>>776 「殉教」は「護教」aの精神であり、「教義・おしえの重要性・正当性の誇示・公示、或いは尊重・崇敬」であり、
「殉職」は「護義(≒正義)」aの精神であり、「職務の重要性・正当性の尊重・崇敬、或いは誇示・公示」であると言える。
「殉死」は・・・、上記以外に殉ずるもの総括りとなるか・・。
(勿論、これらに逃避の要素が加味される場合も多かろう。)
だが、つまるところ「a」に対するこだわり(執着)であると見做すのが仏教的視座なのかもしれない・・。
程度の差こそあれ、そうした「こだわりの強迫観念化」(→文字通り「執着」)
が推進力となっているという点で、度を過ぎているという点で、
(所謂、精神科の診断的な病とまでいかずとも、その種・質を異にするとしても)
「病的」と言えるかもしれません。
もし、「殉教」に於いて、
≪“神”なり何なり(或いは“教祖様、指導者等”)「崇敬、従属する“存在”への
『信仰のアピール』『信仰の証』」として≫それが為されるなら、
それは「強烈な自己主張」であり、「こんなに真剣・誠実なな自分を高く評価してほしい」などといった
「自我への捕らわれ」「自我への執着」「名誉欲」「自己愛」「我見」に他ならないでしょう。