大般涅槃経に、釈尊の述懐がある。
「私は、善(kusala)を求めて出家し、正理と法の領域のみを歩んで来ました。この他に沙門は・・」(中村訳を簡略化)
「私は、善(kusala)を求めて出家しました。理の法のために観を行う者の他に沙門は居ません」(片山訳を簡略化)
と・・。(ここに於いて「理(正理)」(JAya)と「法」(dhamma)とに、どう解説をつけるかは大きな問題だが・・w)
仏教(或いは禅も相似していると思うが)の面白いところは、
釈尊の出家の動機は、文字通り「自我より発する個人的苦悩の解決」だったわけだが、
「そうした、“苦を抜けたい”という自我より発する諸々が、自我そのものが、実は苦の因であった」
という点かもしれん。
つか、いいのか? ここでこういう話が続いてもw